第85話 送還命令書(3)――ほつれの月
封筒には、印が二つ押されていた。
一つは刑務所の検閲印。もう一つは管理局の検閲印。
二つの印の下には、それぞれボールペンで同じ言葉が添えられていた。
判読不能。
刑務所の検閲官と管理局の検閲官が、別々にこの手紙を開け、別々に読もうとして、別々に諦めたのだ。
二つの機関が同じ結論を出した書類を、俺は初めて見た。
* * *
班長がその封筒を持ってきた。
配膳口から押し込むのではなく、扉を開けて入ってきた。
判読不能の郵便物は受領確認の署名を取らなければならない規定がある、と班長は言った。
何が書いてあるか分からない手紙を受け取ったことを、収容者本人が確認しろ、ということだ。
後でその手紙のせいで何か起きたら、受け取った人間の責任だ、という意味だった。
俺は受領確認書に署名した。
内容確認の欄には、四角が二つあった。確認済み、確認不能。
班長は「確認不能のほうに印を付けておけ」と言った。
まだ読んでいないのだから。
俺は封筒を受け取った。
差出人の欄には、宗教団体○○会、代表1人、とこちらの文字で書かれていた。
その下の住所は、ソウルの大聖堂。
封筒の中の紙は一枚きりだった。折り目が三つ。
広げると、文字が見えた。
あっちの文字だった。
* * *
その週のはじめ、テレビにあの子が出た。
夕方7時のニュース。空港の到着ロビー。
宗教団体○○会の子ども代表が、海外支部の巡回を終えて帰国した。
白い服を着た人たちが、到着ロビーの前に並んでいた。何人かは、折りたたみ椅子を畳んで脇に挟んでいた。水筒を持った人もいた。
一晩中待っていたらしかった。
あの子が歩いて出てきた。白い司祭服、袖。大人の司祭が二人、両脇にいた。
あの子は小さくなっていた。
出国のときより、一目で分かるほど小さかった。2か月のあいだに。
司祭服の袖が、手の甲どころか指の先まで覆っていた。
あの子は袖をまくり上げなかった。手を振りもしなかった。カメラのほうを一度見て、歩いていった。
歩みが妙に遅かった。子どもの歩みではなかった。長く歩いてきた者の歩み、足の重い者の歩みだった。
居間の長椅子で、牧師が舌打ちした。
「業界の先輩が縮んだな」
「2か月で、ああなるものですか」
うなぎの刺青が尋ねた。牧師は、海外で苦労したからだと言った。海外支部は献金がうまく集まらず、代表がみずから苦労するのだという。
点をひとつ多く数える男は、あの子の背丈を指で測ってみて、この前よりふた節ぶん小さくなったと言った。
実際はひと節ぶんほどだった。だが、その男の勘定ではふた節だった。
俺は、あの子の目を見た。
あの子はカメラを一度見た。その目は、カメラの横を見なかった。出国のときのように、画面の端の外を探さなかった。
正面を見た。カメラのレンズの真ん中を。レンズの向こうの、この居間を。この居間の長椅子を。そして、そこに座っている俺を。
探す目ではなかった。すでに見つけた目だった。
うなじが冷えた。指はなかった。冷たさだけがあった。
護送車両でうなじを撫で上げ、俺の中を突いて去った、あの指の場所が。
* * *
俺はその紙を広げて手に持ち、長いこと立っていた。
あっちの文字。
この身体は、その文字を一行も読めなかった。
叙任証書も、帰還命令書も。
司祭が指で示してくれて、ようやく自分の名前がどこにあるのか分かった。
この1年半、俺もその文字が読めなかった。
相談室の机に爪で刻んでおいても、読めなかった。
今は、読めた。
一番上には、文書の名前があった。
あっちの文書と同じように、様式があった。招請事由書と同じ形だった。
だが、あっちの文字ではなかった。
我が国の文字だった。
学堂で10歳のときから、師の縦書きをなぞって書きながら覚えた文字。縦に、右から左へ、途切れないように。
送還命令書。
俺はその五文字を、声に出さずに読んだ。
その下に、欄が続いていた。
対象:初霜の城中庭に立たなかった者。
事由:封印の約束不履行。
執行:送還。
執行者:王室の封印官。
執行場所および日時:追って通知。
対象の欄には、名前がなかった。
名前の代わりに、その一文があった。初霜の城中庭に立たなかった者。
封印官は、俺の名前を知っていた。条件文に、俺が署名した名前を。
なのに、その名前は書かなかった。代わりに、俺が何をしなかったのかを書いた。
それが、俺の名前であるかのように。
* * *
俺はその書類を読み終えてから、寝台に腰を下ろした。
牧師が入ってきた。作業場から戻ってきたところだった。
牧師は俺の手にある紙を見て、訊いた。
「なんだ、そりゃ。外国語の聖書か」
「命令書です」
「誰がお前に命令するんだ」
「約束の相手です」
牧師は紙を覗き込んだ。縦に流れ落ちる文字だった。
その文字を見て、牧師は俺のノートの後ろの字を思い出したようだった。
牧師は、ノートの後ろを最初に見つけた人間だった。午前3時、明かりも点けずにその字を書いていた俺を。
牧師は紙から目を離し、俺を見た。
「読めるのか、これは」
「読めます」
牧師はしばらく何も言わなかった。
それから、受領確認書の確認不可の欄を指でつついた。
「これは直さねばな」と言った。確認済みに。
そう言って、牧師は笑わなかった。
その夜、牧師は音のない讃美歌を歌わなかった。
代わりに寝台に座って、俺に計画を話した。
逃げるつもりなら自分も仲間に入れてくれ、と言った。
自分は刑務所を七か所回ってきたから、塀のどこが低いかは知っている、と言った。
この刑務所の塀は運動場側が一番高くて、食堂の裏が一番低い、と言った。
食堂の裏の塀の下には排水口があって、人間一人なら入れる、と言った。
ただ、自分は腹が出ているから入れない、とも言った。
だから俺が先に外へ出て、外から塀を壊してくれ、と言った。
俺は逃げない、と言った。
牧師はしばらく俺を見ていた。
それから、それが一番危険な計画だ、と言った。
逃げる奴は捕まれば終わりだが、逃げない奴は、やって来る奴を相手にしなければならない、と言った。
牧師は、自分は一生逃げてきた、と言った。信者から、刑事から、神様から。
だから、やって来る奴を相手にしたことが一度もない、と言った。
相手の仕方も分からない、と言った。
「お前はどうなんだ」と訊いた。
俺は知らない、と言った。
牧師は、なら二人とも知らないってことだ、と言った。
二人とも知らないなら、一緒に知らないままでいればいい、と言った。
翌朝、配膳口が開いた。
「あいさつ」だった。
「こんにちは」
俺は答えた。
あいさつの手が、食器の盆を押し出してから、少し止まった。
あいさつの目が、俺の寝台の上に置かれた紙にとまった。
三つ折りの紙。検閲の印が二つ押された封筒。
判読不能の郵便物が届いたことを、あいさつは勤務日誌で見たのだろう。
あいさつは何も訊かなかった。
蓋を閉めた。
だが、その日は、廊下を歩いていく足音がいつもより遅かった。
歩く人の息ではなく、何かを考えながら歩く人の息だった。
* * *
封印官はあの日から、俺を探していた。
初霜の日の朝、俺は城中庭に立っていなかった。
封印官は一年半かけて編んだ封印の枠を抱えて、あの中庭で待っていただろう。日が高く昇るまで。
俺は来なかった。
封印官は、俺がどこへ行ったかを突き止めたはずだ。神殿の庭で引き裂かれた司祭の痕をたどって。光の門の痕をたどって。その門の向こうの空を。
空と空の間を手探りするやり方があるのか、俺は知らなかった。封印官は知っていた。
封印官は、俺を閉じ込める枠を新しく編んだ者だった。俺のような者を追うやり方も、新しく編めたはずだ。
うなじの指。
四か月目になった日、移送車両の中で初めて来た。この身体の中の二人を順に押さえ、俺を押さえ、そして止まった。その指が俺を起こし、あの騎士が俺に気づき、あの人の息が、俺たちの手の中で止まった。
そして少し前、護送車両でまた来た。同じ場所を押さえ、確かめ、去った。
その指は封印官のものだった。空の向こうから手探りする手。
最初はどの空か分からずに手探りし、二度目はその空を確かめるために押さえた。そして、確かめた。
なぜ、よりによってあの日だったのか。
なぜ、よりによってあの時刻だったのか。
二か月前、護送車両の中で、俺はそう訊いた。
今は答えが分かる。
あの日、あの時刻に、封印官の指が初めてこの空に触れた。その指がこの身体の中を押さえたのが、あの車の中だった。
車の中は狭かった。
* * *
命令書の最後の行は、欄の外にあった。
執行場所及び日時の欄の下。罫線がとっくに終わった余白に。他の欄より字が大きい。縦に一行。途中で途切れないように。
その字を、俺は知っていた。封印官の字ではない。
封印官は語尾を長く引く人で、字も長く引いた。最後の一行は短く、硬かった。子どもの手が書いた字のようだった。子どもの手で、老人が書いた字。
その子どもは、海外から戻ってきていた。一目で分かるほど小さくなって。老人の足取りで。カメラのレンズの真ん中を見て。そして、この手紙を子どもの名前で送った。
俺はその書類を畳んだ。折り目のとおりに三つに。畳みながら、最後の一行をもう一度読んだ。
* * *
次の日の午後、その書類を相談室へ持って行った。
相談員は書類を受け取って、長いこと眺めた。読めないことを確かめるのに、それだけ時間がかかった。そして書類を俺のほうへ回して、読んでくれと言った。
俺は読んだ。我が国の言葉で書かれたものを、この国の言葉に置き換えて。
送還命令書。
対象、初霜の城中庭に立たなかった者。
事由、封印の約束不履行。
執行、送還。
執行者、王室封印官。
相談員は俺が読む間、記録紙に書き取った。半分こルールは、その日は守られなかった。相談員は俺が読む間じゅう俺を見ていて、俺は読む間じゅう書類を見ていた。
相談員は最後の行でボールペンを止めた。
約束した日が過ぎた。
相談員はその行を書き取ってから、課題16を取り出した。破いて、テープで貼り直した三枚。その下にメモがあった。彼が明け方に横になりながら「約束した日が過ぎた」と言ったという、同じ房の収容者の供述。
相談員は二つの文を並べた。一つは午前3時の俺の口から。一つは、海の向こうから戻った子どもの名前で届いた手紙から。
「同じ言葉ですね」
「同じ言葉です。片方は確認で、片方は通告です」
相談員は窓辺の鉢植えを見た。内側の二つと、外の窓枠の一つ。相談員は外の枯れた鉢を長いこと見た。書類の上では、まだ相談室に所属している鉢。
その日、相談員は次の課題を出さなかった。
* * *
翌朝、班長が受領確認書を回収に来た。
俺は内容確認の欄の印を直した。確認不能に二本線を引き、確認済みに印をつけた。
班長は直した欄を見て、判読不能の郵便を収容者が判読した場合の規定はない、と言った。班長はその受領確認書をしばらく手に持っていたが、そのまま持って行った。規定にない欄は、班長にも直せなかった。
命令書の最後の行は、こうだった。
約束した日が過ぎた。
* * *
二つの機関の検閲官は、その手紙を判読不能として処理した。その手紙を判読した者は、受け取る者、ただ一人だった。
受領確認書の直した欄は、保安課へ回された。その欄を判読できる者は、保安課にもいなかった。




