第9話 一週間(2)――誰もが聞いた日
管理番号KR-06 添付文書1
56〜70枚。
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集会の日の朝、加平の山の中に観光バスが二十三台上がってきました。
窓から数えました。どのバスにも、フロントガラスに紙が貼ってありました。ブラジル支部、フィリピン支部、ケニア支部、ドイツ支部。国の名前が二十三あったわけではありません。三台で来た国もありました。献金を多く出す支部ほどバスが多いんだと、見張りの兄弟が誇らしげに教えてくれました。兄弟は、韓国支部がいちばんバスが多いと言いました。韓国支部は歩いて来ればいいのに。
駐車場には空きがありませんでした。何台かのバスは山道の脇にハザードを出して停まりました。その後ろから、黒い乗用車が列をなして上がってきました。乗用車は駐車場のいちばん前の区画にまっすぐ入っていきました。そこはもともと空いていました。乗用車のために空けてあったんです。歩いて上ってくる人たちもいました。山のふもとのバス停から。その人たちは正門ではなく、通用口から入っていきました。
正門の前に市場が立ちました。本当に市場です。テントが二十張りくらい並んで、聖品を売っていました。金色の円盤のキーホルダー、あの方の写真入りの額縁、あの方が手を触れたという水のペットボトル。私はその水に手を触れたことはありません。一本一万ウォンでした。あるテントでは「あの方が履いていた靴下」を売っていました。私は靴下を捨てたことはありません。それに、その靴下は私の足より三サイズも小さかった。赤ちゃんの手くらいしか入らないんじゃないかと笑いかけて、少ししてその理由に気づき、口の中を血が出るほど強く噛みしめました。
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俺はファイルを閉じて、しばらく笑った。笑いすぎて咳が出た。
向こうでも売っていた。勇者が飲んだという井戸の水、勇者が泊まったという宿の枕。俺が通った村には、俺が泊まったという宿が必ず三軒できた。俺はほとんど野宿だった。仲間と焚き火の前で寝ていた。
ある村では、俺の靴下を売っている商人に直接会った。俺はその靴下を買った。履いてみたら、合った。商人の運がよかったのか、人の足なんてどれも似たようなものなのか、今でもわからない。
笑いが収まってから考えた。六番目は、あの靴下のテントの前を通りながら、どんな顔をしたのだろう。たぶん、笑いをこらえたはずだ。足が痛くて、大声では笑えなかったはずだ。
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本堂の中は人でいっぱいになりました。何百人もいました。司祭さまたちは前のほうに座り、信者たちは後ろと二階に座りました。前の椅子には座布団があって、後ろの椅子にはありませんでした。
本堂の両側の壁に、ガラスのブースが六つありました。同時通訳ブースだそうです。英語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、タガログ語、スワヒリ語。ブースごとに通訳がふたりずつ座っていました。司祭さまたちは耳にイヤホンを差しました。イヤホンのコードが椅子ごとに垂れ下がっていて、本堂に蜘蛛の巣が張っているみたいでした。
ミサが始まりました。私は最前列の真ん中、金色の椅子に座っていました。十四個のバツ印を踏んで、そこまで歩いていきました。杖なしで。七つ目のバツ印でも転びませんでした。朝、白い錠剤を三つ飲んでいたので。本当は二つなのに。
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十四個のバツ印。彼は、代役が転んだ七つ目のバツ印を越えた。
俺はその光景を思い描いてみた。何百人もが見ている前で、白い服を着て、刃の上を歩く男。表情は穏やかでなければならない。あの方は転ばないのだから。
向こうで魔王城の階段を上ったときのことを思い出した。毒針を受けた脚を引きずって、百二十二段。俺は段数を数えた。数えないと、へたり込みそうだったから。六番目も、バツ印を数えていたはずだ。
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おかしなことがひとつありました。
ミサのあいだじゅう、誰も私を見なかったんです。
司祭さまたちが順番に壇上に上がって、お話をしました。みんな私を指し示しました。手のひらを広げて、私のほうへ向けました。なのに、目は私を見ていなかった。私の頭の上のどこか、私の後ろのどこかを見ていました。そして私を「あの方」と呼びました。「あなた」ではなく、「あの方」。私がすぐ目の前に座っているのに。
「あの方が、本日この場にご臨席くださっています」
私はここにいました。ご臨席なんかじゃなく、ただここに座っていたんです。
通訳ブースから、その言葉が六つの言語で流れました。でも、私には全部聞こえました。六つのブースが、全部違うことを言っていました。
英語のブースは「ご主人様がいらっしゃいます」と言いました。
スペイン語のブースは「先生がお見えです」と言いました。
ポルトガル語のブースは「あの男があそこにいます」と言いました。通訳さんが眠そうでした。
フランス語のブースは「あの方」と言いました。ちゃんと伝えていたのはそこだけでした。
タガログ語のブースは「父」と言いました。
スワヒリ語のブースはしばらく黙ってから、「お客さま」と言いました。
ひとりの人間を、六つの名前で呼んでいました。私は、その六つのどれでもありませんでした。
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六つの名前。俺には、ひとつもない。八番目、KR-08。向こうでは勇者。日本の警察署では被疑者。ラーメンにとっては「お」で始まる何か。
妻にとっては、夫。
妻の字を思い出した。夫は帰ってきます。あの欄で、俺は名前の代わりに「夫」だった。その名前ひとつで十分だった。その名前をもう一度聞くまで、あと1年。
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ミサは二時間続きました。
聖歌隊が歌いました。音大生たちです。あの方の歩むたび、花が咲きこぼれる。今度は歌詞カードを見ずに歌っていました。日当分の仕事はしていました。金色の円盤に灯がともりました。金色で、点滅せずに。信者たちが歓声を上げました。
最後に、最高司祭さまが壇上に上がりました。初めて見る方でした。とても年老いた方でした。杖をついていました。あの方は、ついてもよかったんです。
最高司祭さまが両腕を広げて言いました。
「さあ、我らは我らの務めを果たしました」
六つの通訳ブースがその言葉を流しました。
「今より、応えを待ちます」
それは儀礼の言葉でした。毎週ミサの終わりに言う言葉なんだそうです。誰も応えなんて待っていませんでした。司祭さまたちはもうイヤホンを外していました。信者たちは鞄をまとめていました。二階のどこかで、誰かがあくびをしました。
私は笑ってしまいました。
二時間ものあいだ、誰も私を見なかった。私をあの方と呼んで、手のひらで指し示して、六つの名前で呼んだ。そのくせ今から応えを待つんだそうです。誰も待っていないくせに。
私は心の中で思いました。あざ笑ってやろうと思って。うんと強く、足が痛いときみたいに歯を食いしばって。
おまえら、一度だって俺の声を聞いたことないだろ。
そう思いました。本当です。そう思ったんです。
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なのに、その言葉はそのまま出ていきませんでした。
本堂の中のすべての人が、同時に止まりました。イヤホンを外しかけていた司祭さまの手が止まりました。鞄をまとめていた信者たちの手が止まりました。あくびをしていた人の口が止まりました。
全員の頭の中で、ひとつの文が響きました。私にも聞こえました。私の頭の中でも響いたからです。
ゆえに、我は汝らの平和のために祈らん。
私が思った言葉ではありませんでした。
あとで知りました。ブラジルの司祭さまたちはポルトガル語で聞いたそうです。ケニアの司祭さまたちはスワヒリ語で、フィリピンの司祭さまたちはタガログ語で。韓国の信者たちは韓国語で。みんな、自分の母親が使っていた言葉で聞いたそうです。耳ではなく、頭の中で。
通訳は要りませんでした。
本堂の両側の六つのガラスブースで、十二人の通訳が同時にマイクを切りました。カチッ、カチッ、カチッ。六回。その音が、本堂でいちばん大きな音でした。
誰も何も言いませんでした。何百人もの人が、初めて私を見ました。二階のいちばん後ろの列に、見覚えのある顔がひとつありました。別の支部に異動になったという、あの通訳の司祭さまでした。司祭服ではなく、信者の服を着ていました。その人は泣いていました。私の頭の上ではなく、私の後ろでもなく、私を見て。
壇上の最高司祭さまだけが、私を見ていませんでした。両腕を広げたまま、目を閉じていました。祈っている顔ではありませんでした。何かを計算している顔でした。隣の司祭さまがひとり、ひざまずこうとして、最高司祭さまがまだ立っているのを見て、また立ち上がりました。誰も先にひざまずきませんでした。誰が先にひざまずくのか、みんなお互いを横目でうかがっていました。
私はその目たちを見ながら思いました。今度はうんと小さく、誰にも届かないように。
俺はそんなこと言ってない。
その言葉は、誰にも届きませんでした。届けようとしなければ、届かない。でも届けようとすると、私が言おうとしたのとは違う言葉が届くんです。
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俺はファイルをベッドの上に置いて、床に寝転んだ。ベッドの裏板が見えた。
見るな。
望んでいない文が出ていく能力。あざ笑おうとしたのに、祝福が出ていった。人々はその祝福を聞いた。あざ笑いではなく。
この部屋にいた人間は、何を望まなかったのだろう。望まなかったのに、何になっていったのだろう。あの三文字は、望まなかった側の自分に書いたのか。望んでいた側の自分に書いたのか。
俺は時間を止めるとき、何を望んでいるのか。望んだ分だけ止めているのか。0.31秒を後ろへ引き戻したのは、俺が望んだことだったのか。
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その夜、初めて誰かが私の部屋のドアをノックしました。
見張りの兄弟たちはノックしません。ただ開けます。母は昼間にしか来ません。あの背の高い人は窓を叩きました。
ドアを叩く音は三回でした。とてもゆっくりと。
「入ってもよろしいかな」
ドアの外で、年老いた声が言いました。韓国語でした。杖が床を突く音も一緒に聞こえました。
最高司祭さまでした。
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あの日、本堂にいた何百人のうち、あの一文を聞いて泣いた者は九人だった。
なぜ彼らが泣いたのか、我々は知らない。ただ、その九人のうちの一人が、のちに彼の運転手になる。




