第10話 痛むことと、知ること
天井の換気口から、ごま油の匂いが降りてきた。
白い部屋に座っていると、上の階で誰かがキンパのアルミホイルを剥がす音がした。ホイルの音は換気口を伝って、ごく小さく降りてくる。続いて、ごま油の匂い。たくあんの匂い。ラーメンだった。カップ麺をこぼして以来、汁気のあるものは食べないことにしたらしい。
「定期測定です」
彼女がテーブルにレコーダーを置いた。赤いランプが点いた。その隣にクリップボード。挟まれた用紙のいちばん上に、帰還者能力定期測定表(週1回)と印刷されていた。
用紙には欄がたくさんあった。測定日時、測定場所、測定者、立会人、測定方法、測定値。そして、いちばん下の欄。
対象協力度:□上 □中 □下
「俺はどれです?」
「まだつけていません」
「前回は」
彼女は答える代わりに、前回の測定表をファイルから出して俺のほうに向けた。「上」にチェックが入っていた。その横に小さな字で(水を注ぐ)と書いてある。
水を注げば、協力度は上になる。俺はその欄を長いこと見ていた。向こうで11年間受けたどんな評価より、正確な評価に思えた。
* * *
彼女がポケットからメモ用紙を取り出した。三日前に俺が渡した、質問のメモだった。
1番の横には、彼女の字で回答済みとあった。2番と3番には線が引かれていた。線の横に、ひと言。
保留。
「保留はいつ解けるんです?」
「保留は保留です」
彼女はメモをまたポケットにしまった。役所の「保留」は、いつだって「いいえ」の丁寧な言い方だ。会社でもそうだった。メモは返してもらえなかった。質問は彼女のポケットに入った。そのポケットには、薬のケースも入っている。
「始めましょう」
「その前にひとつだけ。ファイルのことです」
昨夜、手記の七十枚目を読み終えて、七十一枚目をめくろうとした。七十一枚目はなかった。茶色のファイルには七十枚目までしか入っていなかった。いちばん後ろに付箋が貼ってあった。七十一枚目以降は次回閲覧時に支給。
最高司祭がノックをした。入ってもよろしいかな。そして、次のページがなかった。俺は午前三時まで、その付箋をにらみつけていた。向こうで吟遊詩人たちが、話をいちばんいいところで切って酒代をせしめていたのを思い出した。管理局は、酒代の代わりに協力度をせしめるらしい。
「次の閲覧はいつです?」
「測定が終わったらお渡しします。閲覧台帳に署名していただいて」
閲覧台帳。持ち出し確認書、事故報告書、測定表に続いて、四枚目の書類だった。この施設に来て十二日で、俺は向こうで11年かけて書いたより多くの署名をしていた。向こうでは名前の代わりに拇印を押していた。ここでは名前を書けないので「八番目」と署名した。署名欄が狭くて、「八番」までしか入らなかった。
「じゃあ、さっさとやりましょう」
彼女がクリップボードに何か書いた。たぶん「対象協力度:上」だ。
* * *
俺は、いちばん小さな音を探した。
今日この部屋でいちばん小さな音は、レコーダーではなかった。上の階のキンパだった。ラーメンがキンパをひと切れ口に入れて、ごく小さく噛む音。たくあんが歯のあいだで折れる音。
その音を、つかまえた。
世界が青ざめた。
* * *
今回は水を注がなかった。テーブルの上のボトルと紙コップは、そのままにしておいた。
彼女を見た。彼女は椅子に斜めに腰かけて、俺の左肩の向こうを見ていた。右手はポケットのそばで止まっている。
ポケットから、薬のケースのふたがのぞいていた。新しいケースだった。二日前、彼女が手のひらの上で傾けた、あの空のケースではない。ラベルがきれいだった。処方日は昨日。昨日、彼女は外に出ていた。定期報告だと言っていた。定期報告の日に、彼女は薬局に行ったのだ。
彼女の顔を見た。下唇。今日は血はにじんでいない。代わりに、唇の内側に治りかけのかさぶたが見えた。この数日、毎日同じ場所を噛んでいたということだ。
手は伸ばさなかった。薬のケースにも触れなかった。彼女が許したことじゃない。
ただ、ひとつだけ試してみたかった。止まった世界で、彼女が見ているものを見ること。彼女の瞳に映った俺を、もう一度覗き込んだ。今度も、三十八歳の痩せた男だった。髭が少し伸びていた。それだけだった。
彼女の目に映る俺と、彼女が見ている俺は、別人だ。鏡は嘘をつかない。嘘をつくのは彼女の頭の中だ。いや、嘘じゃない。彼女の頭の中では、それが真実なのだ。
俺はベッドではなく椅子に戻って座った。最初とまったく同じ姿勢で。
キンパを噛む音を、放した。
* * *
上の階でドンと音がした。続いて、低い悪態。今度はキンパを落としたらしい。
彼女は天井を見なかった。レコーダーを持ち上げて画面を見た。画面は俺の側からは見えなかった。前回は画面をこちらに向けて見せてくれた。今回は向けなかった。
彼女は画面を長いこと見ていた。それからクリップボードに何か書いた。対象協力度の欄にチェックを入れた。ペンが「上」の上で一瞬止まってから、チェックした。
「正常範囲です」
彼女が言った。
「何秒でした?」
「正常範囲です」
同じ文を二度聞いたら、それは答えじゃない。保留だ。
* * *
「ひとつ、いいですか。質問じゃなくて、ただの話です」
彼女はレコーダーを止めなかった。赤いランプは点いたままだった。
「どうぞ」
「向こうに、騎士がいました。戦で右腕を失った男です。肩から下に何もなかった。なのにその男は、毎晩右手が痛いと言っていました。指先が火傷したみたいにひりつく、と。ない指が、です」
「幻肢痛ですね」
「向こうの司祭たちは『幻の腕』と呼んでいました。そして、こう言っていました。体は忘れたのに、魂がまだ覚えている傷だ、と」
彼女は何も言わなかった。レコーダーの赤いランプが点滅した。
「六番目の手記を読んでいて、その男を思い出したんです。足はなんともないのに、刃の上を歩いているみたいに痛いって言うでしょう。病院を五つ回っても何も出てこない。それで、集会の三日前に半日だけ痛くなかったって」
俺は少し言葉を切った。
「向こうの司祭は、こんなことも言っていました。痛むのは体の仕事で、知るのは魂の仕事だ、と」
彼女が初めて、俺のほうをまっすぐ見た。斜めに座ったまま、首だけを回して。
「その言葉、誰が言ったんですか」
「向こうの司祭です。俺に時間の止め方を教えてくれた、年寄りの司祭」
彼女は長いこと俺を見ていた。それからファイルを開いた。茶色のファイルではなかった。それより薄い、灰色のファイルだった。彼女はその中から紙を一枚探し出し、その上の一行を指でなぞった。こちらに向けて見せはしなかった。
「六番目も、同じことを言っています」
「え?」
「手記の百九十枚目です。まだあなたが読む順番ではありません。あの方は、こう書いています」
彼女は読み上げた。感情のない声で、書類を読むように。
「『痛むのは体で、知るのは魂なんだそうです。でも私には、そのどちらも自分のものじゃない気がします』」
俺は何も言えなかった。
向こうの年老いた司祭が言った言葉を、こっちの物流センターの労働者が、そっくり書いていた。一度も会ったことのない二人が。ひとりは俺が落ちた世界で、ひとりは俺が帰ってきた世界で。
「あの方がその言葉をどこで聞いたのかは、手記にはありません」
灰色のファイルを閉じながら、彼女が言った。
「たぶん、誰からも聞いていないんでしょう」
* * *
彼女が立ち上がった。レコーダーを手に取る。測定は終わりという意味だった。
彼女がドアにたどり着く前に、俺は訊いた。
「1年後に俺が正常になったら、妻のところへ行けるんですよね」
彼女はドアノブをつかんで止まった。振り返らなかった。
「1年後に、正常になられたら」
同じ言葉だった。俺が言ったのとまったく同じ言葉。ただ、重心が違った。俺は「行ける」に力を込めた。彼女は「正常になられたら」に力を込めた。
「さっきは、何秒だったんです?」
最後にもう一度訊いた。
「正常範囲です」
彼女はレコーダーをポケットに入れようとした。手がポケットの入口を空振りした。一度。そしてもう一度。三度目で、レコーダーがポケットに収まった。新しい薬のケースとぶつかる音がした。
ドアが閉まった。
俺は白い部屋にひとり残された。上の階で、ラーメンが床に落ちたキンパを拾う音が聞こえた。とても小さな音だった。今日この部屋で、いちばん小さな音。
俺はその音をつかまえなかった。
部屋に戻って、ベッドの下を見た。見るな。それから枕の下から、妻のコピーを取り出した。夫は帰ってきます。
二つの字を並べてみた。ひとつは板に、ひとつは紙に。ひとつは爪で、ひとつはボールペンで。ひとつは欄がないから好きな場所に彫り、ひとつは欄が狭いから欄の外にあふれた。
ひとつは見るなと言い、ひとつは帰ってくると言った。
この部屋にいた人間にも、欄からあふれる字を書いてくれる誰かがいたのだろうか。その人間は今、その字を書いた人のもとへ帰れたのだろうか。それとも自分が何なのかを知ってしまってから、帰る場所をなくしたのだろうか。
俺は妻のコピーを枕の下に戻した。そしてその夜は、床で寝た。初めて、ベッドの下の三文字と向き合いながら。見るなという字を見ても、俺は何にもなっていかない。それを、自分自身に証明したかった。
* * *
彼女が見せなかった画面には、-00:00:00.47と表示されていた。
管理局が見守ってきた自然転移者は、みな十日以内に数値が減りはじめた。増えたのは、彼が初めてだった。
その数字がどこまで行くのか、我々は知っている。最後のページで、彼は数字ではなく名前で呼ばれる。
その名は、「時間」だ。




