第11話 最高司祭
管理番号KR-06 添付文書1
71〜85枚。
* * *
入ってもよろしいかな、と訊かれて、私は返事ができませんでした。
返事をしていないのに、ドアが開きました。最初から返事を待つつもりなんてなかったんです。訊くのは礼儀で、入るのは権利でした。
最高司祭さまはひとりでした。ドアの前の兄弟ふたりは、廊下の端まで下がっていました。最高司祭さまが杖で床を一度突くたびに、ふたりそろってびくっとしていました。本堂で見たときよりずっと老けて見えました。壇上には照明がありましたから。蛍光灯の下の最高司祭さまの顔は、しわというより、ひびが入っているみたいでした。古い焼き物のように。
最高司祭さまは私の部屋をぐるりと見回しました。ベッド、机、窓、カーテン。それから、ベッドの下を杖の先で一度つつきました。私は息が止まりそうでした。マットレスの中に手記があったからです。でも、最高司祭さまがつついたのはベッドの下でした。そこには私の杖がありました。
「これをついているのか」
最高司祭さまは私の杖を、自分の杖で引きずり出しました。二本の杖が床でぶつかりました。カツン、と。妙に可笑しい音でした。年寄りがひとりと三十五歳がひとり、二本の杖を挟んで向かい合っていました。
「はい」
「ミサのときは?」
「つきません。あの方はつかないので」
最高司祭さまが初めて笑いました。口の端だけで。目はそのままでした。
「わしはつく。わしは、あの方ではないからな」
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俺はそこでファイルを閉じた。
二本の杖。向こうで魔王城へ向かう前の最後の村に、足の悪い年老いた領主がいた。彼は俺を迎えるとき、自分の杖を従者に預けた。勇者の前で杖はつけない、と言って。宴のあいだずっと、彼は壁に手をついて立っていた。翌朝、彼の従者が俺に言った。領主さまは一晩じゅう膝を氷で冷やしておられました。
俺はあの領主に、座ってくれと一度も言わなかった。彼が立っているのが当然だと思っていた。
六番目の前の老人は、杖をついた。その違いが何を意味するのか、今はまだわからなかった。
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最高司祭さまは机の椅子を引き寄せて座りました。私はベッドの端に座りました。足が痛かった。朝に飲んだ白い錠剤三つが、そろそろ切れかけていました。
「おまえがやったのか」
最高司祭さまが訊きました。何の前置きもなく。
「何をですか」
「さっき。本堂で。あの一文だ」
「……」
「嘘はつくな。わしにはわかる」
本当にわかっているようでした。あの背の高い男と同じように。あの人が窓の外から私を見ていた目と、最高司祭さまが今私を見ている目は、同じでした。何を見ているのかわかっている目でした。ただ、あの人の目にはすまなさがあって、この人の目にはありませんでした。代わりに、別のものがありました。計算です。市場で魚を選んでいる人の目でした。
「やったのは、私です」
私は言いました。
「でも、あの一文は私が言おうとした言葉じゃありませんでした。勝手に出ていったんです」
「言おうとした言葉は何だった」
私は答えませんでした。あざ笑おうとした言葉でしたから。おまえら、一度だって俺の声を聞いたことないだろ。その言葉を、最高司祭さまの前で言えるはずがありませんでした。
なのに、最高司祭さまはうなずきました。
「なるほどな」
私は何も言っていないのに。
* * *
なるほどな。
俺はベッドから立ち上がった。立ち上がって、洗面台の前に立った。鏡のない壁、ネジ穴が四つ。
六番目は言わなかった。なのに最高司祭は聞いた。聞く人間が、別にいるのだ。背の高い外国人、そしてこの老人。本物を見分ける者たち。見分けるだけで、借りることはできない者たち。
あの連中は何を聞くのだろう。口にしなかった言葉を。だとしたら、あの連中の前では嘘がつけない。
俺はベッドに戻った。
* * *
最高司祭さまは杖を膝のあいだに立てて、その上に両手を重ねました。手の甲にはしみがたくさんありました。指輪が三つ。三つとも金で、ひとつは金色の円盤の形でした。
「この団体でおまえを『あの方』と呼ぶ連中は、三つに分かれる」
最高司祭さまが言いました。講義でもするように。
「一つ。おまえが本物だと信じている連中。これは信者だ。二つ。おまえが偽物だと知りながら、本物として売っている連中。これは司祭のほとんどだ。三つ。おまえが本物だと知っている連中」
「三つ目は何人いるんですか」
「今朝までは三人だった。わしと、わしのような者がふたり」
「今は?」
最高司祭さまは窓のほうを見ました。金色の円盤の光が、カーテン越しに入ってきていました。
「今は、本堂にいた何百人全員だ」
私はその言葉の意味を、しばらく考えました。今朝まで、私を本物だと知っていた人は三人だった。残りは信じているか、売っているかだった。でも今日、あの一文がみんなの頭の中に入った。もう信じている人も売っている人も、みんな知っている。
信じることと知ることは違うんだそうです。信じている人は疑うことができるけれど、知っている人は疑うことができない。最高司祭さまはそう言いました。
「だから、もうおまえを売ることはできん」
最高司祭さまが言いました。とても疲れた声で。
「知っている者には売れん。売れるのは、信じている者にだけだ」
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その一文を三回読んだ。知っている者には売れない。
会社にいたころ、営業部長が言っていたことと同じだった。うちの製品を知ってる客には営業がかからない。知らない客に売るんだよ。その部長は、そう言った翌年に常務になった。
この老人もたぶん、そうやって最高司祭になったのだ。75年間、知らない人間たちに売り続けて。そして今日初めて、全員が知ってしまった商品を手にした。
笑いがこみ上げた。そして、笑ったことが少し申し訳なかった。その商品は、足を引きずっていたのだから。
* * *
最高司祭さまは立ち上がりませんでした。ずいぶん長いこと、そうして座っていました。私は、何かの言葉を待っているのかと思いました。でも違いました。何も待っていなかった。ただ座っていたんです。お年寄りがときどきそうするでしょう。何を考えているのかわからない顔で、長いこと。
そのうち、廊下で声がしました。司祭さまが何人か、大声で言い争っている声でした。ドアは閉まっていたのに聞こえました。ひとりは「これは悪魔の仕業だ」と言い、もうひとりは「奇跡を疑うことこそ冒涜だ」と言っていました。外国語も混じっていました。私には全部韓国語に聞こえました。みんな怒っていました。みんな怖がっていました。
ドアの前の兄弟がひとり、ノックをしました。今度はノックをしました。最高司祭さまがいたからです。
「使徒さま、第二使徒さまと第三使徒さまが会議を招集なさいました。今すぐに、と」
「明日の朝に延ばせ」
「それが、おふたりはもう会議室に……」
「明日の朝に延ばせ。年寄りは夜に会議はせんと伝えろ」
兄弟は戻っていきました。最高司祭さまは私を見て、肩をすくめました。その仕草があまりに若々しくて、変でした。九十歳くらいに見える人が、十六歳みたいに肩をすくめたんです。
「あいつらは夜でも会議をする。若いからな」
「おふたりは何歳なんですか」
「七十二と、七十五」
私は笑いをこらえようとして、足に力が入りました。足が痛かった。笑いは、すっと引っ込みました。
* * *
最高司祭さまが杖をついて立ち上がりました。立ち上がるのに時間がかかりました。私は立って腕を支えようかと思って、やめました。あの方が杖をつくのは、あの方のことですから。
ドアの前で、最高司祭さまが振り返りました。
「ひとつだけ訊こう。今日のあの一文、もう一度できるか」
「わかりません」
「言おうとした言葉ではなく、別の言葉が出ていくと言ったな。なら、言おうとする言葉を言わなければいい」
「え?」
「祝福したければ、呪いを思え。そうすれば祝福が出ていくだろう」
私はそれを聞いて、鳥肌が立ちました。あの方は本気でした。私の能力を初めて聞いてから数時間で、もうそれをどう使うかを考えていたんです。市場で魚を選ぶ目ではありませんでした。魚をさばく目でした。
「明日の朝九時。会議室だ」
最高司祭さまは、ドアノブをつかんだまま言いました。
「明日、おまえは神になるか、冒涜になるか、二つにひとつだ」
「ほかには、ないんですか」
私は訊きました。本当に知りたかったので。
最高司祭さまは長いこと私を見ていました。
「あるとも。杖だ」
あの方は、顎で私の杖を指しました。床に転がったままの、私の杖を。
「神でも冒涜でもなければ、おまえはただの足の悪い男だ。それがいちばん危ない」
ドアが閉まりました。
その夜、私は杖をベッドの下に隠しませんでした。机の横に立てかけておきました。最高司祭さまが座っていた椅子の横に。あの方の杖が立っていた場所に私の杖を立てておいたら、部屋が少し怖くなくなりました。おかしいですよね。あの方が怖かったのに、あの方の場所に自分のものを置いたら、怖くなくなったんです。
それから、マットレスの縫い目に手を入れて、この紙の束を取り出しました。ここまで書きました。書いているあいだ、廊下の言い争いは明け方まで続いていました。七十二と七十五が、一晩じゅう若かった。
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俺は最後の一文で、声を出して笑った。七十二と七十五が、一晩じゅう若かった。
上の階で、椅子を引く音がした。ラーメンが俺の笑い声を聞いたのだ。きっと観測記録用紙に書いたのだろう。対象、書類閲覧中に笑う。理由不明。
理由はあった。六番目は、面白い人間だった。足が痛くて、大声で笑えなかっただけだ。俺は、彼の書いた文章に面白い一文が出てくるたび、彼の代わりに笑ってやることにした。それが、彼の手記を読む人間の礼儀のような気がした。
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その夜、老人が座っていた椅子には、長いこと温もりが残っていた。
彼は75年、知らない者たちに売り続けた。我々はそれよりずっと長く、理由を知らないまま縫い続けた。
その夜、あの部屋に、自分が何を知っているのかを知っている者は、ひとりもいなかった。




