↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/160

第8話 一週間(1)

管理番号KR-06 添付文書1

41〜55枚。


* * *


あの人が消えてから、団体は集会の準備で忙しくなりました。


私も忙しくなりました。リハーサルのせいです。あの方が入場する順番、歩く速さ、立ち止まる位置、手を上げる角度まで、全部決まっていました。床には黄色いテープでバツ印が貼ってありました。そこで止まれ、という印です。バツ印は全部で十四個。私はその十四個を、杖なしで踏まなければなりませんでした。


初日のリハーサルは、私はやりませんでした。代役がやりました。私と背格好の似た兄弟でした。白い服を着て、私の代わりにバツ印を踏んでいきました。私は舞台袖の椅子に座ってそれを見ていました。自分で自分を見ているみたいでした。その兄弟の歩き方は、とてもまっすぐでした。足が痛くない人の歩き方でした。私はその兄弟が、少し憎らしかった。


代役の兄弟は、七つ目のバツ印で転びました。階段の手前でした。司祭さまがひとり駆け寄ってきて、怒鳴りました。あの方は転ばない、と。代役の兄弟は立ち上がって膝を払いながら謝りました。自分があの方ではないから転んだのだ、と。みんなうなずきました。誰も笑いませんでした。私だけが笑いをこらえていました。


* * *


俺は笑った。今度は声を出さなかった。上の階のラーメンに聞かれるといけないから。


向こうにも代役はいた。王の影武者だ。王が行幸するときは、そっくりな男が先に馬車に乗った。矢は影武者に飛んできた。影武者が三人死んでから、ようやく王は自分で馬車に乗った。その日、王は俺に勲章をかけてくれた。その勲章は今、管理局のどこかの引き出しに「用途不明」として眠っている。


代役は転んではいけない。あの方ではないから転んだのだと謝らなければならない。その理屈が可笑しかった。それから、あまり可笑しくなくなった。あの方だって、本当は転ぶ人間だったのだ。足が痛くて。


* * *


二日目には、金色の円盤にLEDが取りつけられました。


屋根のてっぺんにある、あの円盤です。集会の夜に円盤を光らせるんだそうです。高所作業車が二台来ました。作業員さんたちが円盤に電飾を巻きつけました。試験点灯をしたら、円盤が虹色にぐるぐる回りながら光りました。司祭さまのひとりが作業車の下から怒鳴りました。金色だけにしろ、と。虹色はライバル団体の色なんだそうです。作業員さんたちはまた上って設定を変えました。今度は円盤が金色に点滅しました。点滅するなと言われました。三回目でやっと、金色に静かに光りました。


午後には聖歌隊のオーディションがありました。集会の日に歌う聖歌隊を新しく選ぶんだそうです。もともと聖歌隊はあったのに、外国の司祭さまたちの前で歌うには実力不足なんだとか。ソウルから音大生たちがバスで来ました。アルバイトだそうです。日当がかなり良かったそうです。


音大生たちは、聖歌の歌詞を初めて見たようでした。リハーサルのあいだずっと、歌詞カードを見ながら歌っていました。サビは「あの方の歩むたび、花が咲きこぼれる」でした。私は舞台袖でその歌を聴きながら、杖を握っていました。あの方の歩むたび、刃が突き刺さるのに。


休憩時間、音大生がふたり、私の横を通りながらひそひそ話していました。あれが教祖? いや、教祖は別にいて、あの人はモデルみたいなもんだって。ふたりは私があの方だと知りませんでした。私は、それがその日聞いた言葉の中でいちばん正確だと思いました。


* * *


モデルみたいなもの。


向こうで勇者と呼ばれはじめた最初の年、俺はよく領主たちの宴に呼ばれた。剣を下げて、最前列に座っているだけでよかった。領主たちは俺を指して客に言った。神が遣わされたお方だ。客たちは俺に杯を掲げてみせた。誰も俺に話しかけなかった。


あのころの俺も、モデルみたいなものだった。ただ、俺の足は痛くなかった。その違いひとつで、俺は11年間、それを栄誉だと思い込んでいた。


* * *


その夜、私の部屋の窓に円盤の光が差し込みました。カーテンを引いても入ってきました。金色の光が天井に丸い輪を描きました。私はその輪を見ながら眠って、足が痛くて目を覚まして、またその輪を見ました。


その夜から、実験を始めました。


* * *


実験。


俺はベッドで身を起こした。その言葉がうれしかった。向こうで初めて時間を止めたとき、俺もそうした。偶然一度止まって、それからはわざとやってみた。何秒止められるのか、何に触れられるのか、止まった世界で息はできるのか。年老いた司祭が、隣で砂時計を持っていてくれた。


六番目には、砂時計を持ってくれる人がいなかった。彼はひとりでやった。


* * *


あの人が教えてくれたことがひとつありました。本物ごとに、証明のしかたが違うということ。そして私は、あの人のフランス語がわかった。だから、私の証明はそのあたりのどこかにあるような気がしました。


翌日、外国の司祭さまたちがリハーサルを見に来ました。集会の三日前から先に来ていた人たちです。十人くらいいました。それぞれ違う国から来た人たちなので、それぞれ違う言葉を話していました。私は舞台袖の椅子に座って、その人たちの話を聞きました。聞こうとしなくても、聞こえてきました。


「あれがあの方か? 思ったより普通だな」

「うちの支部の献金ノルマ、また上がったよ」

「ホテルの朝食がいまいちだった」

「集会が終わったら、ソウルの免税店に寄ろう」


全部聞こえました。スペイン語なのかポルトガル語なのか、何語なのかはわかりません。でも、全部わかりました。


ただ、おかしなことがありました。口の動きが合わないんです。


ひとりが「ホテルの朝食がいまいちだった」と言いました。私にはそう聞こえました。なのに、その人の口はとても短く動いただけでした。ふた言くらい。あとで、その人の隣にいた韓国人の司祭さまに訊いてみました。あの方はさっき何とおっしゃったんですか、と。韓国人の司祭さまは携帯のアプリにかけてみて、言いました。「パンが硬かった」だそうです。


パンが硬かった。私には、ホテルの朝食がいまいちだったと聞こえました。


私は、言葉を聞いていたんじゃありませんでした。意味を聞いていたんです。


* * *


意味を聞く。


俺はその一文の下に指を当てたまま、しばらく動けなかった。


向こうに落ちた最初の日、年老いた司祭が俺に最初にかけた言葉は「大丈夫か」だった。俺にはそう聞こえた。何年か経って向こうの言葉をそれなりに覚えたころ、あの司祭に、最初の日にどんな単語を使ったのか訊いてみた。司祭は笑って答えた。あのとき自分が言ったのは「生きているか」だった、と。


俺はその違いを、当時は気にも留めなかった。大丈夫か、と、生きているか。似たような言葉だから。


今は、気になる。


* * *


次に、逆をやってみました。


聞くことができるなら、送ることもできるんじゃないか。あの人が私の韓国語を理解していたみたいに。


ドアの前の見張りの兄弟で試しました。その日は兄弟がひとり、椅子に座って居眠りをしていました。私はベッドに横になって、心の中で思いました。口は開けずに。


水、ください。


何も起こりませんでした。兄弟は居眠りを続けていました。


もう一度思いました。今度は、もう少し強く。足が痛いときみたいに、歯を食いしばって。


水、ください。


兄弟がはじかれたように立ち上がりました。きょろきょろとあたりを見回しました。それから廊下の端のウォーターサーバーまで歩いていって、紙コップに水をくんできました。ドアを開けて入ってきて、私のベッドの横のテーブルに水を置きました。


「どうして?」


私は訊きました。本当に不思議だったので。


兄弟は自分の手を見下ろしました。水を置いてきた、空っぽの手を。そして首をかしげました。


「わかりません。あの方が、喉が渇いていらっしゃる気がしたので」


兄弟は出ていきました。私はその水を飲めませんでした。テーブルの上で水がすっかりぬるくなるまで、ただ見ていました。


怖かったんです。


* * *


彼女は五日前、俺が注いだ水で薬を飲んだ。ありがとうと言った。水なしで飲むのはつらいから、と。


あれは、許しを得て注いだ水じゃなかった。彼女が望んでいるかどうか、訊かなかった。それでも彼女は飲んだ。


六番目の水と、俺の水は、何が違うのだろう。彼は念じ、兄弟は水をくんできた。俺は手を使い、彼女は水を飲んだ。彼女があの水を飲んだのは、彼女の意思だったのか。


違うと、思いたかった。


* * *


母に使ってみたかった。


母が面会に来たら、心の中で言ってみたかった。お母さん、足が痛いよ。ここから出たい。母はその言葉を聞いたら、私を連れ出してくれるでしょうか。それとも兄弟みたいに、どうしてなのかもわからないまま、私を連れ出すでしょうか。


その二つが同じことなら、私はその言葉を言ってはいけない気がしました。母が母の意思じゃないもので私を連れ出したら、それは私が母を連れ出すことになるから。それは、団体が私にしていることと同じだから。


だから、母には使いませんでした。


代わりに金色の円盤を見ながら、一晩じゅう練習しました。誰にも届かないように、うんと小さく。ひとりごとみたいに。天井の丸い光に向かって。


足が痛いよ。


天井は答えませんでした。よかった。


* * *


集会の三日前の朝でした。


起きてベッドから降りたら、足が痛くありませんでした。


最初は気づきませんでした。いつもの癖で杖を探していて、杖なしでもう立っていることに気づいたんです。足の裏を床にぐっと押しつけてみました。なんともありませんでした。刃がなかった。何年ぶりだったのか、わかりません。


半日のあいだです。その半日、私は部屋の中を百回くらい歩きました。昼ごはんを食べたら、また痛くなりました。


その半日が、私の人生でいちばん怖い半日でした。


* * *


足が痛まなかったその半日、彼ではない側のページで、何かが動いた。


我々はその二つのページを並べて広げていた。そして、針を取らなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。