第7話 不同意事由書
配膳口のふたが開いて、トレイが入ってきた。トレイの上に、メモが一枚載っていた。
先日は申し訳ありませんでした。――ラーメン
その下に、小さな字でもう一行。
(室長にこの呼び名で書くよう言われました)
配膳口の向こうに、二人分の足が見えた。ひとつはスニーカー、ひとつは革靴。二人一組。どちらも配膳口から一歩離れて立っていた。目を合わせないためには、それくらいの距離が必要らしい。
「気にしてません」
俺は配膳口に向かって言った。スニーカーがびくっとした。革靴がスニーカーを軽く小突いた。スニーカーが小さく答えた。
「あ、ありがとうございます」
ふたが閉じた。トレイには汁物の代わりに豆乳がひとパック置いてあった。汁物禁止。豆乳は汁物ではないという判断が、どこかで下されたのだ。その判断にも、たぶん書類がある。
* * *
午前十時、白い部屋。
俺は彼女にメモ用紙を差し出した。三つの質問に番号が振ってある。会社員時代の癖だ。質問に番号を振らないと、相手は答えやすいものをひとつだけ選んで答えて、残りは忘れてしまう。
彼女はメモを受け取って読んだ。そして、答えやすいものをひとつだけ選んで答えた。
「1番。偶然です」
「2番と3番は」
「1番について、もう少しご説明します」
彼女はメモをテーブルの上に伏せた。
「その外国人が言った『六番目』は、その人個人の集計です。世界中を回って、自分の目で見た本物を数えたんです。私たちの管理番号は、大韓民国の国籍者しか数えません。二つの数字には何の関係もありません。同じ人間が、たまたま二つのリストで六番目だった。それだけです」
「その人の弟は。五番目の」
「韓国人ではありません。こちらのKR-05とは無関係です」
答えるのが早すぎた。今回も用意された文章だ。だが今回は、妙だった。用意された文章というのは、相手が訊いてくるとわかっているから用意するものだ。彼女は、俺がこれを訊くと知っていた。五番目、六番目の数字を問いただした人間が、俺の前にもいたということだ。
「2番だけでも答えてください。消されるってやつ」
「取引をしましょう」
彼女が言った。
「手記は読み続けていただく必要があります。それはあなたにとっても必要で、私たちにとっても必要です。その見返りに、ひとつ差し上げます。質問への答えではなく、あなたが望むものをひとつ」
「妻」
考えるより先に口が動いた。
「住所はだめです」
「なら、妻に関することなら何でも」
彼女は少し考えた。それからファイルを開いて、紙を一枚取り出した。コピーだった。彼女はそれをテーブルに置き、手のひらで押して俺のほうへ滑らせた。茶色のファイルを渡したときと、まったく同じ動作だった。
「2年前に、奥様が警察に提出された書類です」
* * *
書式は単純だった。
長期失踪事件の終結案内に対する意見書
□同意 □不同意
「不同意」にチェックが入っていた。ペンを強く押しつけすぎて、チェックの印が紙を少し破いていた。コピーでもそれがわかった。
その下の欄。
不同意の理由(簡潔に記入)
欄は一行だった。指の関節ひとつ分の高さの、一行。
その一行に、妻の字があった。
夫は帰ってきます。
字が欄より大きかった。「夫は」までは欄の中に収まっていた。「帰ってきます」は欄の下の線を突き破って、次の「担当者確認」欄にまではみ出していた。句点は担当者のハンコの横に打たれていた。
俺はこの字を知っている。結婚式の芳名帳の前で、ペンを握ってためらっていた手。二人の名前を並べて書くとき、自分の名前を俺の名前より少しだけ小さく書いていた手。「す」の最後の払いを尻尾みたいに長く伸ばして、次の字の下にもぐり込ませる癖。
「帰ってきます」の「す」が長く伸びて、句点の下までもぐり込んでいた。
担当者確認欄には、妻の字の上に警察の字が重なっていた。ボールペンで走り書きしたメモだった。
理由不十分なるも、申立人の意思を尊重。終結保留。
理由不十分。夫は帰ってきます。これ以上に十分な理由が、この世にあるだろうか。警察はこの欄を埋めるのに、あと何行必要だったのか。俺が帰ってくる確率、根拠、証明書類。妻にはそんなものはなかった。妻にあったのは、一行きりの欄と、その欄を突き破った字だけだった。
そして、その字は正しかった。
俺は帰ってきた。
東京への転勤が決まった年、妻はソウルに残った。1年だけ離れて暮らそうと言った。1年後に妻が日本へ来ることになっていた。妻は空港で、俺の手に紙を一枚握らせた。冷蔵庫に貼っておけ、と。広げてみると、大きな字で一行だけ書いてあった。
ちゃんとごはん食べるこ
紙に対して字が大きすぎた。最後の「と」が、紙の端で切れていた。俺はそれを冷蔵庫に貼った。赤羽のあの家の冷蔵庫だ。俺が消えた日も、あの紙は冷蔵庫に貼ってあったはずだ。あの冷蔵庫は今どこにあるのだろう。あの家に入った家族が捨てたのか。それとも妻が引っ越しの荷造りをするとき、あの紙を剥がしていったのか。
妻はいつも、欄より大きな字を書いた。紙が、妻の言葉を収めきれなかった。
* * *
コピーを長いこと手にしていた。そのあいだ、彼女は何も言わなかった。顔を背けもしなかった。テーブルの角に斜めに腰かけて、俺の左肩の向こうの、どこかを見ていた。
「これ、もらってもいいですか」
「コピーです。お持ちいただいて構いません」
彼女がファイルから、もう一枚紙を取り出した。
「ただし、ここに署名してください」
管理文書写し持ち出し確認書。持ち出し文書名、枚数、持ち出し理由、返却予定日。持ち出し理由の欄は一行だった。
「理由は何て書けば?」
「何でも構いません。誰も読みませんから」
俺はボールペンを持って少し考えた。それから書いた。妻の字だから。欄にぴったり収まった。俺は妻と違って、欄に合わせて書く人間だった。返却予定日の欄には「1年後」と書いた。彼女はそれを見てうなずいた。日付を書く欄だったが、直せとは言わなかった。
「原本は?」
「警察署にあります。奥様は、原本が警察署にあることをご存じです。そして2年間、それを取りに行っていません。取りに行けば、事件が終結してしまうかもしれないので」
俺はコピーを半分に折りかけて、また広げた。折り線が妻の字を横切るのが嫌だった。広げたまま持っていることにした。
「ひとつ、伺ってもいいですか。質問じゃなくて」
「それは質問です」
「七番目も、これをもらったんですか。こういう取引を」
彼女は答えなかった。ただ、右手がポケットのほうへ動きかけて、途中で止まった。
* * *
午前三時に目が覚めた。
魔王軍の夜襲の時刻。剣の柄の代わりに毛布の端。そして今日は、枕の下に妻の字があった。コピーを枕の下に入れて寝たのだ。十六歳のガキみたいに。
もう眠れなかった。ベッドから降りて、床に座った。冷たい床が背中を這い上ってきた。向こうではいつも床で寝ていた。ベッドで寝ると、襲撃のとき起き上がるのに半拍よけいにかかる。その半拍のせいで、仲間がひとり死んだことがある。
床に背中をつけて横になった。天井の代わりに、ベッドの裏が見えた。
ベッドの裏板に、何かがあった。
最初は染みかと思った。首を傾けて近づいた。染みではなかった。ひっかき傷だった。爪でひっかいた痕。とても長いあいだ、何度も何度も同じ場所をひっかいて、板に溝が刻まれていた。
文字だった。
見るな
俺はその三文字を、長いこと見ていた。
爪であの深さを彫るには、どれくらいかかるだろう。一晩では無理だ。十日、一か月。毎晩このベッドの下に寝そべって、同じ場所を、同じ爪で。何を見るなというのか。誰に向けた言葉なのか。次にこの部屋に来る人間に。それとも、自分自身に。
起き上がって、洗面台の前に立った。洗面台の上の壁の、ネジ穴四つを見た。取り外された鏡の跡。
初めてこの部屋に来たとき、俺はそれを気遣いだと思った。帰還者に鏡を見せないための気遣い。だが違った。気遣いなら、ネジ穴まで埋めたはずだ。あの穴は、急いで外した跡だった。誰かが鏡を割り、割れた鏡を片づけるために、ネジごとむしり取ったのだ。
ベッドのシーツは新品だった。
この部屋には誰かがいた。自分が何に見えているのかを知ってしまった誰かが。そしてその人間は鏡を割った。その人間はベッドの下に寝そべって、同じ三文字を一か月かけて彫った。
自分が何に見えているかを知った瞬間から、人はそれになっていく。
その夜、俺はまたベッドの上で寝た。床に寝ると、あの三文字が見えるからだ。
* * *
翌日の午前、白い部屋。
彼女が椅子に座るより先に、俺は訊いた。
「この部屋、七番目の部屋だったんですか」
彼女は答えなかった。
代わりに、ポケットから薬のケースを取り出した。ふたを開けた。手のひらの上でケースを傾けた。
何も出てこなかった。
彼女は空のケースを長いこと見下ろしていた。振ってみることもしなかった。もう空だとわかっていたかのように。
「今日は」
彼女が言った。声が、初めてかすれた。
「今日は、質問はお受けしません」
* * *
あの字を、我々は前にも見たことがある。ずっと後ろのほうのページで。
「帰ってきます」の「す」は、そのときも長く伸びて、欄の外へあふれていた。




