第6話 通訳のいない夜(2)
管理番号KR-06 添付文書1
28〜40枚。
* * *
その人が室外機の上で座り直しました。室外機がとても長くきしみました。私は思わずドアのほうを振り返りました。いびきはそのままでした。
「一週間後に集会があります」
その人が言いました。
「世界各地の司祭がここに集まります。何百人も。その場で、あなたは証明しなければならない。あなたが本物だということを」
「どうやって?」
「わかりません」
あまりにあっさり答えるので、私は少しむっとしました。
「わからないって」
「本物ごとに、証明のしかたが違うんです。宙に浮いた人は宙に浮いた。花を咲かせた人は花を咲かせた。あなたに何ができるのかは、あなたにしかわからない。いや、あなた自身もまだ知らないでしょう。でも、わかるのはあなただけです」
「私、何もできません。本当です。お客さんの手を握ったら治ったって言う人はいますけど、私は何もしていません」
「知っています。それは司祭たちがこしらえた奇跡です。人は治りたいから治るんです。献金を多く払った人ほど、よく治る」
私は献金台帳を思い出しました。献金額の欄がいちばん広かった、あの台帳を。
* * *
俺はメモ用紙に二つ目の質問を書こうとして、手を止めた。
人は治りたいから治る。向こうにもそんな神殿があった。聖水を売っていた。一瓶で銀貨三枚。飲めば治ると言っていた。実際、治ったという人間は多かった。うちのパーティーの司祭は、その神殿の前を通るたびに唾を吐いた。年老いた司祭だった。いちばん小さな音をつかまえろと、俺に教えた人だ。
なぜ唾を吐くのか、当時はわからなかった。銀貨三枚のせいだと思っていた。
* * *
「あの人たちも知ってるんですか」
私は訊きました。
「司祭さまたちです。私が偽物だってこと」
「いいえ。司祭たちにも本物はわかるんです。私と同じように。だからあなたを連れてきた。あなたが本物だと知っていて」
「じゃあ、あの人たちも……」
「見分けられるだけです。本物の力を借りて使うことはできない。どれだけ長くそばにいても」
その人は窓枠をつかんだ指を、一本ずつ開いては閉じました。
「だから彼らは長いあいだ、別のものを作ってきました。お金で。建物、照明、聖歌隊、金色の円盤。人に信じさせるのに、本物は必要なかった。本物がいなくても、信仰はよく売れましたから」
「じゃあ、どうして私を探すんですか。本物が要らないなら」
その人は答える前に、一度窓の下を見下ろしました。二階の高さでした。
「あなたが司祭たちを救わなければ、司祭たちは消されます」
私は最初、その言葉を聞き違えました。消されると聞いて、洗濯物の染みみたいなものを思い浮かべたんです。母の口癖があって。この染みは消えないね、って。だから司祭さまたちが染みなのかと思いました。ある意味、間違いでもありませんでした。
「死ぬってことですか」
「いいえ」
その人は首を横に振りました。
「消されるんです。死んだ人には墓がある。写真があって、覚えている人がいる。消された人には、何もない。最初からいなかったことになる」
「どうしてそれがわかるんですか。最初からいなかった人のことが」
その人は初めて、答えに詰まりました。ずいぶん経ってから、こう言いました。
「ときどき、理由もなく空いている椅子がある。私たちの側の人間は、それを数えるんです」
* * *
空いている椅子。
俺はベッドから立ち上がって、部屋を見回した。椅子はなかった。白い部屋には二脚ある。一脚は俺の、一脚は彼女の。
七番目について彼女が言ったことを思い出した。だから今、ここにはいらっしゃいません。死んだとは言わなかった。刑務所とも言わなかった。ここにはいない、と言ったのだ。
メモ用紙に、二つ目の質問を書いた。
2.「消される」という言葉――管理局もこの言葉を使うのか。
* * *
「私たちも、あなたと同じように、何かの意図で作られた存在なんだと思います」
その人が言いました。
「司祭、預言者、私のような人間。見分ける者たちです。見分けるべき本物がいなければ、私たちには用がない。用のないものは消される。だから彼らは、あなたを探すしかないんです。自分たちの子どもが生き延びるために」
「じゃあ、あなたは? あなたも消されるんですか」
「たぶん。いつかは」
その人は何でもないことのように言いました。今夜のおかずの話でもするみたいに。
「じゃあ、どうして私にこんな話をしてくれるんですか。あなただって、私を利用しないと生きられないのに」
その人は長いこと答えませんでした。ドアの向こうで、いびきがひとつ止まって、また続きました。私たちはふたりとも息を止めて、一緒に吐き出しました。
「五人目の本物は、私の弟でした」
その人が言いました。
「弟は、人の夢に入ることができた。最初は母の夢にだけ入っていました。亡くなった父に、夢の中で会わせてあげていた。次は近所の人たちの夢に。次は司祭たちが連れてきた人たちの夢に。その次は……」
その人は言葉を切りました。
「弟は司祭たちの言うとおりにしました。言うとおりにすれば、私が無事でいられると言われたから。弟は最後まで、自分の力を自分の意思で使ったことがなかった。他人の夢ばかり見て、逝ってしまいました」
「消えたんですか」
「消えました」
「じゃあ今、弟さんを覚えているのは……」
「私だけです。母も弟を覚えていない。母にとって、私はひとり息子です」
* * *
俺はファイルを閉じなかった。閉じられなかった。
妻は俺を覚えている。不同意事由書を出したと言っていた。4年間、失踪届を取り下げなかった。覚えているというのは、そういうことだ。書類を出して、取り下げないこと。
だが、もし俺が消されたら。妻は4年間、何を待っていたことになるのか。最初からいなかった人間のために出した書類は、どうなるのか。
その考えがあまりに怖くて、俺は次のページをめくった。
* * *
「弟の遺言があったんです」
その人が言いました。
「六人目が現れたら、前もって教えてやってくれ、と。自分みたいになる前に。どう逃げるか、どう振る舞うか、準備する時間をやってくれ、と」
「それで来たんですか」
「それで来ました。司祭たちは、私があなたを鑑別しに来たと思っている。鑑別は昼間に済みました。今は、弟のお使いをしているところです」
その人が窓枠から片手を離しました。室外機が危なっかしく傾きました。私はとっさにその人の手首をつかみました。冷たかった。その人は私の手を見下ろしました。
「機会があったら、逃げなさい」
「母がいるんです」
「わかっています。だから、機会があったら、と言ったんです」
その人は私の手を、ゆっくりとほどきました。
「私は、あなたの能力が何なのかを訊きません。見せてくれとも言いません。他の人間はみんな、それを訊くでしょう。私はひとつだけ言います」
その人は私の目を見ました。
「私は、あなたの痛みを信じます」
私はその言葉を聞いても泣きませんでした。初めてここに来た日、白い服の男に「信じます」と言われたときは泣いたのに。今度は泣きませんでした。今度の言葉は本物だったから、泣けなかったんです。
「夜も遅いですね」
その人は室外機から立ち上がりながら言いました。室外機が、ほっとため息をつくようにきしみました。
「私はもう部屋に戻ります。明日の朝まで、この命があることを願っています」
その人は壁を伝って、隣の窓へ移っていきました。あの大きな人が、猫みたいに静かでした。ドアの前の兄弟たちが目を覚ます前に、その人は廊下に回って、ふたりに毛布を一枚ずつかけていったそうです。翌朝、兄弟たちは毛布をかけられた状態で目を覚まして、お互いを疑ったそうです。
その夜、私は眠れませんでした。
窓を閉めて、カーテンを引いて、ベッドに横になって、また起き上がりました。机の引き出しからボールペンを出しました。団体が配ったボールペンでした。金色の円盤のロゴが入っていました。紙はありませんでした。だから、ミサで読むようにと渡された文章の束を裏返しました。裏は白紙でした。
いちばん上に、こう書きました。最近、足がすごく痛いんです。
いまお読みになっているこの文章は、あの夜に始まりました。最初のページからここまでは、あの夜に一気に書いたものです。あの人が言ったことを忘れないうちに、あの人が本当にいたことを、どこかに残しておくために。誰かが、そんな人は最初からいなかったと言ったら、この紙を見せるために。
書き終えて、紙の束をマットレスの内側の縫い目をほどいて押し込みました。縫い直す糸がなかったので、そのままにしました。
* * *
翌朝、私はわざと、外国のお客さまが泊まる別館のほうへ散歩に出ました。杖なしで、歯を食いしばって。
あの人の部屋のドアが開いていました。掃除の姉妹が中にいました。
部屋は空っぽでした。鞄も、服も、コーヒーカップもありませんでした。ベッドのシーツまで新しいものに替わっていました。折り目がくっきり残った、新品のシーツでした。
「ここにいらした方は?」
私が訊くと、姉妹は首をかしげました。
「この部屋は、一週間ずっと空いてましたけど」
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俺はファイルを置いて、自分のベッドを見下ろした。
四日前、この部屋に初めて入ったとき、シーツには折り目がくっきり残っていた。新品だった。俺はそれを、気遣いだと思っていた。
メモ用紙に、三つ目の質問を書いた。
3.俺のベッドのシーツ――この部屋には、前に誰がいたのか。
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あの男の名を、我々は記録しなかった。記録できなかった。我々が広げたページのどこにも、彼はいなかった。
我々が消した者は、我々にも読めない。それが消しゴムの代償だ。




