第5話 通訳のいない夜(1)
管理番号KR-06 添付文書1
15〜27枚。
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外国のお客さまが帰ってから三日間、足がいっそう痛みました。
刃が二本になったみたいでした。一本は足の裏、一本は足首。杖がないとトイレにも行けませんでした。でも杖をつくと、見張りの兄弟が嫌がりました。あの方が杖をついている姿を誰かに見られてはいけない、と。だから私は宿舎の中でだけ杖をつきました。ドアが開く音がすると、杖をベッドの下に隠しました。自分の部屋で、自分が隠すものができたのは、それが初めてでした。
見張りも厳しくなりました。もともとドアの前には兄弟がひとり立っていたのに、あの日からふたりになりました。夜もです。ひとりは立って、ひとりは椅子に座っていました。二時間ごとに交代しました。交代のたびにお互い敬礼をするんですが、何の敬礼なのかはわかりません。手のひらで金色の円盤の形を作るんです。初めて見たときは笑いをこらえるせいで、足がよけいに痛くなりました。
あのフランス人が司祭さまの頬を叩いたことは、誰も口にしませんでした。通訳をしていた司祭さまは、次の日から姿が見えなくなりました。別の支部へ異動になったそうです。
三日目に、母が面会に来ました。本当は月に一度なのに、その月は二度目でした。司祭さまたちが特別に許可してくれたそうです。母は新しいコートを着ていました。キャメル色でした。母がこれまでの人生で着た服の中で、いちばん高そうに見えました。
母は紅参をひと箱持ってきました。司祭さまたちに、あの方の体力にいいと勧められたそうです。箱の側面には、団体の名前が入ったシールが貼ってありました。団体が売っている紅参でした。母はそれを自分のお金で買ってきたんです。母のお金は、団体からもらった生活費でした。お金がぐるりとひと回りして、紅参になって私の前に置かれていました。
「顔色がよくなったね」
母は私の頬をなでながら言いました。鏡を見ていないのでわかりませんが、そんなはずはないと思います。毎晩足が痛くて眠れなかったので。それでも母の目には、よく見えたんでしょう。母は自分が見たいものを見ていました。私は母に、足の話をしませんでした。
母が帰るとき、私はドアまで歩いて見送りました。杖なしで。母が振り返るたびに笑いました。母が廊下の端に消えた瞬間、壁に手をついてへたり込みました。
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母は、自分が見たいものを見ていた。
俺を見る人間は、自分がいちばん見たくないものを見る。向きは逆でも、同じ病だ。誰も、目の前にいる人間を見ていない。
妻は何を見るのだろう。見たいものか、見たくないものか。4年間待ち続けた夫か、4年間帰ってこなかった夫か。
その二つが同じ顔だというのが、問題だった。
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俺はここで、読むのをやめた。
異動。七番目は「ここにはいらっしゃいません」。六番目の通訳司祭は「別の支部へ異動」。人が消えるときに使う言葉は、どこも似たようなものだ。会社でもそうだった。俺が日本に行く前、韓国本社で隣の席だった課長が、ある日「地方異動」になった。翌週、会社のビルの前で、その人がひとりでプラカードを掲げているのを見た。
今朝、配膳口から入ってきたトレイには汁物がなかった。汁物禁止。ラーメンのせいだ。いや、俺のせいだ。
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四日目の夜でした。
その日も夜中の二時ごろに目が覚めました。足が痛くて目が覚めたのか、目が覚めたから足が痛いのか、わかりません。横になって天井を見ていると、窓から音がしました。
コン、コン。
私の部屋は二階でした。窓の外に足場なんてありません。私は杖をついて窓まで行きました。カーテンを開けました。
あの背の高い男が、窓の外にしゃがんでいました。
正確には、窓の下のエアコンの室外機の上に。あの大きな人が室外機の上にしゃがみこんで、片手で窓枠をつかみ、もう片方の手で窓を叩いていたんです。室外機がその人の重みできしんでいました。
私は驚きすぎて、悲鳴も出ませんでした。ドアの前の兄弟たちを呼ぶことさえ思いつきませんでした。その人が指を唇に当てました。しーっ。それからドアのほうを指さして、両手を合わせて頬に当て、首をかしげました。眠っている、という意味でした。
ドアに耳を当ててみました。いびきが二つ聞こえました。
窓を開けました。その人がささやきました。
「コーヒーをプレゼントしたんです。おふたりとも、とても喜んでくれましたよ」
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俺は笑った。声を出して笑った。上の観測室に聞こえたかもしれない。
睡眠薬入りのコーヒーを「プレゼント」と呼ぶ人間。向こうにもそういう奴がいた。うちのパーティーの盗賊だ。あいつはよく城門の衛兵たちに「プレゼント」をした。衛兵たちはいつもとても喜んだ。そして朝まで目を覚まさなかった。
あの盗賊は、魔王城の前で死んだ。俺が埋めた四人のうちの一人だ。
笑いが収まったとき、俺はあいつのことを考えていた。4年3か月なのか11年なのかもわからない時間の中で、初めて、あいつの顔がはっきり浮かんだ。
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その人は窓の中には入ってきませんでした。室外機の上にしゃがんだまま話しました。私も窓枠の下にしゃがみました。立っていると足が痛かったし、その人と目の高さを合わせるにはそのほうが楽だったので。そうやってふたり、窓ひとつを挟んでしゃがみこんで話しました。誰かが見たら、何かの密談だと思ったでしょう。実際、密談でした。
その人が言いました。
「昼間はすみませんでした。あの連中の前では、ああ言うしかなかったんです」
フランス語でした。私にはわかりました。あの日の応接室と同じように。
私は答えました。
「大丈夫です。でも私、フランス語わからないんですけど」
その人がまばたきしました。それから、ゆっくり笑いました。応接室では一度も笑わなかった人でした。
「私も韓国語はわかりません」
その瞬間、わかったんです。その人も、私の言葉を理解していました。私は韓国語で話していたのに。
ふたりとも、それがおかしいことはわかっていました。でも、どちらも先にそれを訊きませんでした。訊いた瞬間に、何かがはっきりしてしまいそうで。
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俺はファイルを閉じて、日本の警察署のことを考えた。
俺は日本語がわかる。会社に勤めていたからだ。それは俺の実力だ。そう信じていた。
けれど向こうに落ちた最初の日、俺は向こうの言葉がわかった。習ったこともないのに。年老いた司祭は神の加護だと言った。それを聞いて、俺はうなずいた。他の説明は要らなかった。十一歳の子どもが母親に、どうして空は青いのと訊く程度の好奇心すら湧かなかった。
それがおかしいと思ったのは、今が初めてだった。そして、その考えがこんなに遅れてやってきたこと自体も、おかしかった。
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その人が、窓枠をつかむ手に力を込めました。室外機がまたきしみました。
「時間があまりありません。コーヒーは四時間しかもたない。大事なことから話します」
その人は私の目をまっすぐ見ました。
「私には、あなたがわかるんです」
「何がですか」
「あなたが本物だということが」
私は笑ってしまいました。ここの人たちも毎日そう言っていましたから。あの方は本物だ。あの方は天が遣わしたお方だ。献金台帳のいちばん上に、そう書いてありました。
その人は笑いませんでした。
「あの連中は、あなたが本物だと信じたいだけです。私は違う。私には本物が見える。本物でないものも見える。この国に来て、本物だという人間に十一人会いました。十一人とも偽物でした。司祭たちが連れてきた人、テレビに出ていた人、山で祈っているという人。でも、あなたは本物です」
「どうしてわかるんですか」
「説明はできません。あなたがあの空を見て、青いとわかるのと同じです」
そして、その人は言いました。
「あなたは、私が見た六番目の本物です」
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六番目。
指がその文字の上で止まった。KR-06。管理番号。そして、この男が数えた六。
俺は枕元に置いたメモ用紙に、番号を振って書いた。会社員時代の癖だ。質問には番号を振らないと、答えが返ってこない。
1.六という数字――偶然か。
そして、また読み進めた。
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「残りの五人は?」
私が訊きました。その人は少し、窓の下を見下ろしました。二階の高さでした。落ちたら足が折れる高さです。
「消えました」
「死んだんですか」
「消えたんです。その違いは、あとで話します」
その人は指を一本ずつ折りました。
「一人目は、とても幼い子どもでした。五歳。二人目は、とても年老いたおばあさん。九十歳。三人目は男で、四人目は女でした。五人目は……」
指が五本とも折れました。その人は拳を握ったまま、しばらくじっとしていました。
「五人目のことは、あとで話します」
「どうして消えたんですか」
「自分の能力の使い方を知らなかったからです」
「私だって知りません。能力なんてありません。足が痛いだけです」
「五人とも、最初はそう言いました」
その人は少しためらってから、また口を開きました。
「ある人は宙に浮くことができた。ある人は、手を触れると枯れた花がまた咲いた。そして、ある人は……十五歳の女の子でした。その子は、水を飲むことができなかった。その子が飲む水が、すべて……」
その人は言葉を切りました。
窓の外は、とても静かでした。ドアの向こうから、いびきだけが聞こえていました。
「やめましょう」
その人が言いました。
「むごい話は、これ以上したくない」
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我々は、あの子の水を覚えている。あの子の最後のページを広げたとき、我々のうちの一人が、初めて針を置いた。
それが分裂の最初の針目だったことを、そのときは誰も知らなかった。




