第4話 ラーメン
ドアを開けて入ってきたのは、彼女ではなかった。
二十五、六の男だった。黒いTシャツにカーゴパンツ、首からIDカード。トレイを両手で持っていて、トレイの上のわかめスープが波打っていた。手が震えているからではない。足が速いからだ。さっさと置いて、さっさと出ていきたい足取りだった。
「あ、お、おはようございます。今日は僕が……室長が定期報告で外に出てまして」
室長。彼女は室長だった。六日目にして初めて知った、彼女の肩書きだった。
男は俺のほうを見ずにベッドの端まで来た。視線はトレイに固定されている。正確には、わかめスープの器の縁に。絶対に目を合わせるなと誰かに教わったのは明らかだった。彼はその教えを、実に真面目に守っていた。
トレイを置く、その瞬間までは。
スープの器がトレイの上で滑った。汁がこぼれた。男が反射的に顔を上げた。そして、俺と目が合った。
息が止まる音が聞こえた。
男の右手が腰へ行った。黒いプラスチックの塊が引き抜かれる。テーザー銃だった。銃口が俺の胸を向いた。彼の口が開いて、閉じて、また開いた。声は出なかった。
引き金にかかった人差し指が、白くなった。
俺は、いちばん小さな音を探した。
この部屋でいちばん小さな音は、こぼれたスープがトレイの縁から床へ落ちる直前の、しずくが伸びていく音だった。
その音を、つかまえた。
* * *
世界が青ざめた。
俺は立ち上がって男の前に立った。テーザー銃の銃口は、俺のみぞおちの高さで止まっていた。引き金は半分引かれている。あと一拍遅れていたら、俺は床でけいれんしていただろう。向こうで雷の魔法を食らったことがある。こっちの雷も、たいして変わらない気がした。
男の顔を見た。
怯えた顔ではなかった。いや、怯えた顔ではあった。ただ、その下に別のものがあった。目のふちが赤い。小鼻がふくらんだまま止まっている。下唇が内側に巻き込まれている。七歳の子どもが叱られる直前にする顔だった。泣くのをこらえている顔。
この男は今、何を見ているのだろう。
訊かないことにした。彼女が七番目と交わした約束は彼女のものだが、その理由は今や俺のものでもあった。自分が何に見えているかを知った瞬間から、人はそれになっていく。
テーザー銃を調べた。向こうにはなかった代物だが、仕組みは単純だった。グリップの下にバッテリーパックがはまっている。親指で留め具を押すと、パックが抜けた。止まった世界で物に触れると、俺の手が届く手のひらひとつ分だけ時間が流れる。パックは、俺の手のひらの上でだけ重さを持った。
パックをどこに置くか、少し迷った。床に置いたらなくしそうだ。なくしたら、この男が始末書を書くことになりそうだ。ああいうIDカードを下げた人間が始末書を書かずに済む職場は存在しない。俺も会社勤めをしていたから知っている。
男の胸ポケットにパックを入れた。ボタンまで留めてやった。
それから床を見た。スープのしずくがひとつ、トレイの縁にぶら下がっていた。時間が戻れば落ちるだろう。スープが冷めていくのがもったいなかった。止まった世界ではスープも冷めない。だからといって、この状態で飲むわけにもいかない。スープにスプーンを入れると、スプーンが触れた手のひら分だけが溶けて、残りはゼリーみたいに固まったままになる。向こうで一度やってみた。まずかった。
ベッドに戻って座った。
しずくの音を、放した。
* * *
カチッ。
テーザー銃が空振りした。男が引き金を最後まで引いたのだ。何も起こらなかった。
カチッ。カチッ。
男はさらに三回引いた。それからテーザー銃を見下ろした。バッテリーパックが抜けた場所が、ぽっかり空いていた。彼はその空洞を長いこと見つめていた。やがて膝が折れるように、床にへたり込んだ。テーザー銃が手から滑って、わかめスープの水たまりに落ちた。
俺はトレイを引き寄せて、スプーンを取った。スープは半分こぼれたが、半分は残っていた。
わかめスープをすくって飲んだ。今日もしょっぱかった。それでも昨日よりはましだった。俺が泣いたのを見て、誰かが塩を控えたらしい。
男は床に座ったまま、俺がスープを飲むのを見ていた。テーザー銃はまだスープの中だ。拾い上げることにすら、頭が回らないようだった。
「それ、拾ったほうがいいですよ。電化製品でしょう」
俺が言うと、男はびくっとしてテーザー銃を拾い上げた。わかめが一本、銃口に引っかかって垂れ下がった。
* * *
昼飯は、ドアの下の配膳口から入ってきた。何日も気づかなかった配膳口だった。トレイが床を滑り込んできて、配膳口のふたがパタンと閉じた。わかめスープの代わりに、ふた付きのプラスチック容器に味噌汁が入っていた。俺が報告書を書く前に、再発防止策が実施されたわけだ。
午後二時ごろ、ドアの外でテープを剥がす音がした。夕方、白い部屋へ向かうときに見ると、俺の部屋のドアの外側にラミネートされた紙が貼ってあった。
配膳時は二人一組。対象と目を合わせないこと。汁物禁止。
いちばん下に、小さな字で一行が付け足されていた。テーザー銃のバッテリーは随時点検。
彼女は午後五時に戻ってきた。
戻るなり、俺を白い部屋に呼んだ。テーブルの上にA4用紙が二枚とボールペンが二本。一枚は俺の前に、一枚は空いた椅子の前に。
空いた椅子に、あの男が来て座った。俺から対角線でいちばん遠い席だ。彼は深くうつむいていた。
「事故報告書です」
彼女が言った。
「お二人とも書いていただきます」
「俺もですか」
「関係者は全員書きます。加害者、被害者、目撃者。今回は目撃者がいないので、お二人です」
「俺は加害者ですか、被害者ですか」
彼女は答えずに、用紙の上部を指さした。印刷された文字があった。
□加害 □被害 □その他( )
俺は「その他」にチェックを入れ、かっこの中に「スープを飲んでいた人」と書いた。
報告書は思ったより長かった。発生日時、場所、経緯、対応、再発防止策。会社員時代に書かされた始末書の書式とほとんど同じだった。世界を救って帰ってきて、最初に書く文章が始末書とは。向こうの王は俺に勲章をくれた。こっちはボールペンをくれた。
ありのままに書いた。対象者がトレイをひっくり返しかける。目が合う。対象者がテーザー銃を向ける。本人が時間を停止。バッテリーパックを除去。対象者の胸ポケットに入れる。時間停止を解除。わかめスープを飲む。
再発防止策の欄にはこう書いた。次からスープはふた付きの器で。
彼女が二枚を回収した。俺のほうを先に読んだ。読みながら、ある箇所で止まった。
「バッテリーはなぜ胸ポケットに?」
「なくしたら始末書を書かされると思って」
対角線の端で、男が顔を上げた。初めて俺を見た。そしてまた息が止まった。彼は慌ててうつむいた。
「すみません。すみません。その、モニターだと普通のおじさんだったのに」
彼女が彼を見た。
「研修で説明したはずです。モニターと鏡では普通に見えます。同じ空間で、肉眼で見たときだけ作用します」
「わかってたんです。わかってたんですけど、その……」
彼は最後まで言えなかった。
俺はその言葉を噛みしめた。モニターだと普通のおじさんだった。だとしたら、日本の警察署で映像を百十二回見ていた連中も、彼女も、画面の中ではただのおじさんを見ていたのだ。リビングの床にうずくまった、三十八歳の男を。
あの連中は、画面の中の俺を見ながら何を考えていたのだろう。なんでこんな奴が、と。
「カップ麺」
俺が言った。二人とも俺を見た。男はすぐにまたうつむいた。
「昨日、上の階でカップ麺をこぼしたの、あなたですよね。あのとき音がしたんで」
男の耳が赤くなった。彼女が短く息を吐いた。笑ったのか、ため息なのか、わからなかった。
「そうです。あの日の観測記録に汁の染みがありました」
その日から、男のあだ名は「ラーメン」になった。正確には彼女が彼をそう呼びはじめ、俺も真似をした。ラーメンは抗議しなかった。抗議するには、俺を見なければならないからだ。
* * *
ラーメンが出ていったあと、俺は彼女に言った。
「妻の住所を見せてください」
「できません」
「行きません。見るだけです」
「見たら行きます」
答えるのが早すぎた。用意された文章だ。七番目も、同じことを求めたのだろうか。
「今日のようなことが、1年間続きます」
彼女が言った。
「ラーメンは訓練を受けた人間です。あなたが無害だと知っていて、何日もモニターであなたを見ていて、テーザー銃の使用規定も知っています。それでも、ああなりました。奥様は訓練を受けていません」
返す言葉がなかった。
彼女は報告書二枚をファイルに挟もうとして、手を止めた。ラーメンの報告書のいちばん下の欄を見下ろしていた。印刷された欄の見出しが、逆さまに見えた。目撃対象の供述(対象が何に見えたかを記入)。
その欄に、ラーメンの字があった。最初の一文字が見えた。
お
次の文字を読む前に、彼女の手のひらがその欄を覆った。
「これは、あなたが見る書類ではありません」
お。親父だろうか。お化けだろうか。言葉にならない呻き声だろうか。
彼女は手のひらで欄を覆ったまま、ファイルを閉じた。そして俺のほうを見ずに言った。
「茶色のファイル、今夜も読んでください。十五枚目からです」
* * *
我々は、ラーメンが何を見たのかを知っている。彼が三歳から三十歳になるまでのすべてのページを、広げておいたのだから。
ただ、なぜ彼が泣きそうな顔をしていたのかは、我々にも最後までわからなかった。
我々はいつも、結果しか知らなかった。だから、針を手に取った。




