第83話 送還命令書(1)――ほつれの月
管理番号KR-07 矯正相談記録
課題25 — 車の中。
* * *
手のひらのガーゼを替えに、医療課へ行った。
医者はガーゼを剥がして、手のひらを覗き込んだ。
溝が四本あった。三日月の形に並んでいた。
医者は、傷の原因の欄に何と書くのかと訊いた。
俺は、自分の爪だと答えた。
医者はそれをそのまま書き、その下に処方を書き足した。
爪の手入れを要す。
1年半前、医療課の記録に書かれていたのと同じ処方だった。
医者はそのときの記録を引っ張り出して確かめると、言った。
「同じ処方を二度受け取る人間は、たいてい処方を守らなかった人間なんですよ」
俺は守った、と言った。
爪は短かった。
短い爪でも、溝は彫れた。
* * *
同じ部屋で、牧師は俺がまた相談室使用申請書を書いているのを見て訊いた。
「最終章だって言ってたじゃないか。また書くのか」
俺は、この前のはあっちの最後の章で、今度のはこっちの最初の章だ、と答えた。
牧師は、連続ドラマだって最終回の次の週には特別編をやるだろう、と言った。
特別編は、本編でできなかった話をするものなんだ、とも言った。
そして付け足した。
「特別編は、たいてい、もっと悲しいんだよ」
* * *
医療課の記録。負傷原因:本人の爪。処方:爪の手入れを要す。二度目。
* * *
課題24の終わりに、俺はこう書いた。
あの騎士はどこへ行ったのか。
それは移送車両の中でのことだから、次に書く。
今回の課題は、その次だ。
白い部屋で目を覚ました日から書く。
俺はあの日、自分を失ったまま目を覚ました。
白いものの中で散らばったものは、戻ってこなかった。
師匠の縦書きの文字も、三つの井戸も、マセルンの冷たい手も、俺の名前も。
残っていたのは、あの騎士のものだった。
孤児院の塀の上での6年。その6年が、俺の頭をいっぱいにした。
俺はその6年を自分のものだと思った。ほかに何もなかったからだ。
だが、あの騎士もそこにいた。
この身体の中に。
あの騎士の身体だったのだから、当然だった。
大法則は空白を残さない。
あの騎士は自分の場所へ戻り、俺はその場所へ一緒に落ちた。
一つの身体に、二人。
あの騎士は目を覚ましていた。俺は壊れていた。
壊れた俺は、あの騎士の記憶を着て、あの騎士のふりをした。
いや、ふりをしたのではない。そう信じた。
あの騎士は、そんな俺を知らなかった。最初は。
その4か月のあいだ、この身体を動かしていたのが誰だったのか、俺には今も正確に分けられない。
朝、食器を受け取った手。夜、ベッドの下へ潜り込んだ背中。床板を彫った爪。
ある日はあの騎士で、ある日は俺だった。
たいていは、二人が重なっていた。
一人が扉を開け、もう一人が敷居をまたぐ、そんなふうに。
* * *
三か月目になった日、白い部屋のあの声が12枚の紙を読み上げた。
読んでくれと、この身体が言ったのだ。
知る権利がある、と。
その言い回しは、あの騎士のものだった。正しさを重んじる人間。自分について書かれたことを、知らないままにはしておけない人間。
あの声は20分のあいだ、1枚も飛ばさなかった。
9枚は同じだった。
子供を食う怪物。
あの騎士はそれを聞いた。笑った。
何の冗談だ、と。
6年のあいだ子供たちを守ってきた人間に、そんな言葉があるものか。
あの騎士は部屋に戻り、洗面台の鏡を見た。
鏡にはあの騎士がいた。
だが、あの9枚を聞いたあとでは、鏡の中の顔が少し違って見えた。
口が少し大きく、歯が少し長い。
あの騎士が鏡の中に見たものは、俺だった。
あの騎士は知らなかった。
鏡を割った。
手は治らなかった。
神聖力が抜けていっていた。3か月目だった。
あの騎士はそれを、帰還のせいだと思った。
当たっていた。だが、半分だけ。
あの騎士はその日から、自分の内側に何かがいると感じ始めた。
名前は分からなかった。顔も分からなかった。
ただ、9人が見たあれが鏡の中にもいた、ということだけは。
だからベッドの下に潜り込んだ。
床板に爪で三文字を刻んだ。
見るな。
それは自分自身に向けた言葉だった。自分が何に見えるか、考えるな。そう考えれば、そうなってしまう。
その爪を動かしたのがあの騎士だったのか、俺だったのか、俺には分からない。
ただ、あの三文字が誰に向けた言葉だったのかは、今なら分かる。
あの騎士が、俺に言った言葉だった。
見るな。
出てこいという意味ではない。そこにそのままいよ、という意味だ。俺の中で目を覚ますな、という意味だ。
1か月のあいだ、それは効いた。
俺は、目を覚まさなかった。
* * *
板の三文字、「見るな」。
その文字を刻んだ手が誰のものだったのか、彼は分からない、と書いた。誰に言った言葉だったのかは、分かる、と書いた。
* * *
4か月目に入った日の朝、移送車両に乗った。
同行者は2人だった。運転が1人、同乗が1人。同乗した者は若かった。新人だと言った。腰にテーザー銃を提げていた。そいつは俺の向かいの席に座った。車内は狭かった。向かいと言っても、膝が触れるほどの距離だった。
そいつは俺を見なかった。教育されたとおりに。俺の手を見て、窓の外を見て、自分の手を見た。そいつの手の甲には小さな傷跡があった。そいつはその傷跡を親指でこすった。緊張したときに出る癖のようだった。
車のドアが閉まった。ドン。
この身体の記憶はそこで途切れる。課題1からこの課題の前まで、俺はいつもそう書いてきた。車のドアが閉まる音で途切れ、拘置所の天井からまた始まる。その間のことは、判決文にしかない。
今、その間を書く。その間を覚えているのは、この身体ではなく俺だった。俺はそのとき、そこにいた。壊れたまま、しかし、そこに。
* * *
車が発って20分ほど経ったときだった。
首筋が冷えた。
冷たい指が一本、首筋から頭のてっぺんへと撫で上げていった。その指は、身体の中へ入ってきた。何かを探す指だった。手探りの指。その指は、この身体の中の二つを順に指した。あの騎士を指した。通り過ぎた。俺を指した。止まった。
その指が俺を指した瞬間、俺は目を覚ました。
ひと月のあいだ、床板の三文字に押さえつけられていた俺が。白いものの中で散らばったものは戻ってこなかった。だが、指先の熱は戻ってきた。11の森で名前を呼んでいた指先。その熱が、この身体の指先に広がった。
あの騎士が、それを感じた。
あの騎士はその瞬間、俺を認めた。神殿の庭の、光の門の前で、司祭の手首を、手袋をはめた手で掴んでいた者。司祭様、と呼んでいたあの騎士の目には、あの日、司祭しかいなかった。だがあの騎士は、あの日、背後から聞こえた悲鳴を聞いていた。その悲鳴が何だったのか、4か月のあいだ、分からなかった。その瞬間、分かった。その悲鳴の主を引き裂いた者が、今、自分の内側にいるということを。
あの騎士は、俺を押し出そうとした。
身体から。自分自身の身体から。あの騎士は6年のあいだ、壁の上であれらを食い止めてきた人間だった。崩れた壁の前で、両手で隙間を塞いだ人間だった。あの騎士はあの日、車の中でこの身体の隙間を塞ごうとした。その隙間から這い込んできたものを、押し出そうとした。
俺は耐えた。ここで押し出されれば、俺に戻る場所はなかった。白いものの中へ、また散らばってしまうだけだった。俺はこの身体にしがみついた。あの騎士の後ろ姿にしがみついていたときのように。
この身体が、歪んだ。
* * *
うなじの指。前回の護送車両で彼が味わったのと同じ感覚が、あの日、車の中で初めてあったのだと、俺は書いた。
あの指が誰のものなのかは、彼はまだ書いていない。
* * *
向かいに座った新人が、顔を上げた。
教えられたとおり、俺の目を避けていた人間だった。俺の手と、窓の外と、自分の手だけを見ていた人間。その人間が、この身体が歪むのを見た。座席の上でのたうち、腕がおかしな角度に折れ、口から二種類の声が同時に漏れるのを。その人間は驚いて顔を上げた。そして見た。この身体の顔を。素の目で。腕一本ぶんの距離から。
その人は、息を止めた。
呪いが終わる、8か月前のことだった。
その人が何を見たのか、俺には分からない。
九枚のうちの一枚だったのかもしれないし、残りの三枚のうちの一枚だったのかもしれない。
その人は、手を伸ばした。
テーザー銃ではなかった。素手だった。歪むこの身体が傷つかないように、押さえようとする手だった。
教わっていない動きだった。その人は、教わるより先に手が出る人間だった。
その手が、この身体の肩に触れた。
その瞬間、この身体の両手が動いた。
あの騎士は、この身体から俺を押し出そうと、手に力を込めた。
俺は、この身体にしがみつこうと、手に力を込めた。
二つの力は、同じ二本の手に注がれた。
その二本の手の先に、その人の首があった。
その首を絞めた手が誰のものだったのか、俺は判決文より正確には言えない。
あの騎士は俺を押し出そうとし、俺は踏みとどまった。あの騎士は隙間を塞ごうとし、俺はその隙間にしがみついた。
その間に、その人の首があった。
俺たちのどちらも、その人を狙ってはいなかった。
それでも、その人の息は、俺たち二人の手の中で止まった。
運転席の人が車を止めた。
声を張り上げた。
無線が鳴った。
その後の記憶は、本当にない。今度は、俺にもない。
* * *
あの騎士は、その日、車の中で消えた。
どこへ行ったのか、俺には分からない。
白いものの中へ散ったのかもしれない。ただ消えただけかもしれない。
その人の息が止まるのを、あの騎士はこの身体の手で感じた。6年のあいだ、子供たちを守ってきた手で。
あの騎士にとって、それは終わりだった。
俺を押し出そうとする力も、踏みとどまる力も、その瞬間にあの騎士から抜けていった。
だが、あの騎士のすべてが消えたわけではなかった。
残ったものがあった。
あの騎士が正しいと信じていたもの。あの騎士が問いただしていたもの。知る権利、善と悪、子供たちを守らなければならないということ。
あの騎士の正義が、この身体に残った。あの騎士の記憶とともに。
壊れた俺は、その記憶とその正義を、自分のものとして着た。
拘置所の天井を見て目を覚ましたとき、俺はあの騎士だった。
人を殺したという判決を受けても、俺は狂気を信じた。
6年のあいだ子供たちを守ってきた人間が、正気のまま人を殺すはずがない。
それはあの騎士の言い方だった。
あの騎士には、そう言う資格があった。あの騎士は本当に、そういう人間だったから。
俺は2年半のあいだ、あの騎士の正義で自分を弁護した。
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この課題は、相談室で書かれた。移送車両のくだりで、お前は一度もペンを置かなかった。書き終えてから、お前は掌のガーゼを長いこと見ていた。
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あの人の名前を、俺は判決文で見た。二文字が伏せられたままだった。遺族陳述書では、陳述人の名前が伏せられていて、関係の欄には姉と書いてあった。
職場の欄には、国家移住管理局。白い部屋で、あの声が十二枚を読み上げていた、あの建物。
あの人に謝る文を、俺はノートの最後のページに一度だけ書いて、消した。課題9を書いていたときだった。
あのとき、俺はあの人の顔を知らないと書いた。今は知っている。
手の甲に、小さな傷跡があった。緊張すると、その傷跡を親指でこすった。教育より先に手が出る人だった。
あの人を殺したのは、俺たち二人だった。そして、俺たち二人ではなかった。
* * *
お前はあの人の手の甲の傷跡を、初めて書いた。2年半のあいだ、判決文にはなかった顔だった。
ノートの最後のページの、線で消した文は、その日も破られなかった。




