第82話 逃げるやり方(3)――継ぎの月
奥歯が痛み始めたのは、半年前だった。
左下の、一番奥。
最初は、冷たい水を飲むときだけ染みた。
その次は、飯を噛むときにも染みた。
その次は、何もしていないときにも染みた。
医療課に診療申請書を出した。症状欄には、奥歯の痛みと書いた。
医療課の医師は口を開けて見せろと言い、懐中電灯で覗き込んで、外部の歯科診療が必要だと言った。
刑務所の中に、歯科の椅子はなかった。
外部診療は待ち人が多く、俺の順番は半年後だと言われた。
同室の牧師は、半年もすれば歯はひとりでに抜けると言った。自分は刑務所で、この二本をそうやって見送ったと言った。待っているうちに抜け、抜けたら痛くなくなったと言った。
牧師はそれを、待つことの恵みと呼んだ。
半年が過ぎても、俺の奥歯は抜けなかった。代わりに、もっと痛くなった。
牧師は、恵みが遅く来る人もいると言った。
昨日の晩、班長が来て、明日の外部診療が入ったと言った。朝9時、出発。護送車両。
班長は、出発前に守るべきことを読み上げた。
車内で立ち上がらないこと。窓の外へ手を振らないこと。同乗する刑務官の指示に従うこと。非常時には頭を下げること。
班長はそれを全部言い終えると、飛行機に乗るときに聞かされる言葉みたいじゃないか、とひとりで笑った。
俺には、飛行機に乗った記憶がなかった。
この身体には、あるのかもしれなかった。
* * *
牧師は朝、俺を見送った。祈ってやると言った。声は出さなかった。
牧師は唇を小さく動かし、両手を俺の頭の上に上げた。載せはしなかった。載せれば献金を受け取らねばならんが、今は受け取るものがない、と牧師は言った。
祈りを終えると、牧師は頼み事をひとつした。
「外に出たら、コーヒーの匂いを嗅いでこい。病院の前にコーヒーを売っているところがあるはずだ。匂いを嗅いで、俺に話してくれ。どんな匂いだったか」
「コーヒーミックスの匂いとは違うんですか」
「違うさ。あれは粉で、外のは豆だ」
俺はそうすると答えた。
牧師は指で、俺の囚衣の襟を一度だけ伸ばしてくれた。飯粒は塗らなかった。病院に行く者に襟を立てたところで、誰が見るんだ、と言った。
* * *
護送車両はワゴン車だった。
後部座席の窓には鉄網があった。運転席と後部座席の間にも鉄網があった。
俺は後部座席の奥に座った。手首に手錠が嵌められた。手錠は腰に巻いた帯につながっていた。手は胸の高さより上に上げられなかった。
同乗した刑務官は若かった。初めて見る顔だった。名札は裏返っていた。新人で、今月来たと言った。
その刑務官は俺の隣には座らず、向かいの席に座った。狭い車内では、向かいといっても膝が触れるほどの距離だった。
刑務官は俺を見なかった。俺の手首の手錠を見た。次に窓の外を見た。その次は自分の手を見た。
その視線がどこから来るのか、俺には分かった。教育だ。
この刑務官は、俺について教育を受けているのだろう。この収容者は、護送車両の中で職員を殺した。だからこの収容者と車に乗る時は注意せよ。呪いは2年前に終わったので、目を合わせても息が止まることはない。それでも注意せよ。
刑務官は教育されたとおり、俺の目を避けていた。
車が出発した。刑務所の正門が後ろに遠ざかった。
窓の外を道が過ぎていった。2年半ぶりに見る外だった。
収容された日、護送バスの窓の鉄網の向こうを秋が過ぎていった。今日は鉄網の向こうを初夏が過ぎていった。木という木に葉が茂っていた。
俺は道端の電柱を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
癖だった。この身体の癖なのか、俺の癖なのか、もう問わなかった。
はしごの下で数を数えていた子のように、通り過ぎていくものの顔を見ようとした。
電柱に顔はなかった。
四十一で数えるのをやめた。
* * *
車の中は狭かった。
白い部屋の、あの女が十二枚を読み上げた声を、俺は覚えている。その声は、ほかのことも言った。移送前日の夜、扉の向こうで。
明日は運転に気をつけるように伝えておく、という言葉。
俺は、車に長く乗っていないから酔うかもしれない、と言った。
「六年間、馬にばかり乗ってきたでしょう」
その言葉は、この身体の言葉ではなかった。
この身体は、六年間、馬にほとんど乗っていない。
孤児院の騎士団は歩いて塀をよじ登った。馬に乗っていたのは俺だ。茶色の馬に乗り、ラバを引いた。
あの夜、俺はこの身体の口で、俺の言葉を話していた。その時は、分からなかった。
あの移送車両にも、向かいの席に新人が座っていたのだろう。その人物は教育されたとおり、俺の目を避けたはずだ。
だが、車の中は狭かった。
その先を、俺は知らない。車のドアが閉まる音で途切れる。拘置所の天井から、また始まる。その間のことは、判決文にしかない。
* * *
病院までは40分かかると言われた。20分ほどたったころだった。
首筋が冷えた。
窓は閉まっていた。エアコンもついていなかった。それなのに、首筋に何かが触れた。
指のようだった。冷たい指が一本、首筋から頭のてっぺんへ向かって、ゆっくりと撫で上げた。
髪の毛が逆立った。俺は振り返った。後ろには、車の後ろの窓と鉄網しかなかった。
その指は、首筋で止まらなかった。中へ入ってきた。身体の中へ。
何かを探す指だった。手探りの指。帳簿の欄を一つずつなぞっていく指。
その指が、俺の内側の何かを押さえた。押さえてから、しばらく止まった。確かめるようだった。
そして、俺の手が動きたがった。
手錠につながれた手だった。胸の高さより上には上げられない手。その手が、向こう側へ行きたがった。向かいに座る新人のところへ。その刑務官の喉へ。
理由はなかった。その刑務官は、俺に何もしていない。それなのに、手はそこへ行きたがった。指先が熱かった。
学堂の地下で、十一の森で、神殿の庭で熱かった、あの指先だった。
その刑務官が顔を上げた。こちらを見た。教育されたとおりに逸らしていた目が、俺を見た。
俺の身体がおかしな具合に捩じれているのを見たらしかった。驚いた目だった。車の中は狭い。その目と俺の目の間は、腕一本の長さしかなかった。
その瞬間、俺はわかった。あの日、車の中で、あの新人が何を見たのか。教育されたとおりに目を逸らしながら、俺の身体が捩じれるのを見てしまった、そのことを。そして、そのあとに何が起きたのかを。手が何をしたのかを。
* * *
俺は手を握った。
拳を。手錠につながれたまま。
爪が手のひらを掘った。短く切った爪だったのに、掘った。白い部屋の板を掘った力で。木目に逆らって掘った力で。
手のひらの肉が爪の下で裂けるのがわかった。痛かった。痛いのがよかった。痛い間は、この手が俺のものだった。
指先の熱が、手のひらへ下りてきた。手のひらで、爪がその熱を食い止めた。
向かいの刑務官の喉までは、腕一本の長さ。俺の手は、その長さを行かなかった。手のひらの中で止まった。爪が掘った溝の中で。
首筋の指が抜けていった。入ってきたときと同じように、ゆっくりと。最後にもう一度、押さえた。同じ場所を。そして、去った。
車の中が、また車の中になった。
向かいの刑務官は俺を見ていた。息をしていた。無線機を握った手が震えていた。
俺は拳を握ったまま、その刑務官に言った。
「大丈夫です。歯が痛くて」
刑務官はしばらく俺を見ていた。それから無線機を下ろした。そして、また窓の外を見た。教育されたとおりに。
俺は拳を開かなかった。病院に着くまで開かなかった。手のひらから血が出た。囚衣の膝のあたりに、小さな染みができた。
* * *
歯科で奥歯を抜いた。
「こんなになるまで、なぜ放っておいたんですか」
医者が訊いた。
「半年、待ちました」
医者は次に、手のひらはどうした、と訊いた。
「拳を握りすぎたんです」
医者は言った。
「歯を抜くときに拳を握る人は多い。でも、抜く前に握る人は初めてです」
看護師が手のひらにガーゼを当ててくれた。
病院の前に、コーヒーを売っている店があった。
護送車両に戻る前に、俺はその前を通った。
扉は開いていた。
匂いがした。焙煎した豆の匂い。
牧師の言ったとおり、コーヒーミックスの匂いとは違った。
苦い匂いだった。それなのに、温かかった。
俺はその匂いを、息を一度、深く吸い込んだ。
刑務官が俺の腕を軽く引いた。
俺は引かれていった。
息は、一度で足りた。
帰りの車の中で、うなじは冷たくなかった。
手も、静かだった。
向かいの刑務官は、最後まで窓の外を見ていた。
車の中は、相変わらず狭かった。
刑務所に着くと、その刑務官は俺の手錠を外しながら、初めて口を開いた。
「さっきは、大丈夫でしたか」
「歯が痛くて」
俺はもう一度、そう言った。
刑務官はうなずき、無線機に「護送完了。特記事項なし」と報告した。
その刑務官の護送日誌に、その日の特記事項はなかった。
特記事項があったと知っている者は、あの車の中に二人いた。
二人とも、その欄には何も書かなかった。
夕方の点呼のとき、「あいさつ」が配膳口の前に立った。
「こんにちは」
「あいさつ」の目が、俺の手のひらのガーゼに、少しだけ留まった。
「あいさつ」は、何も訊かなかった。
蓋を閉じるまでが、いつもより半拍、遅かった。
その半拍の間、「あいさつ」の息遣いが聞こえた。
歩く者の息ではなく、立っている者の息。
* * *
逃げるやり方を、俺は知っている。
初霜の日の朝。城中庭ではなく、神殿の中庭だった。封印ではなく、光の門。俺の土地ではなく、別の空。
司祭の手首を掴んで、あの騎士の背中にぶら下がって。俺は逃げた。
あの日、俺は計算をした。
その計算から、俺の土地を引いた。
したかった。
弁解はしない。
今日、車の中で、手はまたそのやり方を思い出した。向かいに座った者へと続く道を。
その道の先に何があるのか、もう知っている。
だから行かなかった。
爪で手のひらを掘って、手を押さえつけた。
床板を掘っていた爪。木目に逆らって引っかいた爪。今度はその爪で、俺自身を掘った。
今度は、逃げなかった。
それでも、一つだけ残った。
うなじの指。
冷たい指が俺の中を探り、何かに触れ、確かめて、去っていった。
その指が触れた瞬間、手は動きたがった。
あの日、移送車両の中でもそうだったのだろうか。
あの日も、あの指は来たのだろうか。
車のドアが閉まって、二十分ほど経ったとき。
だからあの日、あの時刻に、この身体の中の二人は、互いを掴んでねじれたのだろうか。
帰還して四か月目の日。移送車両の中。ドアが閉まって、間もなく。
なぜ、あの四か月の間は何事もなく、よりによってあの日だったのか。
よりによって、あの車の中だったのか。
刑務所の正門が、また見えた。
俺はガーゼを当てた手のひらを見下ろした。
血がガーゼに滲み出ていた。爪が掘った四本の溝の形で。
「なぜ、よりによってあの日だった。よりによって、あの時刻だった」
* * *
部屋に戻ると、牧師が訊いた。コーヒーの匂いはどうだった、と。
俺は、苦いが温かかった、と答えた。
牧師は目を閉じて、その言葉をしばらく味わった。
それから、それでいい、と言った。その匂いで半年は保つ、とも言った。
牧師は俺の手のひらのガーゼを見た。
何も訊かなかった。
代わりにその夜、音のない讃美歌を、いつもより長く歌った。
* * *
人々もまた、針を握ることを知っていた。彼らはそれを招請と呼んだ。
あの日、彼は病院の前でコーヒーの匂いを一度だけ吸い込んだ。牧師は、その一度の息を半年分として数えた。




