第80話 逃げるやり方(1)――継ぎの月
管理番号KR-07 矯正相談記録
課題23 — ラバ
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課題6で、この身体は一緒に働いた人たちのことを書いた。鼻を二度折られた団長、前歯の欠けた口笛、目の下にほくろのある左腕。それから、ラバを引いてきた巡回騎士。
先生はその一覧を指で押さえながら訊いた。
「この人の顔、覚えていますか」
この身体は答えた。
「いいえ。おかしな話ですが」
おかしな話ではなかった。
その顔は、この身体の記憶になかった。その顔を持つ者が、この身体の中にいたからだ。
自分の顔は、自分の目では見られない。
今度の課題は、ラバを引いていった側から書く。
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課題6の巡回騎士。彼が、反対側から書くと言った。題名は彼が決めた。
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封印官の条件文に署名した年の春、俺は自分の土地を出た。
約束の日まで、1年半が残っていた。その日までは、自分の土地を離れなくてもよかった。離れてもよかった。
俺は離れた。
自分の土地に留まれば、毎日、城中庭を通り過ぎなければならなかった。俺が立つことになる場所を。その庭で遊んでいる子供たちを。
その子供たちの顔を、1年半も見ていられる自信がなかった。
だから俺は、別の子供たちの顔を見に行った。
俺が駄目にした子供たちの顔を。
俺の地図の丸印のうち、最後に残った一つ。
東の果ての森。
その森の向こうの、塀のある村。
彼らは、あの森までは来なかった。あの森のものたちは、まだ俺の名を聞いていた。あの森のものたちが、毎晩、午前3時にあの塀を引っ掻いていた。俺が決めてやった時刻に。
俺は名前を一つ作った。あっちの言葉でよくある名前だった。その名前は、ここには書かない。
院長はその名を帳簿に書きはしたが、一度もお呼びにならなかった。信じられない名前だ、とおっしゃった。
院長の目は確かだった。
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茶色の馬を買った。ラバも一頭買った。
ラバの背には、大麦の袋と油の壺を載せた。
鎧は紋章のないものを選んだ。自分の家門の紋章が打ち込まれた鎧は、自分の土地に置いてきた。
そして、手袋をはめた。
指先が黒く染まっていた。
11の森で名を呼ぶたびに、指先は少しずつ黒くなった。最初は爪の下だけが黒かった。やがて、第一関節まで黒くなった。洗っても消えなかった。
その指先を見れば、誰でも何かに気づいてしまいそうだった。だから手袋をはめた。飯を食うときも、井戸の水を飲むときも。院長の前でも、子供たちの前でも、司祭の前でも。
課題6で、この身体はこう書いた。
「手袋は外しませんでした。飯を食うときも、井戸の水を飲むときも、はめていました」
この身体はその理由を知らなかった。俺は知っている。
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手袋の理由。指先が黒く染まっていた。課題6には、理由がなかった。
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その村に初めてたどり着いたのは、日暮れ時だった。
村の方の道から入った。孤児院の正門の前で馬を降りた。正門は塀とは反対側、村の方を向いていた。塀は孤児院の裏壁だった。森は、その裏壁の向こうにあった。俺の森が。
院長が正門を開けてくださった。大麦の袋をご覧になって、まず値段を訊かれた。俺は、値は受け取らないと言った。院長は俺を長いこと見ておられた。値を受け取らない人間は信じてはいけない——そんな顔だった。それでも、大麦は受け取られた。
その夜、俺は塀の上に上がらせてほしいと頼んだ。騎士団長が許した。一言で。
「上がれ」
梯子の横木ごとに、布が巻かれていた。五番目の騎士が子供たちに教えたという、あの結び方だった。俺はその結び方を知らなかった。あのときは。
塀の上には、騎士が一人立っていた。
鎧の肩が妙に膨らんでいた。藁を詰めた肩だった。
風は森の方から塀の方へ吹いていたのに、その騎士からは魚油の匂いがした。その騎士は森を見ていた。
俺が名を与えた者たちが伏している森を。
あの騎士が俺を見た。
若い顔だった。20歳そこそこ。肌の色が、あっちの人たちとは少し違っていた。瞳の色も。
あの騎士は俺を見て、笑った。
ラバを引いて来たという噂は聞いた。大麦の値を受け取らない者は初めて見た、と言った。院長は一晩中眠れずにいるだろう、とも言った。
それから森の方を指さして、自分はあの森から、手ぶらで歩いて出てきたところを石をぶつけられた、と言った。初めて来た日のことだ、と。
俺は、あの騎士が誰なのか分かった。
招請事由書の、あの欄。別の空から呼ばれて下りてきた剣。俺の名前のせいで呼ばれてきた者たちの、一人。
ところが、この剣は野にはいなかった。俺の最後の森の前に、塀の上にいた。
俺の者たちから、子どもたちを守りながら。
その夜、俺はあの騎士の隣に立って、明け方まで森を見た。
あの騎士は、俺の左側に立った。マセルンが立っていた場所だった。マセルンが南門へ下りてから、その場所に立った者は誰もいなかった。
あの騎士は、そこが誰の場所だったのか、知らなかった。ただ、森に背を見せまいとして、俺の左側に立った。
その夜の森は静かだった。午前3時になっても、塀を引っ掻く音はしなかった。
あの騎士は朝、塀から下りながら、今日は運が良かった、と言った。
梯子の下で、誰かが数を数えた。六。猫は数えなかった。
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俺はあの村に、あの騎士が来て5年目の春から、6年目の晩秋まで、出入りしていた。
2か月に一度、大麦と油を積んで行った。
院長は俺を気に入っていた。俺が値段を聞かなかったからだ。
院長は、俺が寄った月は帳簿の油の欄の出が少ないことに気づいていた。後援者の福だ、と言った。
福ではなかった。
俺がその村にいる夜、あれらは下りてこなかった。
俺は森側の角に、松明を持たずに立っていた。
あれらは森の縁で俺を見た。自分たちに名前を与えた者を。
あれらはその夜、塀を引っ掻かなかった。午前3時になっても、動かなかった。
俺はあれらを引き取ることはできなかった。だが、俺が立っている間、あれらは待った。名前を与えた者の、次の言葉を。
俺は何も言わなかった。森がどこまで続いているのかを見た。
課題 6に、この身体はそう書いた。
「私たちは、森から何が出るのかを見ました。あの方は、森がどこまで続いているのかを見ているようでした」
そのとおりだった。俺は、自分が作ったものの大きさを見た。
そして俺が去ると、翌晩からあれらはまた下りてきた。
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あの騎士に肩当てを渡した。
鎧の肩の空いた場所に合わせて裁った革だった。塀の上で並んで立った夜、俺はその空いた場所を目で測った。
あの騎士は受け取らなかった。その場所には、子どもたちが入れてくれた藁がある、と言った。
院長はその肩当てを、台所の扉枠に当てがった。
俺は、断られたことが嬉しかった。
俺のものを受け取らない手があった。あの騎士の手は、俺からは何も受け取らなかった。代わりに、子どもたちから藁を受け取った。
子どもたちは、俺にしがみつかなかった。
俺が馬から降りると、子どもたちは馬のほうへ行った。馬のたてがみを編み、ラバの耳に草を挿した。
いちばん小さな子は、あの騎士の背から一度も降りなかった。俺が来るたびに。
その子は、あの騎士の兜を叩くこと以外、何も言わない子だった。
その子は俺を見た。あの騎士の肩ごしに。
そして、兜を二度叩いた。降ろしてくれ、という意味ではなかった。
その子は降りてこなかった。
その合図を、あの騎士も知らなかったのだろう。
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いちばん小さな子が、あの騎士を見るたびに兜を二度叩いていた、と書いた。
課題 1では、二度は「降ろしてくれ」だった。
課題 6には、この箇所がない。
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司祭とは、井戸端で話した。
司祭は季節ごとに山を越えてきた。左の眉の端に傷跡があり、笑うと右の眉だけが上がった。
手は温かかった。蜜蝋の匂いがした。
司祭は俺の言葉を聞き分けた。あっちの言葉の中でも、学堂で使っていた言葉を。
あの村で、その言葉がわかる者は司祭ひとりだけだった。
俺たちは井戸端で、その言葉で話した。
あの騎士は横でしばらく聞いていたが、わからない、と笑って、塀の上に上がった。
司祭に告解をした。
初めて告解をした日、俺は自分の名を言った。偽名ではなく。
それから、俺の森の話をした。
司祭は日が暮れるまで聞いた。
聞き終えてから、長いあいだ何も言わなかった。
やがて、俺の額に手を置いた。
あの騎士にするように。他の騎士たちにするように。
課題 6で、この身体はこう書いた。
「告解を終えたあと、司祭様があの方の額に手を置かれたかどうかは、覚えていません」
置かれた。
その手は温かかった。その温かさが、俺をあの村にもっと長く留まらせた。
司祭は、あの告解のあとも、俺を追い出さなかった。
院長にも、騎士団長にも、あの騎士にも、俺の名を言わなかった。
告解は、人に移さないものだった。
あの騎士は課題 4で、そう書いた。
「告解は人に移さないものだと、あの方に教わりました」
あの騎士は、俺から教わったのではなかった。
司祭から教わった。
司祭はその決まりを、俺にも守った。
6年目の夏、司祭が井戸端で何気なく言った。
「晩秋には、あの騎士を返すことになった。戦は終わったゆえ、空から来た者たちは帰らねばならぬ。その役目は、私が引き受けた。初霜が降りるころだ」
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司祭が告げた帰還の日は、初霜だった。
それは、課題 22の封印執行の日と同じ言葉だった。
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俺はその言葉を聞いても、答えなかった。
初霜。その日は、俺が自分の城中庭に立っていなければならない日だった。
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同室のご老人は、この課題を最後まで読んでから、膝を叩いた。
1年半前の初日に自分が言った言葉を、覚えているかと聞いた。
俺は覚えていた。
「あんたは、いい人ぶるのがうまい人間だ」
ご老人は、あの言葉は当たっていた、と言った。
それから、偽善について一言いわせてもらう、と言った。30年、偽善で食ってきた人間の言葉だ、とも。
「いい人ぶるのは、ただじゃない。大麦も買わなきゃならん。油も買わなきゃならん。ラバも買わなきゃならん」
「本当に優しい人間は、そんなところに金を使わん。ただ、優しいからだ。金を使うのは、いい人ぶってる人間だ」
ご老人は、自分も信者たちに米を配ったと言った。献金の十分の一で。
その米を受け取った信者たちは、ご老人を本物だと信じた。米は本物だったから。
ご老人は、そこまで言ってから、付け足した。
「だが、あんたのラバは献金で買ったんじゃないだろ。あんたの金だ。それは、ちょっと違う」
俺はその言葉にも答えなかった。
俺の金だった。
俺の土地から出た金。俺の土地の民が納めた税。
その金で買った大麦を、俺は自分が壊した子供たちのところへ運んだ。
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俺は1年半のあいだ、2か月に一度、その村へ行った。大麦を降ろし、塀に沿って石を手で確かめ、台所裏の新しい石の前に立った。
3日目の夜に崩れた場所。俺のものたちが越えてこようとして、あの騎士の手のひらの前で止まった場所。
その石は色が違っていた。俺はその石を、手袋をはめた手で撫でた。
夜には、森側の角に立った。あれらが下りてこない夜を、子供たちに与えた。
2か月に3日ずつ。1年半で、27の夜。
あれらが下りてきた残りの数百の夜は、俺が与えたものだった。
俺は、自分が壊した子供たちのそばで、いい人の真似事をした。
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彼は、あの騎士を塀の上で最初に見たとき、その顔は若かったと記した。
今、その顔は、刑務所の洗面台の上、四つのネジ穴の下でも見ることはできない。
鏡がない。
その村で、彼は27の夜を数えた。残りの夜は、数えなかった。




