第76話 禁忌(3)――押さえ縫いの月
相談室の窓辺に並んだ三つの鉢植えのうち、一番左のものが枯れていた。
2年以上ずっと、ふっくらしていた鉢植えだった。
俺が初めてこの相談室に来たとき、相談員は右の鉢植えの話ばかりしていた。水をやりすぎて、半ば枯れかかっている鉢植え。
左の二つは元気だと、相談員は言った。
元気なものには、誰も声をかけなかった。
その間に右の鉢植えは、相談員が水を減らすやり方を覚えたことで生き返った。葉は七枚になった。
そして一番左の鉢植えは、誰も知らないうちに乾いていた。葉は黄色く縮れて、土の上にうつ伏せていた。
相談員はその鉢植えを、長いこと見下ろしていた。
俺が入っていくと、顔を上げた。
「水をやっていませんでした。こっちばかり気にかけていて。元気だと思っていました」
「俺も知りませんでした。毎回、鉢植えを見ていたのに」
「右ばかり見ていたでしょう。半分こルールのせいで」
その通りだった。
俺は答えるたびに鉢植えを見ていた。右の鉢植えを。枯れかけて、生き返った鉢植えを。
左の端で元気だった鉢植えが乾いていく間、俺は一度もそちらを見なかった。
* * *
俺は椅子に座った。両手を太ももの上に重ねた。相談員も座った。
半分こルールどおりなら、先に質問するのは相談員のほうだった。
その日は、俺が先に言った。鉢植えを見ず、相談員を見ながら。
「子供を食う怪物」
相談員の手が止まった。ボールペンを握って、記録用紙の上に置いていた手だった。
「経緯書の九枚に書かれていた言葉です。2年前にここで話さないと言ったもの。今日、話します」
相談員はうなずかなかった。ボールペンを置いた。記録用紙には何も書かなかった。
相談員が俺の話を聞いて記録しなかったのは、初めてだった。
その言葉を声に出したのは、初めてだった。
白い部屋であの声が十二枚を読み上げた日にも、俺はその言葉を口にしなかった。笑っただけだ。これが何の冗談だ、と問いながら。
それから2年以上、その言葉は俺の口から出たことがなかった。課題にも書かなかった。「その言葉はここにも書きません」と書いた。
書かなければ、その言葉は他人の紙にだけある言葉だった。他人の筆跡で、他人の欄に。
今日、その言葉は俺の口から出た。
俺の声で。
俺はその言葉が相談室の空気の中に広がっていくのを聞いた。思っていたより短い言葉だった。息を一度吸えば、それだけで言い切れた。
2年半の間、俺はその息を一度吸うことを避けてきた。
* * *
「前回の課題、読みましたよね」
「読みました」
相談員は、それだけ答えた。
前回の課題に相談員が残したメモを、俺は知っている。
読んだ。読んだ。読んだ。
それから、線が一本。
相談員が何を書こうとして線を引いたのか、俺は聞かなかった。
「あの九人がなぜ同じものを見たのか、俺の考えを話してもいいですか」
「どうぞ」
俺は話した。ゆっくりと。これが自分の考えだということを、はっきりさせながら。
管理局で聞いた言葉がある。何に見えるかは、見る者によって違う。その人が生涯で一番恐れてきたものに見える、という。
ところが、十二人のうち九人が同じものを見た。
子供を食う怪物。
あの九人が生涯で一番恐れてきたものが、偶然同じだったはずはない。
だとするなら、あの九人が見たものは、あの人たちの側から来たのではなく、こちら側から来たのだ。
俺の側から。
俺は孤児院の塀の上の聖騎士だった。
それはこの身体の記憶だ。
だが、この身体の中には、丘の上で手を上げた者がいる。
そいつが名を付けたものどもが森から降りてきて、塀の向こうの子供たちを狙った。
そいつは、その子供たちを連れ去ったものどもの主だった。
そいつは、それを忘れた。
この身体の中で2年以上、自分が聖騎士だと思って生きてきた。
だが、白い部屋の九人はそれを見た。
そいつが忘れたものを。
俺が忘れたものを。
「それは推測です」
俺は付け加えた。
「なぜそう見えるのかは分かりません。見える理屈は分かりません。ただ、何が見えたのかは、今なら分かる気がします。あの人たちは間違っていませんでした」
* * *
相談員は答えなかった。
俺は待った。半分こルールどおりなら、次は相談員が質問する番だった。
「では、それは誰の記憶なんですか」とか。
「そうですか」とか。
2年半の間、相談員はいつも何かを言った。短い言葉でも。俺が何を言っても、その言葉を受け取って、次の枠へ送った。
その日は、何も言わなかった。
相談員は俺を見た。質問するときだけ俺を見ていた人が、質問もなしに俺を見た。
丸眼鏡の向こうの目は、思っていたより小さかった。初めて顔を合わせた日にも、そう思った。
その小さな目が今、何を見ているのか、俺には分からなかった。
聖騎士を見ているのか。丘の上のあの者を見ているのか。九枚のそれを見ているのか。
相談員は息をした。止まらなかった。
呪いは2年前に終わった。相談員が今、俺を見て何を見ていようと、それは呪いのせいではなかった。
だから、余計に怖かった。
呪いではないのなら、今、この人が見ているのは、ただの俺だった。
* * *
相談員が立ち上がった。窓辺へ行った。一番左の鉢植えを持ち上げた。
枯れてしまった鉢植えだった。
相談員は、その鉢植えをしばらく持ったまま立っていた。
「これは備品です」
相談員が言った。俺に言っているのか、鉢植えに言っているのか、分からなかった。
「相談室の備品です。備品台帳に載っています。枯れたから捨てるには、不用処分申請書を出さないといけません。理由の欄に枯死と書いて、決裁を受けて、返納確認を受けて。それが規程です」
「出せばいいじゃないですか」
「でも、まだ捨てるのが嫌なんですよ」
相談員は窓を開けた。
窓の外には、外側の窓台が手のひら二つ分の幅で出ていた。
相談員は枯れた鉢植えを、その外の窓台に下ろした。
窓の内側ではなく、窓の外に。
そして、窓を閉めた。
窓枠の中には鉢植えが二つ残った。真ん中のものと、右のもの。窓の外に一つ。
ガラス一枚を挟んで、枯れたものと生きているものが並んでいた。
「備品台帳にはまだ載っています。窓の外にあっても、相談室の所属です。書類の上では」
相談員は椅子に戻って座った。
そして、その日の相談が終わるまで、何も訊かなかった。
相談室の壁時計が秒を数えていた。
2年半のあいだ、その時計の音を聞いたことがなかった。いつも誰かが話していたからだ。
その日は、時計の音が相談室でいちばん大きい音だった。
俺はその音を聞きながら鉢植えを見た。今度は右ではなく、真ん中のものを。
誰も話しかけない鉢植え。どこも悪くなさそうな鉢植え。
俺はその鉢植えの土が乾いているか確かめようと、少し身を前へ傾けた。
土はまだ湿っていた。相談員が今朝、水をやったらしい。左端の鉢植えが死んだと知ったあとで。
相談が終わって廊下に出ると、あいさつが向かい側から歩いてきた。
あいさつは俺を見て、「こんにちは」と言って通り過ぎた。
息を止めなかった。
この2年、一日も欠かさずそうだった。
俺は初めて、あいさつが俺を見るときに何を見ているのか、気になった。
あいさつは、呪いが終わった日の朝、初めて俺をその目で見た。それまでは息を止めて、配膳口から手だけを差し出していた。
息を止めていたあいだ、あいさつの目に映っていたものは何だったのか。
あいさつも、あの九人と同じものを見ていたのだろうか。
それを見て、呪いが終わった途端に「こんにちは」と言えたのだろうか。
俺は振り返って、あいさつの背中を見た。
あいさつは振り返らなかった。
* * *
部屋に戻ると、牧師は5回目の再審査の日付をもらっていた。
6か月後だった。
牧師は、それだけの間、讃美歌を練習できると喜んだ。
それから、班長が付け足した言葉を伝えてきた。
騒乱行為の警告が三枚たまると、再審査そのものが先送りになる規定がある、と。
牧師は今、二枚だった。
あと一枚もらえば、歌う機会もなくなる。
牧師はその日から、讃美歌を口の中だけで歌った。
唇だけが動く讃美歌だった。
音が出ないのだから、騒乱ではない。
牧師は、それがこの世でいちばん敬虔な讃美歌だと言った。
神にしか聞こえないから、と。
消灯の前に、俺は牧師に聞いた。
「初めて同じ部屋に来た日、三秒の間、息を止めていましたよね。あのとき、何が見えましたか」
牧師は唇を止めた。
讃美歌が途中で切れた。
牧師はしばらく俺を見て、それから首を横に振った。
「それはまだ言わない」
「呪いは終わりました」
「入所教育のときに約束したのさ。お前の話を二十分聞きながらな。見たものは言うなってな。約束は詐欺師でも守る。詐欺師は約束を売って食ってる人間だから、約束を一つだけは最後まで売らない。だから商売になるんだよ」
「今、俺が聞いてるんです」
「お前が聞くから、余計に言わないのさ」
牧師はまた唇を動かし始めた。
音のない讃美歌。
俺はその唇をしばらく見ていた。
牧師が1年半前の初日に息を止めたのは、三秒だった。
呪いが終わる3日前の朝は、五秒だった。
その二秒のあいだに牧師が何を余計に見たのか、俺にはわからない。
牧師はそれを領収書コレクションに挟まなかった。
その領収書だけは、誰にも見せないのだろう。
俺は寝台に座って、牧師の唇を見た。
音もなく動く唇。
誰にも聞こえない歌。
その歌が何なのか知っているのは、歌っている本人だけだった。
* * *
その夜、俺は課題19をもう一度開いた。
書庫の空き。師が地下で言った言葉。
禁忌だから、名を与えなかったのだ。名を与えれば、あれらはこの世に居場所を得る。
禁忌とは、名がないことではなかった。名を与えてはならないことだった。
九枚のあの言葉も、同じだった。
俺はこの1年半、あの言葉に名を与えてこなかった。
口にせず、書かず、他人の紙の上にだけ置いてきた。
あの言葉が俺のところで居場所を得ないように。あの言葉が、俺の名にならないように。
今日、俺はその言葉を声に出して言った。
相談室で。自分の声で。
名を与えたのだ。他人の紙にあった言葉を、自分の口へ運んできたのだ。
もう、その言葉は他人の欄ではなく、俺の側にある。
相談員の記録用紙には書かれなかった。それでも、相談室の空気の中には残った。
窓枠の内側の鉢植え二つと、窓の外の鉢植え一つが、その言葉を聞いた。
師は言っていた。名を付ければ、俺が死んでもあれは残る、と。俺の名を付けたまま。
今の俺は、その言葉を逆から理解している。
俺があれらに名を付けたとき、名を得たのはあれらだけではなかった。
俺も、あれらの名を得た。あれらを呼ぶ者として。
そして今日、その名が九枚の言葉と同じものだと、自分の口で認めた。
禁忌を破ったのは、丘の上のあの男だけではなかった。今日、相談室で、俺もひとつ破った。
俺はノートを閉じて横になった。右手を布団の中に入れた。
午前3時にその手が何をしようと、もう、その手が書くものと俺が書くものを分けることはできなかった。
窓の外の、外側の窓辺で、枯れた鉢植えがひとつ、夜を過ごしているだろう。ガラス一枚を隔てて。
書類の上では、まだ相談室の所属のまま。
* * *
その日の相談記録の、その回の欄には、何も書かれていない。日付と時刻だけがある。
窓の外へ移された鉢植えは、備品台帳から消されなかった。不用処分申請書は、結局、提出されなかった。




