第75話 禁忌(2)――押さえ縫いの月
管理番号KR-07 矯正相談記録
課題20 — 黒いものたちが行った場所
* * *
今度の課題は、タイトルを俺が決めた。先生には言わずに決めた。
書く前に言ったら、書けなくなる気がした。
この課題を書いているあいだ、同室のご老人は讃美歌を歌っていた。五度目の再審査の練習だった。
夜の9時に始めて、10時を過ぎても歌っていた。班長が二度来て、就寝時間の騒音だと言った。三度目に来たとき、班長は警告書を持っていた。事由欄には騒音行為、とあった。
ご老人は警告書を受け取ると、班長に礼を言った。班長は、警告書をもらって礼を言う収容者は初めて見た、と言った。
ご老人はその警告書を、領収書コレクションのいちばん上に挟んだ。事由としては五つ目だった。審査の結果ではないから正式な領収書ではないが、収集品としては貴重だ、と言った。
隣の房の収容者たちは、翌朝の運動場でご老人の讃美歌を評価した。
うなぎの刺青の男は、あれが讃美歌だとは知らなかった、と言った。何かの軍歌だと思った、と言った。
点をひとつ多く数える男は、10点満点で7点をつけた。それから、身内だからと8点に直した。
ご老人は、8点なら審査員の前で歌ってもいい、と言った。
俺はその讃美歌を聞きながら、この課題を書いた。
ご老人の音程は外れていた。拍子も外れていた。なのに、歌詞はひとつも間違わなかった。
2年半のあいだに聞いたご老人の声のうちで、いちばん本物らしかった。
* * *
名前を付けてから、あれらは速く来た。
俺は国境に沿って歩きながら、あれらを解き放った。チラカの補給路ごとに。偵察隊が泊まる村ごとに。川を渡ってきた陣営ごとに。
手を掲げ、手のひらを下に向け、名を呼んだ。
指先から流れ落ちた黒いものは、丘を伝って下り、俺が送った先へ向かった。そして、戻らなかった。
収める方法がなかったからだ。
戻らなかったものたちは、散りもしなかった。あれらは留まった。暗くて湿った場所に。森に。
昼は森の縁の日陰に伏せ、夜になると動いた。光を嫌った。光の届くところまでは来ず、その縁をぐるりと回り続けた。
松明の縁で、てらてらと光るもの。それが、あれらだった。
あれらが留まる森は、年ごとに広がっていった。俺が名を呼ぶたび、森ひとつがあれらの森になった。
チラカの軍は、その森々を避けて回り込んだ。進撃は鈍った。3年目、奴らは川の北へ、ひとまたぎ分も踏み込んでこられなかった。
我らは、ほとんど勝ちかけていた。
マセルンがその年の秋、初めて俺に訊いた。
「あれらは、いつ戻るのであろう」
俺は、戻らないと答えた。呼ぶことはできても、収めることはできなかった。
マセルンはしばらく、何も言わなかった。目が先に笑う人だった。その日は、目が笑わなかった。
そして、こう言った。
「では、戦が終わっても、あの森はあれらのものになるのであろうな」
俺は答えなかった。
戦が終わったあとのことを考える暇はなかった。勝つのが先だった。勝ってから、収める方法を探せばいい、と思った。
師が収められぬと仰ったことを、俺は、勝ったあとになら収められるはずだと信じていた。
それからマセルンは、俺の左側に立たなくなった。
城壁の上では、いつも俺の左側に立っている人だった。
俺はあの森々の場所を地図に書き留めた。俺が名を呼んだ日付とともに。
東の果ての森は、3年目の晩夏に書き留めた。
その森の向こうに、チラカに占領された小さな村がひとつあった。
村の端に、塀がひとつあった。
その塀の中に何があるのかは、書かなかった。書く必要がなかった。
俺の地図では、その村は占領地だった。
あの塀の中に何があったのか。俺が初めて間近で、この目で見たのは、それから4年後のことだった。
その話は、まだ書かない。
相談室で描いた地図を思い出した。
川が一つ。丘の上の城砦。南の都。東の果ての森。森の縁の、塀のある村。
班長はその地図を逃走経路と疑って押収した。地名は確認できなかった。
あの地図は今、保安課の引き出しにある。
あの地図は、逃走経路ではなかった。
俺があれらを解き放った場所を書き留めた地図だった。
手は、あの村を他のどの場所よりもゆっくりと描いた。
その夜、もう一度描こうとすると、手はあの村だけを描いてくれた。
今なら、その理由がわかる。
あの村は、俺の地図の最後の一行だった。
* * *
「読んだ」
* * *
午前3時は、俺が決めた。
チラカの歩哨は午前3時に交代した。交代の間、歩哨線が空になった。俺はあれらを呼ぶとき、その時刻を一緒に呼んだ。
あれらは名前とともに、時刻を受け取った。午前3時になったら動け、と。
名を付けたものは、命じたとおりにした。収められないものも、命じたとおりにはした。
戦が終わったあとも、歩哨が交代しない森でも、あれらは午前3時を守っただろう。
時刻を収める方法も、俺は知らなかった。
課題1に、俺はこう書いた。
「ここにいても、私は夜はよく眠れません。明け方に目が覚めます。あれらが下りてきた時間です。目を開けると、手が先に枕元を探ります。松明を探しているんです」
その時間は、あれらが下りてきた時間ではなかった。
俺があれらを下ろしていた時間だった。
この身体は6年の間、午前3時になるたび、塀の上で松明を掲げていた。
俺はその時刻になるたび、丘の上で手を挙げた。
同じ時刻だった。
一人は防ぐために起きていた。一人は送り出すために起きていた。
そして今、その二人はこの刑務所の寝台で、午前3時になるたび一緒に目を覚ます。
一人の手は松明を探り、一人の手はノートに書く。
昨夜も、そうだった。
午前3時に目が覚めた。右手が枕元を探った。松明はなかった。
廊下の灯りの光だけが、配膳口の隙間から入ってきた。
その手がノートを見つけた。ノートは枕の横にあった。
俺は起き上がって、そのノートを開いた。今度は、起きていた。起きたまま書いた。
どちらの手が探り、どちらの手が書いたのか、俺には区別がつかなかった。
同じ手だった。
書いているあいだに、扉の隙間から懐中電灯の光が差し込んできた。
未明の巡回だった。「あいさつ」だったのだろう。
光は床をひと掃きして、俺の寝台の前で止まった。
俺はその光の縁に座っていた。光の当たるところと、当たらないところの境目に。
光はしばらくそこに留まった。それから、去っていった。
足音が廊下づたいに遠ざかった。歩いていく人の息づかいが聞こえた。
* * *
「読んだ」
* * *
あれらは塀を引っ掻いた。音を立てる代わりに、石を引っ掻いた。
乗り越えてくる場所を探す音だった。
あれらは光を嫌った。それでも、光の向こうにあるものは欲しがった。あの塀の向こうにあるものを。
俺はあれらに、何を欲しがれと命じたことはない。名前をつけただけだ。
なのに、あれらは欲しがった。何を欲しがるかは、あれらが決めた。
呪いが終わる日の夜、俺は夢を見た。孤児院の塀だった。
黒いものたちが森から下りてきて、塀を越えていった。
俺は塀の上にはいなかった。塀の中にもいなかった。
足の下は草むらで、背の後ろは森だった。
俺はあれらのあいだで、塀を見上げていた。塀の上には、小さな頭がひとつ上がっていた。
その夢を、もう夢とは呼ばない。
俺はあれらのあいだに立ったことがある。塀の外で、日の沈むころ、森を背にして。
あのとき、塀の上の小さな頭が俺をどう見たのか。それも今なら、分かる気がする。
あれらが何を欲しがったのか、俺は知っている。
孤児院の庭に、埋められた子がいる。はしごの下で数を数えていた子。森の端の木の下で、目を開けたまま見つかった子。
傷はなかった。
俺はその子の額に手を置いた。手のひらの温もりには、行き場がなかった。
課題5には、そう書いた。
あの子がその夜、森で何を見たのか。今なら分かる。
あの子が数えようとしていたもの。あれらを。俺が名前をつけたものたちを。
その年の晩夏、三日のあいだ孤児院の塀を取り囲んだのも、あれらだった。
三日目の夜、台所の裏の塀が崩れた。この身体はその隙間の前に立って、両手で塞いだ。
手が塞ぐもののように熱かった、と課題3に書いた。
隙間の向こうでぬらりと光っていたものが、この身体の手のひらの前で止まった。越えてはこられなかった。
あれらは俺のものだった。
その隙間の前に立った手は、この身体のものだった。
俺はその三日を、地図には書かなかった。
その三日のあいだ、俺は東の森にはいなかった。川沿いの、別の戦線にいた。
名前をつけたものは、俺がいなくても、命じたとおりに動いた。午前3時になれば、動いた。
欲しいものを、欲しがった。
* * *
「読んだ」
* * *
課題1の最後の一行を、もう一度書く。
「私は、子供を守る者でした」
その一行は、この身体の一行だ。
この身体は6年のあいだ、あの塀の上で子供たちを守った。四十人ほどは助けた。埋めた子は数えなかった。その一行は嘘ではない。
この身体が助けた四十人は、俺のものたちから救った四十人だ。この身体が埋めた子たちは、俺のものたちが連れていった子たちだ。
この身体はその数を数えなかった。数えているうちに、別の数まで一緒に数えてしまいそうだったから。
その別の数が何なのか、俺はもう知っている。この身体が数えなかった数は、俺が地図に書いた日付と同じ数だけ、あるはずだ。
だが、その子たちを狙ったのは、俺のものだった。
俺が呼び、俺が名前をつけ、俺が午前3時を決めてやったものたち。それが森から下りてきて、あの塀を引っ掻いた。この身体が松明を掲げて守っていた、あの塀を。
この身体が井戸に飛び込んで助け上げた子。三日のあいだ、倉庫の扉の前で息の音を数えていた子たち。はしごの下で数を数えていて、森の端で目を開けたまま見つかった子。
その子たちを狙ったのは、俺の指先から流れ出たものだった。
俺はこの一行を書いて、ペンを置かなかった。置けば、もう一度は握れない気がした。だから、次の行を書いた。
白い部屋の経緯書、十二枚。そのうち九枚が、同じことを書いていた。子供を食う怪物。
2年半のあいだ、俺はその九枚が間違っていると信じてきた。九人の人間がなぜ同じものを見たのか、分からなかった。人によって見えるものは違うはずなのに、なぜ九人とも同じだったのか。
今は、その問いを別のやり方で問う。
あの九人は、何を見たのか。孤児院の聖騎士を見たのか。それとも、この身体のなかの俺を見たのか。
そこまで書いた。その次の行は書かなかった。
書けなかった。
同室のご老人は、その夜、讃美歌を歌わなかった。
俺がノートの前で動かないのを見て、歌いかけて、やめた。
ご老人は、騒音行為の警告状をもう一枚もらえる夜を、諦めた。
その代わり、俺のノートを覗くこともしなかった。
ご老人が俺のノートを読まなかったのは、2年半で初めてだった。
ご老人は寝返りを打ちながら、ひと言だけ言った。
「書き終わったら言え。そのとき読んでやる」
俺は答えなかった。
ご老人の朗読で、この課題を聞きたくはなかった。
説教していたときの声で、この文章が部屋の中に響くのを、耐えられそうになかった。
* * *
——
* * *
彼は、課題1の最後の行を、2年半ぶりにまた書き写した。
同じ字だった。
行の真ん中に。
相談員の最後のメモ欄には、一本の線が引かれている。
その欄の、ボールペンが紙を離れたところに、小さな点が残っていた。




