第74話 禁忌(1)――押さえ縫いの月
管理番号KR-07 矯正相談記録
課題19 — 書庫の空欄。
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先生、今回の課題は言葉遣いを変えて書きます。です・ます体に直して書き写すことは、もうできません。前の課題までは、あの手が古風な語尾で書いたものを、私がです・ます体に移し替えていました。今度は、移そうとすると文が途切れます。一行を直すと、次の行が出てきません。ですから、出てきたままにしておきます。古風な語尾でもです・ます体でもない、そのあいだの言葉遣いで。課題17の終わりにあの手が書き残した一行のように。
この最初の段落だけは、私の言葉遣いで書きます。先生へのあいさつですから。次の段落からは、私ではなく、俺です。
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最初の段落だけがです・ます体だ。その次から、「私」が「俺」に変わる。
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二度目の冬、我らは負けはじめた。
チラカの軍が変わった。最初の冬、奴らは船に乗って川を渡ってきて、俺は城壁の上から手を上げ、その船を燃やした。二度目の冬、奴らは船に乗らなかった。川の上を歩いて渡ってきた。氷が張ったのではなかった。川の水が、奴らの足元で道を開いた。先頭に立つ者が手を差し伸べれば、水が両側に割れた。
俺はその者を城壁の上から見た。遠くて、顔は見えなかった。鎧が奴らのものとは違っていた。奴らの旗の下に立ちながら、奴らの者ではなかった。あの年の冬、そういう者が何人も現れた。水を裂く者、矢を止める者、傷ついた兵を手で癒やす者。我らは最初、彼らをチラカの新しい魔法使いだと思った。それから、カネン川の下流の陣営で、あの文書を拾った。招請事由書。彼らは魔法使いではなかった。別の空から呼び下ろされた剣だった。
傷ついた兵を手で癒やす者。この一行を書いて、手が止まった。しばらくして、また動き出した。
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長く止まった。彼は、この行を消さなかった。
次の行へ移るまでにかかった時間は計らなかった。計らないことにした。
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名のある魔法では、あの剣たちを止められなかった。
俺は学堂で習ったものを、すべて使った。火の名、水の名、風の名、石の名。
名のある魔法は、名の分だけしか働かなかった。火は燃やせる分だけを燃やし、石は防げる分だけを防いだ。
空から呼び下ろされた者たちは、名のない力を使った。彼らの力はこの地で学んだものではない。ゆえに、この地の名は彼らには通じなかった。
俺は彼らを、名で捕らえることができなかった。
エスベルの城壁の下で、人が死んでいった。
避難民の子供たちも。城壁の上の魔法使い様、と俺を呼んだ子供たちも。
俺は、その子供たちの数を数えた。初めは数えた。
二十を超えてからは、数えなかった。数えていると、別の数まで一緒に数えることになる。残った子供たちの数を。
その年の冬の終わり、俺は都へ戻った。学堂へ。書庫へ。
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書庫の一番下の段は、空いていた。
十歳のときから、あの段は空いていた。師は、名のないものは書庫に置かない、と仰った。
俺はその言葉を、逆に聞いた。書庫に置かないとは、どこか別のところに置くということだった。捨てる、とは仰らなかった。置かない、と仰った。
俺は学堂の地下を探した。三日かかった。
地下倉庫の一番奥の壁の裏に、石を積んで塞いだ場所があった。その石は、他の壁の石と色が違った。新しく積まれた石だった。孤児院の台所の裏の新しい石のように。
この行を書いて、俺はまた手を止めた。孤児院の台所の裏の新しい石のように。
その比喩は、あのときの俺のものではなかった。今、このノートを書いている俺のものだった。
あのときの俺は、孤児院の台所の裏の新しい石を知らなかったのだろう。いや。知っていたのだろうか。
巡回騎士は、その新しい石の前で長く立っていた。課題6に、そう書いた。
俺はその石を、一つずつ抜いた。
石は思ったより軽かった。軽すぎた。新しく積まれた石というのは、そういうものだ。誰かが、急いで、誰にも気づかれないように積んだ石。
奥に、箱があった。
蓋を開けると、巻物が11本。ぎっしりと詰まっていた。
名札はなかった。どの巻物にも、名前がなかった。
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課題6の巡回騎士と、この箇所の『俺』は、同じ石の前に立つ。そのつながりを、彼は自ら記した。
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巻物には、名前がなかった。代わりに、やり方があった。
名前を呼ばずに、何かを呼ぶやり方。
名のないものは、掴まえられない。だからそのやり方は、掴まえなかった。解き放った。
呼ぶ者の指先から流れ出たものは、呼ぶ者の意のままに動く。だが、呼ぶ者がそれを収めることはできない。収めるやり方は、どの巻物にも、どこにも書かれていなかった。
俺はその11本の巻物を、3か月かけて読んだ。学堂の地下で。夜にだけ。
昼は、学堂で弟子たちを教えた。火の名、水の名。
12歳の弟子が一人、書庫の一番下の空いた段を指して、あそこはなぜ空いているんですか、と訊いた。
10歳のとき、俺が師にしたのと同じ問いだった。
俺は、師の答えをそのまま返した。
「名のないものは、書庫に置かない」
弟子は頷いた。その子は、その答えを信じた。
俺も10歳のときは信じた。
その夜、俺は、その子が信じた答えの裏側を、地下で読んだ。
夜は、地下で、名のないものを読んだ。
俺は2つの手で生きた。昼の手と、夜の手。
昼の手は、横に、まっすぐ書いた。夜の手は、縦に、流れ落ちた。
師は、3か月目の夜に、地下へ降りてこられた。
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師は、灯明を手に持っておられた。
灯明の火が、巻物の上に落ちた。
師はその巻物を見下ろし、それから、俺を見られた。
師の声は、震えていなかった。国境へ俺たちを送り出した日には、震えていた声だった。
師は、問われた。
「あれらに名がないのは、なぜか、分かるか」
俺は、分からないと答えた。
「名がないから、禁忌になったのではない」
「禁忌であるから、名を与えなかったのだ」
「名を与えれば、それは世に居場所を得る。居場所を得たものは、去らぬ」
「だから昔の人々は、あれらに名を与えず、書庫にも置かず、壁の裏に埋めた。いつか誰もそれを思い出さなくなったとき、それも世から消えるはずであった」
師は、俺にそれを使うなとは言われなかった。
使うなと言っても、俺が使うことを知っておられた。城壁の下で、子どもたちが死にかけていたからだ。
その代わりに、師はひとつだけ、俺に頼まれた。
「それに名を付けるな」
「使うにせよ、名だけは付けるな」
「名がなければ、お前が死ぬとき、それも一緒に消える」
「名を付ければ、お前が死んでも、それは残る。お前の名を付けたまま」
俺は、その場で答えなかった。
師は灯明を置いて、地下を上がっていかれた。
灯明は、俺の隣に残った。油が、半分ほど残っていた。
俺は、その油が燃え尽きるまで、巻物を読んだ。
師が置いていった明かりで。
それが、俺が見た師の最後の後ろ姿だった。
翌日、俺は学堂を出た。11本の巻物を抱えたままだった。
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同室のご老人は、その課題を読みながら、途中で常体が混ざっているのを見つけて、舌を打った。
「課題を常体で書けば、減点だぞ」
「わしは七つの刑務所で、課題を出すたび、いつも敬語で書いてきた」
「先生たちは、敬語で書いた反省のほうを信じるんだ」
俺は、これは反省文じゃない、と言った。
ご老人は、じゃあ何なんだ、と聞いた。
俺は答えられなかった。
「答えられない文章は、全部反省文だ」
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ご老人の四度目の再審査の結果は、その週に出た。
ご老人は、計画どおり、審査場でひと言も発しなかった。審査員が何を聞いても、頭を下げるだけだった。
結果は不許可。
理由の欄には、こう書かれていた。
陳述拒否。
ご老人はその通知書を手にして、この刑務所に来てから一番嬉しそうだった。欲しかった理由がもらえた、と言った。
領収書コレクションが四つになった。滑らかさ、どもり、沈黙。そして、拒否。
もう残った方法は歌だけだ、と言った。
五度目の審査では、賛美歌を歌うつもりだと言った。
その夜から、ご老人は賛美歌の一覧をめくりながら、審査員が喜びそうな曲を選んだ。歌詞を間違えれば陳述内容不明確になるから、全部覚えないといけない、と言った。
班長は、就寝時間に賛美歌を歌うのは騒ぎ行為だ、と言った。
ご老人は、騒ぎ行為はまだもらったことのない理由だ、と目を輝かせた。
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同じ房の収容者、四度目の再審査は不許可。理由は陳述拒否。収容者本人は満足していた。
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エスベルに戻ると、マセルンが城門の前まで出てきていた。
マセルンは、俺が抱えてきた箱を見て、尋ねた。
「これは何だ」
カネン川下流の陣営で招請事由書を拾った日、マセルンが口にしたのと同じ問いだった。
俺は、あの日と同じように、答えなかった。
マセルンは、それ以上は問わなかった。
代わりに、箱の片端を一緒に持ち上げてくれた。冷たい手で。
その手が箱に触れるのを見て、俺はマセルンから箱を奪い取るようにして受け取った。
マセルンの手がその箱に触れるのが、嫌だった。
そのときは、その理由が分からなかった。
エスベルへ戻る道中で、俺は最初の巻物を使った。
国境の、打ち捨てられた村だった。
チラカの斥候隊が、その村に留まっていた。
俺は村の背後の丘の上に立った。
村が見下ろせた。屋根がいくつか、井戸がひとつ、灯りの消えた窓。
俺は手を上げた。手のひらを下へ。
巻物に書かれたとおりに、名を呼ばず、意味だけを送った。
指先から黒いものが流れ落ちた。水のようでもあり、煙のようでもあった。
それは丘を伝って下り、村へ入っていった。
音はなかった。
しばらくして、村の犬たちが吠え、やんだ。
人の声は、最初からなかった。
俺は丘の上で、その静けさを聞いた。
風が強かった。指先が冷えた。寒くはなかった。
これらの行を書き終えてから、俺は課題13を思い出した。
同じ夜のことを、最初から。
丘の上から、井戸へ飛び込む騎士を見下ろしていたくだり。
風が強かった。指先が冷えた。寒くはなかった。
同じ文章だった。
あの丘とこの丘が同じ丘なのかは、分からない。同じ手が書いた文章だということだけは、分かる。
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日が昇ってから、村へ下りた。
斥候隊はいなかった。何もなかった。
黒いものが過ぎた跡には、何も残っていなかった。
俺は井戸を覗いた。水が黒かった。
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その夜、俺はあの黒いものに名前を付けた。
師が付けるなと言い遺した名前を。
名前を付けると、それは俺の指先でほんの少し硬くなった。次に呼んだときは、もっと速く来た。
名前があるから、呼べた。
だが、しまうことはできなかった。
巻物には、しまう方法がなかった。名前は、呼ぶときにしか役に立たなかった。
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この課題を全部書き終えてから、ノートを閉じた。
閉じる前に、最初の段落と最後の段落を比べた。
最初の段落は、です・ます調だった。先生に差し出すあいさつ。そのあいさつを書いたのは「私」だった。
最後の段落は、その間の口調だった。その段落を書いたのは「俺」だった。
だが、書いている間、その二つの境目を俺は感じられなかった。
「私」が「俺」に変わる行がどこだったのか、あとから探し直しても分からない。
孤児院の台所の裏の、新しい石を思い浮かべた行は「俺」だった。なのに、その行を書いた手は「私」の手だった。
二人が同じ手だということだけは、確かだった。
師は、それに名前を付けるなと言った。
俺は、名前を付けた。
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お前は最初の段落で自分を「私」と呼び、最後の文で「俺」と呼んだ。
その間のどこで変わったのか、お前は見つけられなかった。
お前は、あの黒いものに付けた名前を、この課題には書かなかった。




