第73話 招請事由書(3)――巻きかがりの月
盆の飯が、妙に高かった。
いつもより拳ひとつ分は、高く盛り上がっていた。
配膳口から出てきた盆を受け取って、俺はその飯を長いこと眺めた。
この刑務所の飯は、おたま一杯分と決まっている。おたまですくって盆の区画にひっくり返せば、飯の高さはいつも同じになる。
2年半のあいだ、一度も高さが違ったことはなかった。
「こんにちは」
あいさつだった。
あいさつはそう言うと、配膳口の蓋を閉めた。いつもと同じだった。ただ、蓋を閉める手が、いつもより少しだけ速かった。
俺はスプーンで飯をかき分けた。
飯の中に、何かがあった。ラップに包まれた白い塊だ。
取り出してみると、餅だった。手のひらほどの白雪餅がひとかけ。
ラップの上には、ボールペンで小さく数字が書かれていた。今日の日付だった。
牧師が、俺の手の中の餅を見た。そして、声を潜めた。
「今日、誕生日か」
俺は答えられなかった。
知らなかった。誕生日を数えたことなど、なかった。
あっちでは、誕生日を祝わなかった。孤児院の子どもたちは、ほとんどが自分の誕生日を知らなかったからだ。こっちへ来てからは、数えること自体を忘れていた。
牧師は、俺の新入収容者記録票を見たことがあると言った。生年月日の欄だ。
牧師は他人の書類を覚えるのが得意だった。詐欺師の基本だと言った。
牧師は日付を指で確かめると、うなずいた。今日で合っている、と言った。
* * *
牧師はその餅を見て、しばらく悔しがった。
「あの御仁、俺のチョコパイは規程のせいで受け取れなかったではないか」
「受け取ることと与えることは、別の規程でしょう」
「そんな規程がどこにある。収容者と物品の授受は禁止。受け取るも与えるも、授受であろう」
牧師は刑務所の規程を暗記していた。七か所の刑務所を回るうちに覚えたのだと言った。
その規程どおりなら、あいさつは今日、規程を破ったことになる。
二年半のあいだ、「こんにちは」以外にほとんど何も付け加えなかった人。勤務中、収容者から何一つ受け取らなかった人。
その人が、飯の中に餅を隠し入れていた。
牧師は結局、結論を出した。規程は人を見て守るものだということだった。自分は牧師だから駄目で、俺は誕生日だから許されたのだ、と。
そして餅を半分分けろと言った。誕生日の餅は分けて食うのが風習だと言った。
俺は半分に割ってやった。牧師はその半分を食べながら、これがこの刑務所で初めて食う賄賂だと言った。賄賂は本来、受け取る側が痺れるものだが、これは与える側のほうがずっと痺れただろうと言った。
餅を包んでいたラップはゴミ箱に捨てた。それが間違いだった。
夕方の点検で、班長がゴミ箱をひっくり返した。班長はラップを拾い上げ、そこに書かれた日付を見た。このラップがどこから出たのかと訊いた。
牧師が先に答えた。差し入れで買ったキンパを包んでいたラップだと言った。
班長は、差し入れのキンパは銀箔に包まれて出てくると言った。
牧師は、それなら銀箔を剥がして見たら中にラップがもう一枚あったと言った。近頃のキンパは二重に包むのだと言った。
班長は、ラップに書かれた日付は何だと言った。
牧師は、賞味期限だと言った。今日の日付が賞味期限のキンパを今日食ったのだから、ぎりぎり規程は守った勘定だと言った。
班長は牧師をしばらく見ていたが、ラップをゴミ箱に戻した。ラップを押収する理由の欄がない、と言った。
牧師は、班長が部屋を出て行ったあとで言った。嘘をただでついてやったのは三十年ぶりだ、と。
自分の取り分の半分を、俺はしばらく手に持ったまま眺めていた。それから食べた。甘かった。
孤児院で甘いものを食べた記憶は、ほとんどない。院長は蜂蜜を薬としてしか使わなかった。
こっちへ来てからも、甘いものと言えばチョコパイだけだった。
白雪餅はチョコパイより甘くなかった。なのに、口の中にはずっと長く残った。
その甘さの後ろから、別の記憶がひとつ付いてきた。
学堂の頃、師匠が年に一度、弟子たちに蜂蜜を塗った餅を分けてくれた日。それが何の日だったのかは思い出せない。餅の上で蜂蜜が垂れていく形と、マセルンが自分の分を先に食べてから俺の分を横目で狙っていた目つきだけが浮かんだ。
俺はその記憶を押しのけなかった。餅を食べ終えるまで、その記憶も口の中に残っていた。
* * *
今日はこの身体の誕生日だ。
その考えが聞こえたのは、餅を食べ終えてからだった。
この身体。
自分の誕生日ではなく、この身体の誕生日だと思ったのは初めてだった。
新入収容者記録票の生年月日の欄に書かれた日付。その日に生まれたのはこの身体だ。
この身体は21歳であっちへ渡り、6年を生きて戻ってきた。管理局の書類にはそう書いてある。
ところが、この身体の中で午前3時になるたびにノートを書く者は、10歳のときから師匠の縦書きをなぞって書いてきた。
身体は一度だけ生まれる。誕生日は身体のものだ。
身体に宿った者の誕生日は、書類の中にはない。
俺はその文を押しのけなかった。もう、押しのける理由を探したりはしない。
先月、この身体に俺以外の誰かがいると確信してからは、その声が来るたびに最後まで聞く。聞いてから判断する。
今日の文は正しかった。この身体の誕生日は今日だ。
だが、この身体の中で今日祝われているのが誰なのかは、書類が決めてくれるものではない。
「あいさつ」はそれを知らない。「あいさつ」は記録票の日付を見て餅を買った。この身体の誕生日に。
「あいさつ」の「こんにちは」がこの2年半、誰に届いていたのかを、「あいさつ」は知らない。
俺も知らない。
* * *
翌朝、配膳口が開いたとき、俺は「あいさつ」に言った。
「餅、おいしくいただきました」
「こんにちは」
「あいさつ」はそれだけ言って、蓋を閉めた。蓋が閉じる直前、「あいさつ」の手が一瞬だけ止まった。手の甲に皺の多い手。1年半前、入所した日の夜に俺の収容事由書を差し戻した手だった。
「子供たちを守ってきました」——その欄はそう書く欄ではない、と言った手。その手が昨日は、飯の中に餅を隠した。
手は嘘をつかない、と牧師は言った。「あいさつ」の手は、1年半のあいだ一言しか言わない口より、ずっと多くのことを話してきた。
手紙の返事は、まだ来ない。
送ってから15日が経った。刑務所の検閲と管理局の検閲を順に通れば、それくらいかかると班長は言った。返事が届くまでも、同じだけかかると。
2度の検閲を受けて行き、2度の検閲を受けて戻る手紙。牧師はその話を聞いて計算した。往復で4回は読まれる、と。
書いた者と受け取る者まで足せば6回。自分の説教も、それくらい何度も読まれたらよかったのにと言った。
牧師はその日から、毎朝の郵便配布の時間に配膳口の前で待った。俺の手紙を待っているのだと言った。自分のところには信者たちの手紙が週に2度届くが、あれは待たなくても来るから面白くないのだそうだ。来るかどうかわからない手紙を待つのが、本当の「待つ」なのだと。
牧師の4度目の再審査は、来週に決まった。
牧師はそれも、来るかどうかわからない手紙だと呼んだ。
今度は何も言わないつもりだと言った。すらすら話せば偽物と言われ、どもれば不明確と言われる。残るのは沈黙だけだと。審査員が問えば、頭を下げるだけにすると。
ではそのとき、事由の欄には何が書かれるのかと俺は思った。
陳述拒否と書かれるだろう、と牧師は言った。
陳述拒否はまだもらったことのない事由だから、領収書コレクションにぜひ入れたいのだと。
俺は返事を待たなかった。
いや、待った。
ただ、返事に何が書かれているかまでは、待たなかった。
あの人は白い部屋で俺の手紙を読む。板の上で。
あの人は、俺が書いた話を信じる。怪物になった聖騎士の話を。
その話を書いた俺は、もうその話を全部は信じていない。
それでも、あの人にとっては、その話が本当であってほしかった。
あの人の身体には、あの人一人しかいないはずだから。
* * *
午後の相談で、俺は相談員に餅の話をしなかった。
「あいさつ」が規則を破ったことを、相談の記録に残したくなかった。
代わりに話したのは、誕生日のことだ。この身体の誕生日。
相談員は質問するとき、俺の顔を見た。半分こルールは、2年目の今もそのままだった。
「この身体、とおっしゃいましたね」
「はい」
「以前は、私の身体、とおっしゃっていましたね」
「はい」
相談員はその答えを記録用紙に書いた。
それから、課題17を取り出した。最後まで読むこと。招請事由書のくだりだ。
相談員は、そのくだりの一行を指した。
招請事由。その欄は一行きりであった。その一行に、我が名が記されていた。
「この名前は、どなたの名前ですか?」
俺は鉢植えを見た。
右の鉢植えは、葉が7枚に増えていた。
初めてこの相談室に来たとき、あれは半分枯れかけていた。相談員が水をやりすぎないやり方を覚えてから、生き返った。
「手が書いたのではありません」
「では、この身体の名前は?」
「記録票にあります」
「その名前で呼ばれたら、返事をしますか?」
「します。点呼のたびに」
相談員はうなずいた。点呼で呼ばれるのは名前ではなく番号だということを、相談員も俺も知っていた。
この身体の名前を声に出して呼んだ最後の人間は、判決を読み上げた裁判官だった。
本当のことだった。
あのくだりには、俺の名前が書かれていた、とだけ書かれていた。名前そのものは、なかった。
手は、名前を書くところで止まっていた。
この身体の名前は、新入収容者記録票にある。あのくだりの中の「俺」の名前は、どこにもない。
欄がなかった。
いや、欄はあった。あいつらの文書に。招請事由の欄に。
その欄にだけ、その名前があった。
* * *
その夜、俺は右手を布団から出しっぱなしにしなかった。
この手が何を書こうと、朝には読むつもりだった。だから手はしまい、代わりに寝台に横たわって今日一日を勘定した。数字を数える子どものように。
飯の盛りが、指を広げたほどの高さ。餅が一切れ。半分に割って二つ。十五日目になっても来ない返事が一つ。この身体の誕生日が一つ。
そうやって勘定しながら、俺は数字を数えていたあの子を思い出した。あの子は梯子の下で、降りてくる騎士たちの顔を見ながら数えていた。一つ、二つ。
なぜあの子が顔を見ていたのか、今なら分かる気がした。数だけ数えていては、誰が降りてきたのか分からない。五人が降りてきても、それが昨夜上っていった五人と同じなのかは、顔を見なければ分からない。
あの子は、それを知っていた。七歳で。
そして、もう一つあった。課題7の帰還命令書だ。
別の世界から招請された者は、用が済めば大法則に従って元の場所へ帰る。司祭様が食堂で読み上げてくれたあの命令書には、名前が一つだけあった。この身体の名前。招請された者の名前。その名で呼ばれて来て、その名で送り返された。
なのに、あいつらの招請事由書には別の名前があった。理由の欄に。
呼ばれて来た者の名前ではない。呼ばなければならなかった理由の名前だ。剣が狙う名前。
この身体は招請された。この身体の中の俺は招請されていない。俺はあの文書の別の欄にいた。招請する者の欄でも、招請される者の欄でもない。理由の欄に。あいつらが空から剣を呼び下ろさなければならなかった、その理由として。
俺は天井を見ながら、その言葉を声に出した。古風な話し方ではなかった。今度は、俺の言葉だった。
だが、その俺が誰なのか、今なら少し分かる気がした。
「俺は招請されたことがない。俺は、招請した奴らを相手にしてきた」
* * *
その夜、彼のノートは埋まらなかった。
あの手が書くはずだった言葉を、彼が先に口に出してしまったからだ。
あいさつの勤務日誌には、その日の特異事項はなかった。
餅代を書き込む欄もなかった。




