第72話 招請事由書(2)――巻きかがりの月
管理番号KR-07 矯正相談記録
課題18 — 最初は。
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今回の課題は、あの手が書く前に、私が先に書くことにしました。
先生にそう申し上げると、先生が題を決めてくださいました。最初は。何の最初なのかは、お書きになりませんでした。私が決めなさい、とおっしゃいました。
私は、ノートの中で『俺』と語るあの人の最初を書くことにしました。城砦で川を崩し、敵の陣営で招請事由書を拾った人。その人が、最初は何だったのか。
方法はこうです。ボールペンを握り、自分が知っている筆順を捨て、手のするままに任せます。『○』が右回りに書かれても、そのままにします。『□』が上から引かれても、そのままにします。そうすると字が整い、整った字を追って文章が出てきます。
午前3時まで待たずに、昼のうちにそうやってみたのは初めてでした。最初は、何も出ませんでした。手が驚いたようでした。一時間ほど経つと、出ました。
出たものをそのまま書き留めましたが、口調は自分の口調に直して書きました。古めかしい硬い語りを、今の丁寧な言葉に。この課題は先生に差し出す課題ですから。それでも、何か所かは直せませんでした。直そうとすると、文章が切れてしまいました。そういうところは、そのままにしておきました。
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彼は昼のうちに、わざと、別の筆体の筆順で書いた。語り口は今の丁寧な言葉に直して書き写した、と彼は言った。数か所は直せなかった。
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戦争は、川の向こうから始まりました。
チラカの軍がカネン川を渡ったのは、晩春でした。
最初は、国境の小さな村がいくつかでした。その次は郡で、その次は川辺の城、二つでした。
便りが届くたびに、地図の上の土地が、ひと握りずつ減っていきました。
そのとき、私は城砦にはいませんでした。
都の学堂にいました。師のもとで魔法を学び、そして教えていました。
師は白髪で、手の甲には年寄りの染みがたくさんありました。
その手で書く字は、美しいのでした。
縦に、右から左へ、途切れずに。
私はその字を、10歳のときから真似て書きました。
師は、魔法にも名があるのだと教えてくださいました。
火を呼ぶ魔法には火の名があり、水を止める魔法には水の名があります。
名を知っている魔法だけを使いなさい、とおっしゃいました。
名があってこそ、その魔法を捕まえておくことができます。捕まえておくことができてこそ、それをしまうこともできるのでした。
師は、その二つを、同じ言葉で教えました。
私はその言葉を、学堂でいちばん最初に覚えました。
学堂の書庫には、名の書かれた巻物が、区画ごとに差し込まれていました。
いちばん下の区画だけが、ひとつ、空いていました。
その区画に何があったのかと尋ねると、師はお答えになりませんでした。
名のないものは書庫には置かない、とだけ、おっしゃいました。
ここまで書いて、手を止めました。
縦に、右から左へ、途切れずに。
ノートの後ろの、あの字でした。
書芸班の老先生が、昔のおばあさんたちの手紙の字だと言った、あの字。
その字を私は、10歳のときから真似て書いた、と書き記しました。
私が10歳のとき、何をしていたのか、私は知りません。
ですが、その一文は、直すことができませんでした。
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国境が崩れたという知らせが都に届いた日、師は学堂の門を閉ざされました。
そして、私と同僚の何人かを呼び集められました。
マセルンもその場にいました。
マセルンは学堂の同期でした。
魔法では私に及びませんでしたが、人を導くことにかけては、私より優れていました。
笑うときは、目のほうが先に笑う人でした。
その手は、いつも冷たかったのです。
マセルンは、手が冷たいのは心が熱いからだ、と言い張っていました。
学堂にいた頃、マセルンは試験の前日になると私の部屋に来て、私の筆記を書き写していきました。
写し方がひどく下手だったので、師はいつも、マセルンの答案の中に私の字の跡を見つけ出されました。
それでも、落第はさせませんでした。
マセルンが導く人々はマセルンに従いました。
それは魔法よりも珍しい才能だと、師はおっしゃいました。
師は、私たちを国境へ送り出されました。
守れ、と。
我が国を。
土地を守れということではなく、人を守れ、と。
土地は取り戻せても、人は取り戻せない、とおっしゃいました。
私はその言葉を、今でも覚えています。
我が国。
師がその言葉を口にしたとき、その声は少し震えていました。
師の声が震えるのを、私はあのとき、初めて聞きました。
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「我が国」。
初めて書く。
彼は、この言葉を書いてから長いことペンを取らなかったという。同じ言葉を、あと二度書いた。
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私たちはエスベルへ行きました。国境に近い、丘の上の城砦でした。
城壁は高く、上は広いのでした。馬が二頭、並んで通れるほどでした。城壁の内側には井戸が三つありました。冬でも凍らない井戸でした。
課題12で、私は夢の話を書きました。城壁の上に立って、手を上げる夢。城壁の内側に、丸い井戸の蓋が三つあったと書きました。その城壁が、エスベルでした。今なら分かります。夢ではなかったのです。
エスベルには避難民が押し寄せました。崩れた国境の村から逃げてきた人たちでした。老人と、女と、子供たち。男たちはほとんど、国境から戻りませんでした。城砦は人でいっぱいになりました。子供たちは城壁の下で寝ました。私は毎晩、城壁の上に立ちました。松明を持って、川の方を見ました。チラカの軍が川を渡ってくれば、鐘を鳴らしました。鐘が鳴ると、子供たちは城砦の地下倉庫へ下りました。私は城壁の上から下りませんでした。
この箇所を書き写していて、私はペンを置きました。しばらくの間、また手に取ることができませんでした。
毎晩、城壁の上で松明を持ちました。鐘が鳴ると、子供たちは地下倉庫へ下りました。私は下りませんでした。
孤児院の塀の上にいた私と、まったく同じでした。
* * *
同室のご老人は、その晩、私のノートを読んでいて、「我が国」のところで止まりました。
「これは、どこの国だ」
「分かりません」
国の名前は、手が書いてくれませんでした。
「では、旅券はあるのか」
「ありません」
「旅券もない国を我が国と呼ぶ。それは信仰だ」
「俺もな、神の国を我が国と呼んでいた。あの国には旅券がなかった」
「あの国に、牧師の席が空いていないか、聞いてみてくれないか」
出所してから移住するのにいい国ではないかと、ご老人は本気で悩んでいました。
* * *
翌日、相談室で、面談官が私に尋ねました。
「我が国を、描いてみることはできますか」
「地図を、ですか」
私は紙に描きました。手が描きました。
川が一本、東から西へ流れていました。
川の北には、丘の上の城砦がありました。
その北の遠くには、都がありました。都の周りには、町々がありました。
東の果てには、森がありました。森の縁に、小さな村が一つ。
その村を描くとき、手が少しの間止まり、それからまた動きました。
その地図は、相談室を出るときに没収されました。
廊下で持ち物検査をしていた班長が、その地図を見つけました。
班長はそれまで、相談室のドアの前で持ち物検査をしたことが一度もありませんでした。その日は、新しく下りてきた保安指針のためだ、と班長は言いました。
「収容者が地図を描くのは、保安上、禁止だ。逃走経路に使われるおそれがある」
「これは、この国の地図ではありません」
班長は地図をあちこち回して眺めると、押収理由の欄にこう書きました。
逃走経路の疑い。地名、確認不可。
確認できない地名へ向かう逃走経路を、班長は疑ったのでした。
班長は、その地図を保安課へ送りました。保安課がその地図をどう処理したのかは、分かりません。地名を確認しようとして、諦めたのでしょう。
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面談官が、回収要請書を出してくれました。相談資料なので、相談室へ返してほしい、という要請でした。
三日後、返事が来ました。
回収不可。理由は、保安等級の判定保留。
地名が確認できない以上、その地図が危険なのかどうかも、判定できない、というのでした。
判定できないものは、とりあえず引き出しに入れておくのが規定なのだそうです。
同室のご老人は、その返事を聞いて、自分の領収書コレクションに入れたがりました。
「判定保留か。俺には馴染み深い理由だ」
ご老人の再審査通知書も、結局はどれも、判定保留だったからです。
その夜、私は同じ地図をもう一度描いてみようとしました。
手は描きませんでした。
川も、城砦も、首都も、出てきませんでした。昼に一度描いたものを、この手は二度目には描いてくれませんでした。
私は真っ白な紙をしばらく眺めてから、東の端に小さな四角を一つ描きました。
それは私の手が描いたものでした。
塀のある村。その村だけは、私にも描けました。
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相談室で描いた地図が、廊下で押収された。理由は、逃走経路の疑い。地名、確認不可。回収要請書を出した。処理中。
地図の東の端、森の縁に小さな村が一つあった。その村には城壁が描かれていなかった。塀が一つ描かれていた。
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エスベルでは、私は最初の冬を耐えました。
チラカの軍は、三度、川を渡ってきました。三度とも、帰っていきました。
私は城壁の上で手を挙げました。指先から火が出ました。
あのときは火でした。黒いものではありませんでした。
師に教わった魔法でした。名のある魔法、学堂で教えている魔法でした。
火は、川を渡ってくる船を焼きました。船に乗った人たちも。
その一文を書き写したとき、私の右手が温かくなりました。
井戸で子どもの手を治したときと同じ温度でした。けれどその温度は、何かを治す温度ではありませんでした。手のひらではなく、指先が熱かったのです。
私はボールペンを置いて、指先を見ました。何も出てきませんでした。
ここはこっち側で、私の手は何もできない手です。医療課の記録にも、異常所見なしと書かれています。
それでも、指先はしばらく冷めませんでした。
春が来ると、避難民の子どもたちが城壁の下で遊びました。
子どもたちは私を、城壁の上の魔法使い様と呼びました。
私が城壁から降りると、子どもたちは駆けてきて、私の服の裾にぶら下がりました。
魔法使いの服は鎧のように冷たくないので、子どもたちは喜びました。
マセルンはそれを見て笑いました。目が先に笑いました。
「お前は子どもに人気があるんだな」
そう言うマセルンの手は、冷たかったのです。
あのとき、私は守る側でした。我が国の人を。師の言葉どおり、土地ではなく、人を。
最初は。
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この課題を書き終えてから、私はノートを閉じました。閉じる前に、最後にもう一度読みました。
「我が国」という言葉が、三度出てきました。三度とも、私の字でした。三度とも、直せませんでした。
です・ますに直して書き写したのに、その言葉だけは、古めかしい言い回しの文からそのまま渡ってきました。
孤児院があった国を、私は一度も「我が国」と呼んだことがありません。向こう側と呼んでいました。6年のあいだ、向こう側でした。
ところが、この課題の中の「私」は、最初からあの土地を「我が国」と呼んでいました。向こう側ではなく、こちら側でした。
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はじめて、「我が国」と書く。
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彼が描いた地図は、保安課の引き出しに入った。地名欄が空欄の押収品台帳と一緒に。
地図の東端の森の外れにある小さな村を、彼の手はほかのどの場所よりもゆっくりと描いた。




