第70話 偽物を見抜くやり方(3)――当て布の月
面会申請書の事由欄には、印刷された二文字が刻まれていた。
救済。
班長がその申請書を持ってきて、配膳口の前に立った。班長は申請書を読み、俺を見て、また申請書を読んだ。面会事由の一覧に救済はない、と言った。家族面会、弁護人接見、宗教委員相談、その他。出した側はその他に印をつけて、括弧の中に救済と書いていた。括弧の中は何を書いてもいい欄だから、差し戻す根拠がない。班長はそう言いながら、括弧というものがこんなに危険だとは知らなかった、という顔をしていた。
申請人欄には宗教団体の名前と、代表1人と書いてあった。整った一行だった。その横に職印が押してあって、文字より三倍は大きかった。欄は一行なのに、印は三行を占めていた。代理人欄には法律事務所の名前があった。牧師の話では、財閥企業でもなければ依頼を受けないところだそうだ。
「受けるのか」
班長が聞いた。班長が俺に何かを尋ねるのは、珍しいことだった。
「受けます」
俺は申請書に署名した。理由を問う欄はなかった。もし欄があったら、俺は何と書いただろう。暇だから。たぶん、そう書いた。それが一番短くて、受理される言葉だった。
* * *
牧師はその知らせを聞くと、俺よりも浮かれていた。
あの子供を知っている、と言った。テレビで見た、と言った。九歳なのに年寄りみたいに喋る宗教団体の代表。牧師はその子供を業界の先輩と呼んだ。年齢ではずっと後輩だが、規模ではずっと先輩だ、と。
牧師の教会は看板が一つだった。あの子供の団体には、全国に支部があった。
牧師は班長に、自分も一緒に入れてくれと頼み込んだ。面会同席申請書を書く、と言った。班長は、同席は家族だけだ、と言った。牧師は、俺と2年以上同じ部屋にいたんだから家族みたいなものだ、と言った。班長は、そんな欄はない、と言った。牧師は、その言葉を2年のあいだに何度聞いたか数え始めて、途中でやめた。
「じゃあ、一つだけ聞いてくれ。献金の割合がどうなってるのか」
「それをなぜ聞くんです」
「出たら参考にする」
牧師の4度目の再審査は、まだ日取りも決まっていなかった。
* * *
面会室は本館の1階にあった。
ガラスの仕切りが部屋を半分に分けていた。仕切りの下のほうに、声を通す小さな穴がいくつも開いていた。ガラスのこちらの椅子が一脚、あちら側に椅子が二脚。
あちら側の椅子の一脚に、大人の司祭が座っていた。白い司祭服を着た老いた男だった。もう一脚は空いていた。いや、空いているのではなかった。椅子の上にリンゴ箱が一つ載っていた。
続いて背広姿の男が入ってきて、その箱の上に小さな子供を座らせた。ガラスの仕切りの向こうから、ようやく顔が見えるという高さだった。代理人らしい背の高い男は、子供と二言三言、小声で話してから、すぐ面会室を出ていった。男は入ってくるときから出ていくときまで、ずっと腕時計を見ながら話していた。子供が面会に使った5分も、あの時計に書き留められたのだろう。時間を金のように使う人間を初めて見たので、むしろこちらのほうが面白かった。
子供は白い司祭服を着ていた。袖が手の甲を覆っていた。子供が袖をまくり上げると、袖はまたずり落ちた。子供は袖をそのままにして、俺を見た。
そのときになって、ようやく、俺は自分が立ったままだったことに気づいた。
慎重に椅子へ腰を下ろした。
やがて、子供と目が合った。
子供は俺を見た。長いあいだ、見た。
この刑務所で、俺をそんなに長く見た人間はいなかった。
相談員も、半分こルールを決めてからは、質問をするときしか俺を見なかった。牧師は、最初の2か月のあいだ、俺の右肩を見ていた。あいさつは、配膳口の向こうから手だけが見えた。
子供は俺の顔を見た。それから、俺の右肩の横、何もない場所を見た。そして、また俺の顔に戻った。そのあいだを何度か往復した。
何かを突き合わせている目だった。帳簿の二つの欄を突き合わせる、院長の目のように。
大人の司祭が、横で息を呑んだ。何か言おうとするのを、子供が手を挙げて止めた。袖がずり落ちて、手が半分隠れた。
「救いに来たのだ……あまりにも長く」
子供が言った。9歳の声だった。高くて、細い。
なのに、話し方は老人だった。ゆっくりで、重い。そして、語尾が古かった。
俺はその語尾を知っている。ノートの前のほうで、ノートの後ろで、午前3時の俺の口で。同じ語尾が、子供の口から出た。
どんな言葉を聞かされるのか、気になった。
子供はもう一度、俺を見た。そして、俺の肩の横を見た。
しばらく、何の音もしなかった。
その沈黙が、子供が言葉を止めた場所だったのだと、俺はあとから気づいた。
そのときだった。
子供が、急に笑った。前歯が一本、抜けていた。
「偽物」
子供が言った。
それだけだった。
子供はリンゴ箱から降りた。大人の司祭が子供を受け止めた。面会時間は20分あったのに、子供は5分も使わなかった。
子供は面会室の扉のほうへ歩いて行き、一度だけ振り返った。
俺を見なかった。俺の肩の横を見た。そして、出て行った。
* * *
部屋に戻ると、牧師が聞いた。
「献金の割合、聞いたか」
「聞けませんでした」
「何て言われた」
「偽物だそうです」
牧師はしばらく俺を見ていた。それから、笑った。大声で笑った。
あの子が偽物を見分けるなら、本物の業界の先輩だ、と牧師は言った。
自分は30年のあいだ偽物だったが、誰も一言で偽物だと言ってくれたことはなかった、と言った。
みんな、長々と言うんだ、と言った。判決文は12枚だった、と言った。
一言で偽物だと言ってくれる人がいたら、自分は20年ほど早くやめていただろう、と言った。
俺は笑わなかった。代わりに寝台に座って、その言葉を長いこと抱えていた。偽物。
不思議なことだった。その言葉が、良かった。
1年のあいだ、人は俺を見て息を止めた。9人が同じ言葉を書いた。その言葉を聞いて、俺は鏡を割った。
それからは、誰も俺を何とも呼ばなかった。面倒くさそうな目で見るだけだった。
ところが今日、初めて誰かが俺を一言で呼んだ。その一言は、怪物ではなかった。偽物だった。
偽物なら、その9枚は偽物を見たのだ。本物ではないものを。だとしたら、その9枚に書かれているのは、俺ではないかもしれない。
そう思うと、息がしやすくなった。けれど、その息のあとに、別の考えがついてきた。
* * *
偽物は、何の偽物なのか。
子供は、俺の顔と、俺の肩の横を、代わる代わる見た。二か所を突き合わせていた。片方を見て偽物と言ったのなら、突き合わせる相手がもう片方にあった、ということだ。
偽物がいるなら、本物がいる。それが牧師の計算だ。偽物の牧師がいるためには、本物の牧師がいなければならない。
この身体には俺がいる。ところが、子供はそんな俺を偽物だと言った。だとしたら、この身体には本物が別にいた。今もいるのか、いたのがいなくなったのかは分からない。ただ、いた。
ノートの後ろの縦書きの文字。城砦の三つの井戸。丘の上の風。手袋をはめた手。光の門の前で司祭の手首を掴んだ者。午前3時に、約束の日は過ぎたと言った声。
俺はこの2年のあいだ、それらを一つずつ、別々の理由で説明してきた。疲れていたから。教本のせい。牧師の説教のせい。罪悪感が夜に下ろす罰。
理由は毎回、見つけた。見つけた理由は毎回、互いに違っていた。今日、子供はその理由を一つに縮めた。たった一つの言葉に。
この身体には、俺以外の誰かがいる。
俺はそれを確信した。初めて、何の理由も探さずに確信した。けれど、その確信のあとに来る問いには、答えられなかった。
俺以外の誰かがいるのなら、二人のうち、どちらが偽物なのか。子供が偽物と言ったのは、今、この寝台に座っているほうか。午前3時に座っているほうか。孤児院の塀の上の騎士か。丘の上のあの男か。
分からない。本当に分からない。
* * *
その夜、俺は手紙を書いた。
刑務所で支給される便箋だった。横罫線が細かかった。俺はその罫線に合わせて書いた。
宛先は、あの白い部屋に今いる者だった。俺がいた部屋。八番目。
画面の向こうの顔は、その夜も思い浮かばなかった。それでも、あの部屋のことは分かった。あの部屋の、ベッドの下の板のことも分かった。
俺は一行目を書いた。
おい。
あいさつは書かなかった。あいさつは、あいさつがするものだった。
もうすぐ1年だろ? お前が入った日は、ざっと聞いた。おめでとうは言わない。おめでたいことじゃないからな。
1年経てば、みんなお前をただのおじさんとしか見なくなる。俺もそうだった。
俺も、1年が過ぎてから、刑務官が俺を見る目が変わった。怯えた目から、ただ面倒くさがる目に。
それがどれだけ楽か、お前もじきに分かる。
だが、ひとつ教えてやる。1年経っても、戻れないものがある。
そこまでは、詰まらずに書けた。次の行で、ボールペンが止まった。
俺には、知っている話があった。2年のあいだ、俺を支えてきた話。
9人が俺を怪物と見て、俺はその言葉を信じて、信じたせいで怪物になって、それで人を殺した、という話。
その話の中では、俺はもともと怪物じゃなかった。もともとは、子供たちを守る者だった。周りの言葉が俺を変えた。
その話を書けば、俺は最後まで孤児院の塀の上の騎士でいられる。
今日、子供がその話に線を引いた。それでも、俺はその話を書いた。次の者に残せる話は、それしかなかった。別の話は、まだ俺にも分からなかった。
俺は1年のあいだ、怪物だった。
人がそう見たから怪物になったんじゃない。俺が、その言葉を信じたから怪物になった。
1年が過ぎて、人は俺をただの人間と見るようになった。だが、俺はもう人を1人殺した後だった。
呪いは1年で終わるのに、1年のあいだにやったことは終わらない。
信じたゆえに成ったものではない。
その文が、頭の中で響いた。俺が書いた文のすぐあとで、俺の文を直そうとするかのように。
俺はボールペンを握った手に力を込めた。その文は便箋には下りてこなかった。
手は、今回は俺の側だった。
「お前、その部屋にいるよな? ベッドの下に俺が刻んだもの、見たよな?」
その次の行で、手が勝手に動いた。二文字を書いた。板に爪で1か月かけて刻んだ二文字。3年近く前の俺に、毎晩言い続けていた言葉。
見るな
俺はその二文字を見下ろした。そしてボールペンで引いた。一度引いて、また引いた。何度も引いた。文字がほとんど見えなくなるまで。
その言葉は、俺に言った言葉だった。自分が何に見えるか、考えるな。考えれば、そうなる。今日、俺は初めて、自分が何に見えるかを聞いた。怪物ではなかった。偽物だった。
その言葉を聞いた今は、「見るな」など役に立たなかった。もう、見なければならなかった。この体に誰がいるのかを。
その下に新しく書いた。
もう見てもいい。お前は俺のような真似はしないだろうから。
あの人は白い部屋で、10か月目になる今も、あの板の上で寝ているはずだ。俺が刻んだ二文字の上で。あの人は俺のような真似はしない。あの人の体には、あの人一人しかいないはずだから。
行が終わった。俺は行の下の余白に小さく書き足した。
追伸。あのちび司祭、俺のところにも来た。面会申請書を持って。事由は「救済」だった。会ってやった。暇だったから。でもあのちび、俺をしばらくじっと見てから、何て言ったと思う?
俺は偽物だって。
よかった。1年ぶりに聞く、いい言葉だった。
俺は手紙を折った。封筒に入れて、封はしなかった。刑務所の検閲と、管理局の検閲を順に受ける手紙だった。二つの機関が読んだあとで、あの人に届く。あの人は、三人目に読む者になる。
* * *
偽物を見分けるやり方は、人によって違った。牧師は手を見ると言った。書芸班の老先生は筆順を見た。相談員は二枚を並べて置いた。子どもは俺の顔と、俺の肩の横を交互に見た。そして一言で言った。2年のあいだ、誰も言えなかった言葉を、5分で。
俺は手紙の封筒を枕元に置いて横になった。牧師はもういびきをかいていた。廊下の明かりが配膳口の隙間から入ってきて、天井に細い線を引いた。俺はその線を見ながら、右手を布団の外に出して広げた。
午前3時にこの手を使う者が誰なのか。もう、知らなければならなかった。
* * *
あの体には初めから二枚が重ねて縫い合わされていた。我々の針ではない。
子どもはその日、面会室を出る時、一度だけ振り返った。子どもが見た席には、誰も座っていなかった。




