第65話 見たものと見えたもの(1)――かがりの月
配膳口の蓋が開いて、食器を載せた盆が入ってきた。甲にしわの多い手が、その盆を押し出した。「あいさつ」だった。
「こんにちは」
俺は答えた。五百何十回目の返事だった。
「あいさつ」はその返事を聞いてから、蓋を閉めようとして、止まった。蓋を半分開けたまま立っていた。
そんなことはなかった。「あいさつ」はいつも「こんにちは」と言い、返事が聞こえようと聞こえまいと蓋を閉めた。
「八番目だってよ。お前と同じ部屋だったやつ」
それから蓋を閉めた。足音が廊下を伝って遠ざかった。足音の合間に、息遣いが聞こえた。ただ歩いている人の息だった。
俺は盆の前に座って、その言葉を長いこと聞いていた。
「あいさつ」が「こんにちは」以外の言葉を口にしたのは、初めてだった。ため口も初めてだった。
「あいさつ」は、その一言を言うために、1年半あまり取っておいた他の言葉を全部使い切ってしまったようだった。
昨日のことだった。午後2時、接見室の鉄の椅子、画面。
一晩中、その接見を思い出そうとしていた。思い出そうとすると、画面のほうがぼやけた。
画面の中に誰が座っていたかは、分かっていた。その人が何かを尋ねたということも、分かっていた。
だが、その人の顔と声を思い出そうとすると、白い部屋の天井のような白い光だけが残った。
はっきりしているのは、俺の側だけだった。俺が言った言葉。
俺はその言葉を、一つも欠かさずに覚えていた。
自分の体がどうだったかも、覚えていた。
接見室の鉄の椅子は、背もたれが冷たかった。手錠はかけられていなかった。公文が解かれてから、接見に手錠は要らなかった。
俺は両手を膝の上に置いていた。
画面の下のほうに、接見の残り時間が数字で浮かんでいた。俺はその数字が減っていくのを見た。
減っていく数字は覚えている。だが、その数字の上に浮かんでいた顔は、覚えていなかった。
* * *
接見申請書が来たのは、三日前だった。
持ってきたのはあいさつだった。
配膳口から押し込むのではなく、扉を開けて入ってきて、読み上げた。
管理局から来た申請書だから、収容者本人に内容を告知する規定があるのだ、と言った。
あいさつが「こんにちは」以外で声に出して読んだ文章は、あれが初めてだった。
今思えば、あの日が、あいさつの最初の別の言葉だった。
ただ、それはあいさつの言葉ではなく、書類の言葉だった。
接見対象:KR-07。
接見申請人:KR-08。
接見理由:同じ部屋を使った者だから。
俺は笑った。声を出して笑った。
あいさつは、俺が笑うところを初めて見たはずだ。泣くところは見ていても。
接見理由の欄に、そんなことを書く人間がいるのが可笑しかった。
この国では、欄にそんなことを書けば差戻しになるということを、まだ知らない人間だった。
ところが、その申請書は差戻しにならず、決裁が下りてここまで来た。
差戻しにならなかった欄が珍しくて、俺は接見を受けることにした。
元々は受けない。受ける接見などなかったのだから、断ることもなかったのだが。
牧師は、その知らせを聞いてから三日間ずっと浮かれていた。
八番目という男が日本でフライパンで殴られる映像は、この刑務所でもしばらく出回っていた。
みんなその映像を見た。そして、みんな笑った。
その男が俺に接見を申し込んだという噂が舎棟に広まると、牧師は、自分はその男と同じ部屋を使った人間と同じ部屋を使っている人間だ、と言いふらして回った。
うなぎの刺青は、それが何の自慢になるんだと言った。
牧師は、人間は元々、二つ隣で知り合った者を一番自慢するものだと言った。
一つ隣なら自分の話になり、三つ隣なら他人の話になる。二つ隣がちょうどいいのだ、と言った。
* * *
接見が終わって戻ると、牧師が真っ先に訊いた。
何の話をしたのか、と。
俺は、大したことは話していないと言った。
牧師は、大したことを話さない接見は接見ではないと言った。
そして班長のところへ行き、接見記録簿を見せてくれと言った。
班長は、収容者は他人の接見記録簿を見ることはできないと言った。
牧師は、自分は他人ではなく同じ部屋だと言った。
班長は、そんな欄はないと言った。
* * *
昨日、俺は自分が言った言葉を一つずつ思い出してみた。
「あ、お前か。八番目」
画面がつくと同時に、その言葉が出た。
俺はその人を映像で見ていたから、見分けがついた。おかしなことではなかった。
「俺、あっちで聖騎士だったんだ」
その言葉は、何の脈絡もなく出た。
その人が何かを訊き、俺が答えている最中だった。答えが終わると同時に、その言葉が飛び出した。誰も訊いていないのに。
「6年。孤児院を守る騎士団だった。モンスターが子どもをさらっていく町だったんだ。子どもを守るのが仕事だった。6年の間に、子どもを40人ほど助けたかな。子どもは俺を見ると、走ってきて脚にぶら下がった。鎧が冷たいのに」
俺はその文を、一息に言った。息継ぎもなかった。詰まる所が一つもなかった。
「鎧が冷たいのに」というひと言まで、最初からそこに置かれていたかのように、あるべき場所に収まった。
俺はその文を、初めて言った。
相談室で、あっちの話をしたことはある。課題にも書いた。
でも、その文をその順番で、その口調で口に出したのは、昨日が初めてだった。初めて言う言葉だった。なのに、滑らかだった。
俺は課題を書くときは、どもる。最初の一行を何度も消し、質問を一つ、三度書き直す。
ノートには、俺が引いた線が、俺が書いた行と同じくらいある。
相談室で、あっちの話をするときも、同じだった。話すのを途中でやめ、別の言葉に言い換え、鉢植えを見てからやっと、次の言葉を見つけた。
それが、俺が話すときのやり方だった。
なのに、昨日は画面の前で一度も止まらなかった。消した跡も、直した跡もない言葉だった。
半年前に牧師が言った言葉が浮かんだ。
「偽物は言葉が滑らかだ。練習したからな。本物はどもる。本物は、初めて言う言葉だから」
* * *
残りの言葉も、引き出してみた。
「それ、訊いちゃいけない。お前は知らなくていい」
あの人が俺の側のことを訊いたとき、出てきた言葉だった。
白い部屋を出た夜、ドアの向こうの人にひとつ頼みをした。
「次に来るやつには言わないでくれ。知ったら、そうなってしまう」
その頼みは俺のものだった。
それは覚えている。
その言葉は、ためらわなくてもよかった。前に一度、口にした言葉だったから。
「1年経てば終わる。本当だ。その日の朝に起きたら、刑務官が俺を見て、普通にあいさつする。こんにちは、って。息も止めずに。俺、その日は一日中泣いた」
それも俺のものだった。
あいさつの「こんにちは」。ショッピングバッグ十一袋の水分。
それは俺が実際に経験したことだった。
「でも、1年のあいだにできたものは戻ってこない。1年のあいだに俺がしたこと、俺がなったもの。それは1年経っても消えない。呪いは解けるのに、俺は解けない。だからお前、1年のあいだに何かになるな。何にもなるな。ただ耐えろ」
俺はこの言葉で長く止まった。
この言葉を言うとき、俺は確信していた。画面をまっすぐ見て言った。一文字も揺れなかった。
でも、何を確信していたのか、今はわからない。
1年のあいだに俺がなったもの。
俺は1年のあいだに何になったのか。
判決文には、殺人者と書いてあった。
それは1年のあいだにできたものではなく、一日でできたものだった。車のドアが閉まる音と、拘置所の天井のあいだの一日。
なのに俺は、1年と言った。
「1年のあいだにできたものは戻らない」――それが、俺の言ったことだった。
俺はその言葉をあの人に言ったけれど、その言葉が誰を指しているのか、話しているあいだにもわからなかった。
話す者が、その言葉の持ち主だという法はない。
口は借り物にできる。
その段落が浮かんだ。
今度は一文ではなかった。
俺はその段落を押しのけなかった。押しのけてみたところで、別の段落がその場所に上がってくるだけのような気がした。
今度は、牧師の説教のせいにも、書芸班の教本のせいにもしなかった。
昨日、あの画面の前には牧師も教本もなかった。
* * *
午後の相談で、俺はその言葉を相談員にそのまま伝えた。半分こルールどおり、鉢植えを見ながら。
相談員は、質問するときだけ俺を見た。なのにその日は、ほとんど質問しなかった。
俺が全部話し終えると、相談員が訊いた。
「その言葉を言ったとき、気分はどうでしたか」
「確信していました」
「今は?」
「その確信があまりにすんなりしていたのが、引っかかります」
「あの人が何を訊いたかは、覚えていますか?」
「訊かれたことは覚えています。何を訊かれたかは、自分の答えを逆にたどって、やっとわかります」
相談員はその答えを、記録用紙に書き写した。今回は、書いた。
俺は鉢植えを見ながら、そのボールペンの音を聞いていた。右の鉢植えの新しい葉は、もう4枚になっていた。
相談員はうなずいた。それから、俺の手を見た。
俺は両手を腿の上に重ねていた。爪は短く切ってあった。
俺はその手を見下ろした。昨日、画面の中に映った俺の手も、きっとこうだったのだろう。指が長く、先が丸く、爪のすり減った手。
俺は昨日の面会のあいだ、ずっと親指で爪の先をこすっていた。それは古い癖だ。白い部屋の床板を引っ掻いていた頃からある癖。その癖だけは、確かに俺のものだった。
相談員は、次の課題を出さなかった。代わりに、前の課題を一つ、また取り出した。課題2――俺がしたことの中で、一番よくやったこと。井戸の話だった。
「次はこれを、もう一度書いてみてください。同じ夜を、最初から」
* * *
運動時間になると、チュックのチームが俺を取り囲んだ。
うなぎの刺青が、あの人は本当に恐ろしい顔をしていたのかと訊いてきた。
映像で見た限りでは、ただの外国人に見えたと言った。
俺は顔を覚えていないと答えた。
点をひとつ多く数える男が、それなら大した顔じゃなかったんだろうと言った。
覚えていない顔は大した顔ではない。それがその男の勘定だった。
うなぎの刺青は、それには同意しなかった。
自分の刺青を彫った男の顔も覚えていないが、その男は大した男だったと言った。
鱗を半分だけ描いて逃げた男だったからだ。
その日の夜、牧師は結局面会の話を聞けなかったのが悔しくて、夕食を残した。
牧師が飯を残したのは、初めてだった。
残した飯粒を糊にして、翌朝には囚衣の襟を立てた。
再審査はもう二度も先送りになっているのに、本番に備えて練習しているのだと牧師は言った。
明かりを消してから、牧師が訊いた。
「その八番目、お前と似ていたか」
「わかりません。顔が思い出せないんです」
「昨日、見たんだろう」
「見ました。覚えているのは、自分の言葉だけです」
牧師は、そんなものが面会かと言った。
自分の言葉だけが残るのは説教だと。
説教は、聞く者の顔を見なくてもいい。
顔を見ると、自分の言葉を信じられなくなるからだ。
牧師は三十年間、信者の顔を見ずに説教してきた。
だから信者が減っていることにも気づかなかった。
最後の年には、空の椅子に向かって説教していた。
空の椅子は献金を払わない代わりに、居眠りもしなかった。
俺は天井を見た。
昨日、画面の前で俺はあの人の顔を見たのだろうか。
見たのなら、なぜ覚えていないのか。
あの人に言った言葉は、こんなにはっきりしているのに。
まるでその言葉は、あの人に言うためのものではなかった。
誰かがずっと前から用意していた言葉を、その場を借りて取り出しただけのようだった。
俺は、その言葉を吐くための口だった。
言葉が終わると、画面が消えた。
口は、また俺のものに戻った。
その言葉を言ったのは俺だったのか。
それとも、俺を使っていた誰かだったのか。
* * *
その日、彼は自分が言った言葉を一字も欠かさず覚えていた。
その言葉を聞いた人間の顔は、覚えていなかった。
あいさつは翌日の朝から、また「こんにちは」しか言わなくなった。
たった一文を口にした代償を、二年かけて返すつもりなのだろうか。




