第61話 相談申請書(3)――裁ちの月
教務課の前の廊下の壁に、様式箱が掛かっていた。
木で組んだ枠は六行、一行につき五枠。どの枠にも、それぞれ違う様式が差し込まれていた。
電話使用申請書、図書貸出申請書、作業場変更申請書、宗教集会参加申請書、預かり品購入申請書、診療申請書、帰休申請書、面談申請書。
三十枠のうち、二枠は空いていた。
枠の下の名札が剥がれ落ちていて、そこにどんな様式が差し込まれていたのか、誰も知らなかった。班長の話では、もう何年も空いたままだという。誰も探さなかったので、誰も補充しなかった。
一番下の行の右端の枠に、相談申請書があった。
俺はその前に、長いこと立っていた。
入所から二百日目になる日だった。寝台の縁の刻み目は六十八で止まっていたが、日付を知らないわけではなかった。
朝の点呼のたびに、舎棟の黒板にその日の日付が書かれた。刑務所は、日付を代わりに数えてくれる場所だった。
俺は相談申請書を一枚抜いた。
* * *
相談申請書を抜くことになったのは、五日前の夜の出来事のせいだった。
牧師には、俺のノートを読む癖があった。
最初はこっそり読んでいた。次は堂々と読んだ。近ごろは音読した。
俺が課題を書いてノートを閉じて置いておくと、牧師は夕方の点呼が終わったあとでそれを開き、朗読した。説教をしていたときの声だった。
同じ部屋の者の文章を読み聞かせるのも牧会なのだと、牧師は言った。献金を受け取らない牧会だから、自分の生涯で一番清い牧会だとも言った。
その日、牧師が開いたのはノートの前のほう、課題9だった。
一番申し訳ない人。
牧師は、数字を数えていた子の話を、ゆっくりと読み下していった。
足の指まで数えて靴を履いたくだりで笑った。棒を一緒に埋めたくだりでは、しばらく止まった。
そして、次の段落に移った。
「エスベル城塞の井戸は、冬でも凍りませんでした」
牧師の声は低く、遅かった。
城壁の内側の井戸三つ。溢れた川。南の城門を任せた日、手を握って笑っていた人。その手が冷たかったという一文。
牧師がその段落を読み終えたとき、俺は息ができなかった。
喉が詰まった。
三つの井戸が見えた。見たことのない井戸だった。
南の城門が見えた。行ったことのない城門だった。
手を握って笑っていた人の顔は見えなかった。
代わりに、その手の温度が俺の手のひらに残っていた。冷たかった。
その人が戻らなかった南の城門のほうを一度も振り返らなかった、という一文を聞いた瞬間、俺の首はひとりでに反対側へ向いた。
俺は知らない人のために泣いていた。
牧師がノートを閉じた。
「これ、お前が書いたんだよな」
「俺の字じゃないですか」
「字じゃなくて、お前のことだ」
牧師はそれ以上、何も聞かなかった。
ノートを俺の枕元に置いて、背を向けて横になった。
その夜、牧師は祈らなかった。
牧師が祈りを抜かすのを、俺はその日はじめて見た。
* * *
俺はその夜、理由を探した。
課題10に書いたとおりだった。
巡回騎士と司祭が井戸のそばで交わしていたあっちの言葉。耳に残った名前たち。疲れのあまり、手から出てきた言葉たち。
その説明が間違っているとは思わなかった。ただ、その説明には、俺が泣いた理由が入っていなかった。
言葉を聞いた者は泣かない。泣くのは、その人を知っている者だ。
その一文が頭の中に浮かんだ。俺が考えたことだった。なのに、俺の言い方ではなかった。
俺は人を『者』と呼んだことがなかった。あっちでも、こっちでも。
俺はしばらくその一文にしがみついていた。
それから、理由をもう一つ見つけた。牧師の説教だった。
7か月の間、毎晩同じ部屋で説教の声を聞いてきたのだから、その言い回しが移ってもおかしくなかった。
牧師は信徒たちを兄弟姉妹と呼んだが、聖書を読むときはよく『者』と言った。信じる者、求める者、叩く者。
それで説明はついた。俺はその説明を受け入れた。
それでも、一つだけ残った。
俺はマセルンを知らなかった。なのに、その人の手の温度は知っていた。
だから確かめたかった。俺の記憶が俺のものだということを。
井戸から子どもを助けた夜、三日間持ちこたえた塀、叙任式の温かい手、梯子の下の数字。
それらが全部、俺のものだという確認が欲しかった。
その確認さえ得られれば、城砦の井戸は、疲れた手が拾い間違えた言葉のままでいられる。南の城門は、他人の門のままでいられる。
俺は、俺の側の門だけを守ればいいはずだった。
6年の間、塀の上でやってきたことは、それだった。
森の向こうは見ず、俺の側の塀だけを守ること。
相談員に口で言うこともできた。相談は週2回だった。
だが、口に出せば相談員は「そうですか」と受け流してしまいそうだった。200日近く相談を受けてきて、俺はその言葉を数十回聞いている。
「そうですか」は確認ではなかった。
俺はこの一件が欄に書かれることを望んだ。欄に書かれ、印章が押され、書類綴りに入ることを。
俺がこの国で自分のことを出した書類は、収容事由書であれ担当者交代要請であれ、すべて差し戻された。
それでも、差し戻された書類は書類綴りに入った。書類綴りに入ったものは消えなかった。
* * *
相談申請書には欄が五つあった。氏名、収容番号、所属作業場、希望相談分野、申請事由。
希望相談分野には四角が四つあった。家族関係、対人関係、心理・情緒、その他。
俺はその他に印を付けた。括弧の中に何を書くかしばらく迷って、記憶と書いた。
申請事由の欄は一行だった。
自分の記憶が自分のものか確認したい。
欄にぴったり収まった。最後の一文字を書くとき、手が少し止まった。俺は自分の手を見た。端正だった。丸い線が右へ回った。
申請書を班長に提出した。班長は申請書を受け取って手に持ち、事由の欄を読んだ。
それから俺を見た。面倒くさそうな目だった。この人がまたどんな欄を妙に埋めたのか、という目。
班長は何も言わず、申請書を教務課の書類箱に入れた。
* * *
同じ日、牧師も申請書を出した。宗教並行申請書だった。
そんな様式は様式箱にはなかった。牧師は面談申請書を一枚抜き、題名にボールペンで線を引いて、その上に宗教並行申請書と書き直した。
牧師はキリスト教と仏教とカトリックの集会に、すべて登録されていた。先月、教務課から一つだけ選べという通知が来た。集会の間食が一人に三回出ている、と予算監査で指摘されたらしい。
牧師は一つを選ぶ代わりに、三つとも守るという申請書を出した。事由欄にはこう書いた。
信仰は一つ、表現は三つ。
班長はその申請書を受け取って持ち、笑いをこらえた。笑いをこらえるために、息を止めた。
一年前は、俺を見るときにそうやって息を止める人が多かった。最近この舎棟で息を止めるのは、牧師の書類を読む班長だけだった。
* * *
その夜、牧師は俺を面接官の席に座らせた。仮釈放審査が半年後に控えていた。審査委員の前で言うことを、前もって合わせておくべきだと言った。
俺は牧師が書いてくれた質問を読んだ。
「出所後の計画は何ですか」
牧師は膝を折って座り、両手を組んで答えた。
「教会をまた開きます」
「その答えは通らないと思う」と俺は言った。
牧師はしばらく考えてから、答えを変えた。
「教会に通います」
開くのと通うのは一文字違いだが、審査委員にとっては五年の差だと牧師は言った。
次の質問は、被害者に言いたいことだった。
牧師はその質問では長く答えられなかった。被害者が多すぎて、誰に言うところから始めればいいのか分からない、と言った。
その日の練習はそこで終わった。牧師は残りの質問は半年の間に考える、と言った。
* * *
次の日の午後、俺の申請書が戻ってきた。
申請書の右上に赤い印章が押してあった。
差戻し。
その下に、教務課の職員の字で理由が一行書いてあった。
相談は申請対象外(指定相談収容者)。
俺はその一行を三度読んだ。
相談を受けている者は、相談を申請できない。相談申請書とは、相談を受けていない者が出す様式だった。俺はすでに相談を受けているので、相談を申請する資格がなかった。
牧師の申請書も同じ日に戻ってきた。
差戻しの理由は、該当様式なし。
牧師は理由を読んで頷いた。様式のない申請は最初から差し戻されると分かっていた、と言った。それでも出したのは、差戻しの印をもらえば、申請したという記録は残るからだ、と言った。
牧師は差し戻された申請書を聖書の見返しに挟んだ。そこには差し戻された書類がもう何枚も挟まっていた。牧師はそれらを領収書と呼んだ。
神に何かを請求したという領収書。
* * *
午後の相談の時間、俺は差し戻された申請書を持っていった。
相談員は机の前に座っていた。俺は向かいに座り、両手を腿の上で組んだ。
相談室の机のニスの上には、あの筆跡がまだ残っていた。相談員はその場所にファイルを載せた。俺はファイルの角だけを見た。
「これを出しました」
申請書を机の上に置いた。半分こルールどおり、話しながら鉢植えを見た。右の鉢植えはここ数か月で少し良くなっていた。新しい葉が二枚出ていた。水を減らしたからだ、と相談員が言った。水を減らすやり方を覚えるのに一年かかった、とも言った。
「差戻しですね」
「はい。相談は申請対象外だそうです」
相談員は差戻しの理由を読んで、短く笑った。それから視線を上へ移した。申請事由の欄だった。
その欄に何を書いたか、俺は知っていた。一行だった。十四文字。声に出して読んでも三秒もかからなかった。
相談員はその一行を声に出して読まなかった。目で読んだ。一度読み、また最初に戻って読んだ。
半分こルールでは、彼は質問するときだけ俺を見て、それ以外はどこを見てもよかった。彼はその欄を見ていた。
俺は鉢植えを見ながら待った。
相談員があの欄から目を離せば、何か言うだろう。そうですか、とか。
今度はその一言だけでも、確認として受け取っておくつもりだった。
相談員は目を離さなかった。
廊下の端から、点呼を知らせる放送が流れた。窓の外の運動場で、チュックのボールが塀に当たった。鉢植えの新しい葉二枚の上を、午後の日差しが傾いていった。
その間、俺は相談申請書という言葉を心の中で何度か繰り返した。相談を申請する書類。
俺は相談を申請したのではなかった。確認を申請したのだった。
そんな様式は、様式箱の三十枠のどこにもなかった。
枠のない請願は、文書になれない。
文書になれなかったものを、誰も覚えていない。
また、あの言い方だった。請願。
俺はそんな言葉を使ったことがなかった。牧師もその言葉は使わなかった。牧師はいつも申請と言った。
俺はその言葉を心の中でもう一度転がしてみた。口に馴染んだ言葉みたいに、どこにも引っかからなかった。
俺はその言葉を置いて、様式箱の空き枠二つを思った。名札の落ちた枠。
そこに挿してあった様式のどれかが、確認申請書だったのかもしれない。誰も探さなかったから、誰も埋めなかった枠。
相談員はまだあの欄を見ていた。
* * *
俺が申請事由の欄に書いた十四文字を、相談員が読み終えるまでの時間は、俺がその十四文字を書くまでの時間より長かった。
差戻しの印は、申請書の右上に押された。事由の欄には、何の印も押されなかった。




