第58話 爪で書くやり方(3)――返し縫いの月
作業場のテーブルの上に、チョコパイが七つ積んであった。
木曜の宗教集会の菓子だった。牧師が三か所の集会から集めてきたものだった。信仰はひとつでも菓子は三つ、というあの算段で、三週間ためれば七つになる。
二つは食べた、と牧師は言った。
公文が出て12日目だった。
午前の休憩時間、ショッピングバッグの山の間で牧師が賭けを始めた。
「本物・偽物当てだ。自分の話を三つしろ。ひとつは嘘だ。俺がその嘘を当てたら俺がひとつ食う。当てられなかったら、お前らがひとつ食う」
牧師はその週、定期再審査の結果を受け取っていた。
宗教的防御傾向なし。
神を五十の欄のうち五つにしか書かなかった甲斐があった。牧師は結果票を折りたたんで、胸ポケットに入れて歩き回っていた。自分の目は国家のお墨付きをもらった、と牧師は言った。
結果票のどこにも、牧師の目についての欄はなかった。
* * *
最初の勝負は、うなぎの刺青だった。
「ひとつ、これは竜だ。ふたつ、俺は高校のときシルムの選手だった。みっつ、俺はおふくろに毎週手紙を書いてる」
「ひとつ」
牧師がすぐに言った。作業場が笑いの渦になった。
うなぎの刺青は前腕をまくり上げ、元は竜だったんだと食い下がった。刺青を彫ったやつが金を半分しか受け取らなかったので、鱗も半分しか描かなかったのだという。
牧師は、じゃあ半分は本物で半分は偽物だから、半分だけ食うと言った。チョコパイを半分に割った。
うなぎの刺青は残りの半分を貰って食いながらも、納得のいかない顔をしていた。
二つ目の勝負は、チュック(足排球)の点数をいつもひとつ多く数える男だった。
その男が、三つの話のうちひとつで『俺は点数を正直に数えてる』と言った瞬間、牧師が答えるより先に、作業場じゅうが『それだ』と叫んだ。
牧師は、正解者が多すぎると勝負が成立しないと言って、チョコパイを自分で食べた。
三つ目の勝負が始まる前に、「あいさつ」が作業場の入口を通りかかった。
巡回だった。
「あいさつ」は作業場の中を覗き込んで言った。
「こんにちは」
「本物」
牧師が叫んだ。
「あいさつ」は、何のことかわからない顔で通り過ぎていった。
牧師は「あいさつ」のぶんとして、チョコパイをひとつ別に取っておいた。あとで渡すんだと言った。
誰もその言葉を信じなかった。俺も、信じなかった。
三つ目の勝負は、牧師の番だった。
勝負を始めた者も一度はやらないと公平じゃない、とうなぎの刺青が食い下がった。牧師は素直に三つ言った。
「俺は牧師だ。俺は詐欺師だ。俺は神を信じている」
誰も当てられなかった。
ひとつ目を選べば三つ目が引っかかり、三つ目を選べば二つ目が引っかかった。
点をひとつ多く数える男は三つとも嘘だと言い、うなぎの刺青は三つとも本当だと言った。
二人がそれで言い争っている間に、牧師はチョコパイをひとつ開けて食べた。当てられなかったのだから、勝負を始めた者が食べるのが規則だと言った。そんな規則は初めて聞いた。
* * *
俺の番が来た。
俺は三つ言った。考えておいたものではなかった。最初に浮かんだとおりに言った。
「俺は6年間、聖騎士だった。俺は人を殺した。俺はショッピングバッグの紐を通す穴を、一度も破ったことがない」
作業場が静かになった。
みんな牧師を見た。牧師は俺を見た。息をしながら、長く見た。
12日前まで、牧師が俺を見るときに見ていた場所は、俺の右肩だった。
今は顔を見た。顔を全部見てから、手を見た。机の上に載せてある、俺の手。
「パス」
牧師が言った。
作業場がざわめいた。牧師がパスをするのを、みんな初めて見た。パスは規則になかった。
うなぎの刺青が立ち上がった。
「三つ目が偽物じゃないか。昨日、ひとつ破るところを、俺は見たぞ」
「そうだ、三つ目だ」
あちこちで三つ目だと言った。
昨日、俺は紐を通す穴をひとつ破った。うなぎの刺青の言うとおりだった。
つまり作業場の連中の考えでは、嘘は三つ目だった。残りの二つは本当だった。
俺は6年間、聖騎士で、人を殺した。その二つの文がひとりの口から出たのに、誰もおかしいと思わなかった。三つ目だけを咎めた。
牧師は最後まで何も言わなかった。
正解が出たのだからチョコパイを出せ、という声が大きくなった。
牧師は、パスは勝負じゃないから賭け金もない、と粘った。
うなぎの刺青がチョコパイの山に手を伸ばし、牧師がその手を叩いた。
作業場担当の班長が入ってきたのは、そのときだった。
班長は卓の上のチョコパイを見た。
床に落ちた空袋を三つ見た。
そして牧師の胸ポケットに刺さった結果票を見た。
「賭博行為だ」
残ったチョコパイ四つは、すべて没収された。
牧師は、そのうち一つはあいさつの分で賭け金ではない、と主張した。
班長は没収リストの理由欄に、賭け金と書いた。
「あいさつ」は自分の分が没収されたことも知らず、その時刻には別の舎棟を回っていた。
牧師は警告書を一枚と、反省文の課題を受け取った。
初犯なので、部屋を移されることはなかった。
* * *
昼食のあと、牧師が俺に反省文を代わりに書いてくれと言った。
「君は課題をよく書くからな」
と言いながら。
俺は書いた。
本当に反省している人間のように書いた。
チョコパイを賭け金にしたこと。
正解が出たのに賭け金を出さなかったこと。
他人の手を叩いたこと。
牧師は俺の反省文を最後まで読んでから、破いた。
「本物すぎて駄目だ。反省文はほどよく偽物じゃないと通らない。本当に反省している奴は、反省文を書けない」
牧師は自分の反省文を10分で書いた。
神が二度入っていた。
五つを超えはしなかった。
俺は牧師に、さっきはなぜパスしたのかと聞いた。
牧師は、賭け金が合わなかったからだと言った。
何の賭け金だと聞いたが、牧師は反省文を畳むのに夢中だった。
* * *
午後に相談があった。
半分こルールはそのままだった。相談員は質問するときは俺を見て、俺は答えるときは鉢植えを見た。
「この前の最後の場面です。馬から降りた人」
相談員が言った。
「その人、覚えていますか?」
俺は鉢植えを見た。右の鉢植えは今週も半分生きていた。
神殿の庭を思い出した。蹄の音。司祭様が持って出た蝋燭の火。庭に敷かれた丸い石。真ん中の、すり減った石。馬から誰かが降りた。司祭様に何か言った。司祭様が蝋燭を少し持ち上げた。
「司祭様が蝋燭を持ち上げました」
「顔を見ようとしたんですか?」
「わかりません」
「その人は司祭様に何と言いましたか?」
「わかりません。そこから先はありません」
相談員は次の質問をしなかった。俺は鉢植えを見続けた。半分こだったから。
相談室は長いこと静かだった。廊下で誰かが鉄の扉を閉める音がした。窓の外の運動場からは、チュックのボールを蹴る音が聞こえた。ボールが塀に当たる音も一度した。俺以外にも、塀のほうへ蹴る人がいた。
「手を見せてください」
相談員が言った。
俺は鉢植えから目を離して、自分の手を見た。右手が机の上にあった。人差し指だけが立っていた。爪の先が机に触れていた。
相談室の机は古い無垢材だった。ニスがところどころ剥がれていた。俺の人差し指の下、ニスが残っている場所に、線が引かれていた。一本ではなかった。短い線が何本もあった。まっすぐなものもあれば、端が鉤みたいに曲がったものもあった。線と線が集まって、何かの形になっていた。文字のようだった。
俺には読めなかった。
俺が読み書きする文字ではなかった。俺が知っているどんな文字でもなかった。読もうと覗き込むほど、線は散らばった。叙任証書の文字に似ているのかもしれない。あの証書は院長の櫃の中にあって、見比べることもできない。
「読めますか?」
「いいえ」
「私もです」
相談員は引き出しから紙を一枚と鉛筆を出した。紙をその線の上に当てて、鉛筆の芯を寝かせてこすった。紙の上に線が白く浮かんだ。相談員はその紙を相談記録の一番後ろに挟んだ。それから時計を見た。
「この前、ペンを置かれたのは13分でした。今日は4分です」
「何のことです」
「手が動いていた時間です。私はそのあいだ、何も言いませんでした。止めもしませんでした。止めていいのか、分からなくて」
俺はその4分を知らない。
そのあいだ、俺は鉢植えを見ながら神殿の庭を思い出していた。俺の手は机の上で別のことをしていた。俺は自分の手を見なかった。半分こだったから。
残りの時間、相談員はその線について、それ以上は訊かなかった。
代わりに次の課題を差し出した。今回もボールペンで書くものだった。
課題9 — 最も申し訳ない人。
「今日のことは課題に書かなくていいですよ。これは私が記録します」
相談員は相談記録を閉じて、その上に手のひらを置いた。下には、鉛筆でこすり出した紙が挟まっていた。
俺は鉢植えを見た。今度は半分こだったからではない。あの机をもう見たくなかった。
* * *
爪で書くやり方は知っている。白い部屋の板で覚えた。
松の板は、木目が縦に走っていた。木目に沿って引く縦の線は、三日で溝になった。木目を横切る横の線は十日かかった。しかも、最後まで浅かった。
刑務所のベッドの合板には木目がなかった。だから一本の溝を引くのに一秒で足りた。それが俺の知っているやり方だった。
爪は木目に逆らえない。逆らえば浅くなる。
相談室の机の線は、逆だった。
木目を横切った線のほうが深かった。木目に沿って引いた線は、むしろ浅かった。木目に逆らうことに慣れた爪だった。
俺は、そんな爪を持ったことがなかった。
人差し指を立てて、爪の先を見た。爪の下には、ニスの欠片と木の粉が詰まっていた。
俺の爪だった。
* * *
その夜、俺はあの4分に名前をつけた。
俺には、記憶にない一日がある。
車のドアが閉まる音で途切れて、拘置所の天井からまた始まる一日。判決文にだけある一日。
その日、俺は人を殺した。
記憶にない出来事は、体のどこかに残るものだと言われている。人を殺した手だ。だからあの一日がこの手に残って、俺はこんなことをしている。
そう決めてしまうと、息がしやすくなった。理由のついたことは、そう怖くなかった。
寝る前に、ベッドの角に爪を当ててみた。
68本の線の隣、何もない場所に。
相談室の机のあの形を思い浮かべながら、引いてみようとした。
爪は短い縦の一画を引いて、止まった。
次の画が分からなかった。
鉤のように折れる画も、木目に逆らって深くなる画も、俺の爪からは出なかった。
わざと引けば、俺の知っている線しか引けなかった。69本目の線に見える線が、一本増えただけだ。
牧師が布団の中から訊いた。
「また線を刻んでるのか。終わったんじゃなかったのか」
「いいえ。ただ、爪がむずむずするだけです」
「爪切り、貸してやろうか」
「大丈夫です」
牧師はそれ以上訊かず、寝返りを打った。
俺は新しくできた線を、手のひらで覆った。
それから、さっきつけた名前をもう一度思い浮かべた。判決文にだけある、あの一日。
そして今日、作業場でみんなが、俺は聖騎士だったと言った。三つ目だけが偽物だと言った。
俺はその言葉を、何度も何度も思い返した。
6年のあいだ、聖騎士だった。それは本物として数えられた。
今日、あの作業場でその一文に票を入れなかったのは、パスした牧師ひとりだけだった。
牧師はもともと、他人の言葉を信じない人間だ。
俺は洗面台の前に立って、爪の下の木の粉を払った。
白い部屋で毎朝、板の粉を掃いて洗面台に捨てていたときと、同じ手つきだった。
あの頃は、刻んだ文字を俺は読むことができた。
* * *
同じ顔を九人が見た場面を、我々は以前にも一度開いたことがある。
あの日、相談室の机の線を鉛筆で写し取っていったのは、相談員だった。彼はその紙を、相談記録のいちばん後ろに挟んだ。




