↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/160

第58話 爪で書くやり方(3)――返し縫いの月

作業場のテーブルの上に、チョコパイが七つ積んであった。


木曜の宗教集会の菓子だった。牧師が三か所の集会から集めてきたものだった。信仰はひとつでも菓子は三つ、というあの算段で、三週間ためれば七つになる。


二つは食べた、と牧師は言った。


公文が出て12日目だった。


午前の休憩時間、ショッピングバッグの山の間で牧師が賭けを始めた。


「本物・偽物当てだ。自分の話を三つしろ。ひとつは嘘だ。俺がその嘘を当てたら俺がひとつ食う。当てられなかったら、お前らがひとつ食う」


牧師はその週、定期再審査の結果を受け取っていた。


宗教的防御傾向なし。


神を五十の欄のうち五つにしか書かなかった甲斐があった。牧師は結果票を折りたたんで、胸ポケットに入れて歩き回っていた。自分の目は国家のお墨付きをもらった、と牧師は言った。


結果票のどこにも、牧師の目についての欄はなかった。


* * *


最初の勝負は、うなぎの刺青だった。


「ひとつ、これは竜だ。ふたつ、俺は高校のときシルムの選手だった。みっつ、俺はおふくろに毎週手紙を書いてる」


「ひとつ」


牧師がすぐに言った。作業場が笑いの渦になった。


うなぎの刺青は前腕をまくり上げ、元は竜だったんだと食い下がった。刺青を彫ったやつが金を半分しか受け取らなかったので、鱗も半分しか描かなかったのだという。


牧師は、じゃあ半分は本物で半分は偽物だから、半分だけ食うと言った。チョコパイを半分に割った。


うなぎの刺青は残りの半分を貰って食いながらも、納得のいかない顔をしていた。


二つ目の勝負は、チュック(足排球)の点数をいつもひとつ多く数える男だった。


その男が、三つの話のうちひとつで『俺は点数を正直に数えてる』と言った瞬間、牧師が答えるより先に、作業場じゅうが『それだ』と叫んだ。


牧師は、正解者が多すぎると勝負が成立しないと言って、チョコパイを自分で食べた。


三つ目の勝負が始まる前に、「あいさつ」が作業場の入口を通りかかった。


巡回だった。


「あいさつ」は作業場の中を覗き込んで言った。


「こんにちは」


「本物」


牧師が叫んだ。


「あいさつ」は、何のことかわからない顔で通り過ぎていった。


牧師は「あいさつ」のぶんとして、チョコパイをひとつ別に取っておいた。あとで渡すんだと言った。


誰もその言葉を信じなかった。俺も、信じなかった。


三つ目の勝負は、牧師の番だった。


勝負を始めた者も一度はやらないと公平じゃない、とうなぎの刺青が食い下がった。牧師は素直に三つ言った。


「俺は牧師だ。俺は詐欺師だ。俺は神を信じている」


誰も当てられなかった。


ひとつ目を選べば三つ目が引っかかり、三つ目を選べば二つ目が引っかかった。


点をひとつ多く数える男は三つとも嘘だと言い、うなぎの刺青は三つとも本当だと言った。


二人がそれで言い争っている間に、牧師はチョコパイをひとつ開けて食べた。当てられなかったのだから、勝負を始めた者が食べるのが規則だと言った。そんな規則は初めて聞いた。


* * *


俺の番が来た。


俺は三つ言った。考えておいたものではなかった。最初に浮かんだとおりに言った。


「俺は6年間、聖騎士だった。俺は人を殺した。俺はショッピングバッグの紐を通す穴を、一度も破ったことがない」


作業場が静かになった。


みんな牧師を見た。牧師は俺を見た。息をしながら、長く見た。


12日前まで、牧師が俺を見るときに見ていた場所は、俺の右肩だった。


今は顔を見た。顔を全部見てから、手を見た。机の上に載せてある、俺の手。


「パス」


牧師が言った。


作業場がざわめいた。牧師がパスをするのを、みんな初めて見た。パスは規則になかった。


うなぎの刺青が立ち上がった。


「三つ目が偽物じゃないか。昨日、ひとつ破るところを、俺は見たぞ」


「そうだ、三つ目だ」


あちこちで三つ目だと言った。


昨日、俺は紐を通す穴をひとつ破った。うなぎの刺青の言うとおりだった。


つまり作業場の連中の考えでは、嘘は三つ目だった。残りの二つは本当だった。


俺は6年間、聖騎士で、人を殺した。その二つの文がひとりの口から出たのに、誰もおかしいと思わなかった。三つ目だけを咎めた。


牧師は最後まで何も言わなかった。


正解が出たのだからチョコパイを出せ、という声が大きくなった。


牧師は、パスは勝負じゃないから賭け金もない、と粘った。


うなぎの刺青がチョコパイの山に手を伸ばし、牧師がその手を叩いた。


作業場担当の班長が入ってきたのは、そのときだった。


班長は卓の上のチョコパイを見た。


床に落ちた空袋を三つ見た。


そして牧師の胸ポケットに刺さった結果票を見た。


「賭博行為だ」


残ったチョコパイ四つは、すべて没収された。


牧師は、そのうち一つはあいさつの分で賭け金ではない、と主張した。


班長は没収リストの理由欄に、賭け金と書いた。


「あいさつ」は自分の分が没収されたことも知らず、その時刻には別の舎棟を回っていた。


牧師は警告書を一枚と、反省文の課題を受け取った。


初犯なので、部屋を移されることはなかった。


* * *


昼食のあと、牧師が俺に反省文を代わりに書いてくれと言った。


「君は課題をよく書くからな」


と言いながら。


俺は書いた。


本当に反省している人間のように書いた。


チョコパイを賭け金にしたこと。


正解が出たのに賭け金を出さなかったこと。


他人の手を叩いたこと。


牧師は俺の反省文を最後まで読んでから、破いた。


「本物すぎて駄目だ。反省文はほどよく偽物じゃないと通らない。本当に反省している奴は、反省文を書けない」


牧師は自分の反省文を10分で書いた。


神が二度入っていた。


五つを超えはしなかった。


俺は牧師に、さっきはなぜパスしたのかと聞いた。


牧師は、賭け金が合わなかったからだと言った。


何の賭け金だと聞いたが、牧師は反省文を畳むのに夢中だった。


* * *


午後に相談があった。


半分こルールはそのままだった。相談員は質問するときは俺を見て、俺は答えるときは鉢植えを見た。


「この前の最後の場面です。馬から降りた人」


相談員が言った。


「その人、覚えていますか?」


俺は鉢植えを見た。右の鉢植えは今週も半分生きていた。


神殿の庭を思い出した。蹄の音。司祭様が持って出た蝋燭の火。庭に敷かれた丸い石。真ん中の、すり減った石。馬から誰かが降りた。司祭様に何か言った。司祭様が蝋燭を少し持ち上げた。


「司祭様が蝋燭を持ち上げました」


「顔を見ようとしたんですか?」


「わかりません」


「その人は司祭様に何と言いましたか?」


「わかりません。そこから先はありません」


相談員は次の質問をしなかった。俺は鉢植えを見続けた。半分こだったから。


相談室は長いこと静かだった。廊下で誰かが鉄の扉を閉める音がした。窓の外の運動場からは、チュックのボールを蹴る音が聞こえた。ボールが塀に当たる音も一度した。俺以外にも、塀のほうへ蹴る人がいた。


「手を見せてください」


相談員が言った。


俺は鉢植えから目を離して、自分の手を見た。右手が机の上にあった。人差し指だけが立っていた。爪の先が机に触れていた。


相談室の机は古い無垢材だった。ニスがところどころ剥がれていた。俺の人差し指の下、ニスが残っている場所に、線が引かれていた。一本ではなかった。短い線が何本もあった。まっすぐなものもあれば、端が鉤みたいに曲がったものもあった。線と線が集まって、何かの形になっていた。文字のようだった。


俺には読めなかった。


俺が読み書きする文字ではなかった。俺が知っているどんな文字でもなかった。読もうと覗き込むほど、線は散らばった。叙任証書の文字に似ているのかもしれない。あの証書は院長の櫃の中にあって、見比べることもできない。


「読めますか?」


「いいえ」


「私もです」


相談員は引き出しから紙を一枚と鉛筆を出した。紙をその線の上に当てて、鉛筆の芯を寝かせてこすった。紙の上に線が白く浮かんだ。相談員はその紙を相談記録の一番後ろに挟んだ。それから時計を見た。


「この前、ペンを置かれたのは13分でした。今日は4分です」


「何のことです」


「手が動いていた時間です。私はそのあいだ、何も言いませんでした。止めもしませんでした。止めていいのか、分からなくて」


俺はその4分を知らない。


そのあいだ、俺は鉢植えを見ながら神殿の庭を思い出していた。俺の手は机の上で別のことをしていた。俺は自分の手を見なかった。半分こだったから。


残りの時間、相談員はその線について、それ以上は訊かなかった。


代わりに次の課題を差し出した。今回もボールペンで書くものだった。


課題9 — 最も申し訳ない人。


「今日のことは課題に書かなくていいですよ。これは私が記録します」


相談員は相談記録を閉じて、その上に手のひらを置いた。下には、鉛筆でこすり出した紙が挟まっていた。


俺は鉢植えを見た。今度は半分こだったからではない。あの机をもう見たくなかった。


* * *


爪で書くやり方は知っている。白い部屋の板で覚えた。


松の板は、木目が縦に走っていた。木目に沿って引く縦の線は、三日で溝になった。木目を横切る横の線は十日かかった。しかも、最後まで浅かった。


刑務所のベッドの合板には木目がなかった。だから一本の溝を引くのに一秒で足りた。それが俺の知っているやり方だった。


爪は木目に逆らえない。逆らえば浅くなる。


相談室の机の線は、逆だった。


木目を横切った線のほうが深かった。木目に沿って引いた線は、むしろ浅かった。木目に逆らうことに慣れた爪だった。


俺は、そんな爪を持ったことがなかった。


人差し指を立てて、爪の先を見た。爪の下には、ニスの欠片と木の粉が詰まっていた。


俺の爪だった。


* * *


その夜、俺はあの4分に名前をつけた。


俺には、記憶にない一日がある。


車のドアが閉まる音で途切れて、拘置所の天井からまた始まる一日。判決文にだけある一日。


その日、俺は人を殺した。


記憶にない出来事は、体のどこかに残るものだと言われている。人を殺した手だ。だからあの一日がこの手に残って、俺はこんなことをしている。


そう決めてしまうと、息がしやすくなった。理由のついたことは、そう怖くなかった。


寝る前に、ベッドの角に爪を当ててみた。


68本の線の隣、何もない場所に。


相談室の机のあの形を思い浮かべながら、引いてみようとした。


爪は短い縦の一画を引いて、止まった。


次の画が分からなかった。


鉤のように折れる画も、木目に逆らって深くなる画も、俺の爪からは出なかった。


わざと引けば、俺の知っている線しか引けなかった。69本目の線に見える線が、一本増えただけだ。


牧師が布団の中から訊いた。


「また線を刻んでるのか。終わったんじゃなかったのか」


「いいえ。ただ、爪がむずむずするだけです」


「爪切り、貸してやろうか」


「大丈夫です」


牧師はそれ以上訊かず、寝返りを打った。


俺は新しくできた線を、手のひらで覆った。


それから、さっきつけた名前をもう一度思い浮かべた。判決文にだけある、あの一日。


そして今日、作業場でみんなが、俺は聖騎士だったと言った。三つ目だけが偽物だと言った。


俺はその言葉を、何度も何度も思い返した。


6年のあいだ、聖騎士だった。それは本物として数えられた。


今日、あの作業場でその一文に票を入れなかったのは、パスした牧師ひとりだけだった。


牧師はもともと、他人の言葉を信じない人間だ。


俺は洗面台の前に立って、爪の下の木の粉を払った。


白い部屋で毎朝、板の粉を掃いて洗面台に捨てていたときと、同じ手つきだった。


あの頃は、刻んだ文字を俺は読むことができた。


* * *


同じ顔を九人が見た場面を、我々は以前にも一度開いたことがある。


あの日、相談室の机の線を鉛筆で写し取っていったのは、相談員だった。彼はその紙を、相談記録のいちばん後ろに挟んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。