第57話 爪で書くやり方(2)――返し縫いの月
管理番号KR-07 矯正相談記録
課題8 — 最後に交わした言葉
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今週、管理局から郵便が届きました。封筒の中にアンケート用紙が一枚入っていました。タイトルは「帰還者日常復帰実態調査」でした。
設問は十二問で、どの設問にも五つの欄がありました。「まったくそう思わない」から「非常にそう思う」まで。
最初の設問はこうでした。「この一週間、他人があなたを見るとき、息を止めなかった」。私は「非常にそう思う」に印をつけました。
二番目の設問は「あなたは他人の視線に不快感を覚える」でした。私はこの設問で長く悩みました。
最近の人たちは、私を迷惑そうな目で見ます。それが不快ではないから、不快です。
欄は五つしかないので、そんな答えが入る場所はありませんでした。「どちらでもない」に印をつけました。
七番目の設問は「あなたは帰還前の能力を現在も使える」でした。「まったくそう思わない」に印をつけました。その欄には、一番早く印をつけました。
最後の十二番目の設問は、欄ではなく空行でした。「本調査についての意見を自由に記入せよ」。
私は、欄が五つしかないのが残念だと書きました。それが、私の意見のすべてでした。
同室のご老人は、そのアンケートを長いことうらやんでいました。国が自分の満足度を尋ねてきたことなど、六十年の生涯で一度もない、と言いました。
ご老人は白い紙にアンケートの欄をそのまま描いて、自分のものを作りました。十二問すべて、「非常にそう思う」に印をつけました。
送る先はありませんでした。ご老人はその紙を図書室の聖書の見返しに挟んでおきました。
返却のときに抜くのを忘れたら、次の人がご老人の満足度を知ることになるでしょう。
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管理局のアンケートの写しは、相談室にも届いた。二番目の設問は「どちらでもない」。
彼は「不快ではないから不快だ」という答えを、欄の外には書かなかった。課題にだけ書いた。
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最後に交わした言葉を書けと言われました。
孤児院を出た日の夜、神殿で司祭様と交わした言葉を書きます。
峠を越えるのに、一日かかりました。
司祭様は先を歩き、私は蜜蝋の束を背負って後をついて行きました。神殿で使う蝋燭を作るための蜜蝋でした。
峠の頂に登り切るまで、私は後ろを振り返りませんでした。振り返れば、また下りてしまいそうでした。
峠を越えてしまえば、もう振り返る理由もありません。そこから先は、何も見えないからです。
真昼に、泉のそばで休みました。
司祭様が包みからパンを二つ取り出しました。院長が包んでくれたパンでした。
一つは端が少し焦げていて、もう一つはきれいなままでした。
司祭様はきれいな方を私にくださいました。焦げた方は、院長があらかじめ司祭様の分と決めておいたのでした。
私は、自分が食べるパンに院長が何を書きつけておいたのだろうと考えました。ですが、どう考えても、院長はあの日、帳簿を開かなかったのではないかと思いました。
泉から見下ろせる大きな道には、槍を逆さまに担いだ人たちが、列になって歩いていました。
戦争から帰ってくる人たちだ、と司祭様が教えてくださいました。
みんな、うつむいて歩いていました。何人かは、足を引きずっていました。
勝った人たちなのか、負けた人たちなのか、歩き方だけでは分かりませんでした。
私は訊ねませんでした。その人たちも、家へ帰る道の途中でした。
司祭様は、道中ずっとよく話してくださいました。ふだんは口数の少ない方でした。
蝋燭の作り方を教えていただきました。
蜜蝋は熱くしすぎて溶かすと蝋燭が曲がるのだと。芯は、あらかじめ一度蜜蝋に浸しておかねばならないのだと。
私はその話を、全部聞きました。
それきり、蝋燭を作ることは一度もありませんでした。司祭様も、それをご存じだったのでしょう。
分かっていてしてくださった話でした。私が泣く声を覆い隠すための話でした。
日が暮れるころ、司祭様が打ち明けてくださったことも、一つあります。
子どもたちが6年のあいだ、片方の眉だけを上げる練習をしていたこと。あれは、もともとできないことなのだ、と。
司祭様ご自身の眉は、傷痕のせいでああなったのであって、練習でそうなったのではありませんでした。それを子どもたちにできないと言ってやれなくて、6年ものあいだ、心にかかっていた、とおっしゃいました。
私は、峠道で初めて笑いました。
司祭様も笑いました。右の眉だけが、上がりました。
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峠の頂で振り返らなかった、と書いた。振り返らなかった理由も書いた。
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神殿は、大きな村の真ん中にありました。
孤児院より小さかったのです。石で建てた建物が一つと、庭が一つ。それで全部でした。
司祭様は庭を指さして、明日の朝はあそこで行うとおっしゃいました。
何をするのかは、おっしゃいませんでした。私も、お尋ねしませんでした。
庭には、平たい石が丸く敷き詰められていました。真ん中の石だけが、ひときわ擦り減っていました。
人が長く立っていた場所のように、くぼんでいました。
大きな村の子たちが、司祭様を見て駆けてきました。孤児院の子たちと同じように、司祭様の袖を掴みました。
袖は、ここでも二つありました。
子たちは、私を見ると近寄ってきませんでした。鎧のない私は、ただの背の高い大人でした。
しがみつく所のない大人には、子どもは寄ってきません。
夕食の前に、司祭様は明日使う蝋燭をお作りになりました。
峠道で教えていただいたとおりに、蜜蝋を溶かして、芯を浸しました。
私にも、一つ作ってみるようにとおっしゃいました。
私は蜜蝋を熱くしすぎて溶かしました。私の蝋燭は、曲がりました。
司祭様は、曲がった蝋燭をしばらく見つめてから、明日はこれを使おうとおっしゃいました。
まっすぐな蝋燭は神殿に残して、曲がった蝋燭を持って行くのだとおっしゃいました。理由は、おっしゃいませんでした。
私が作った蝋燭だからでしょう。あるいは、曲がった蝋燭でも火は同じように灯ると、見せてくださりたかったのかもしれません。
夕食は、司祭様が用意してくださいました。麦粥でした。
底が焦げていました。
司祭様の手はいつも温かかったのに、粥を温める腕前は、そうではありませんでした。
司祭様は、焦げ臭い粥を召し上がりながら、神殿ではもともとこうやって食べるのだとおっしゃいました。
院長の台所で6年食べてきた私は、その言葉が嘘だと知っていました。
院長はご飯を少なめにしかくださいませんでしたが、焦がしはしませんでした。
私はその粥を全部食べました。器の底の焦げまで、こそげて食べました。
孤児院で身についた癖でした。
食事のあと、司祭様は告解をお聞きになりました。最後の告解でした。
何を告解したのかは、今回も書きません。
告解が終わると、司祭様は私の額に手を置きました。叙任式のときのように。季節ごとに、そうしてくださっていたときのように。
手は、温かでした。
その温度は、今回も、額から首へ、肩へ、指先へと下りていきました。
手を離して、司祭様がおっしゃいました。
帰ったら、その手ができることは、少しずつ忘れていくのだと。
ここで受け取ったものはここに置いていくものだから。だから、寂しく思わないように、と。
私はそのお言葉の意味を、そのときは分かりませんでした。
今は、分かります。3か月かかりました。
鏡を割った手が治らなかった日、私は神殿でのあの夜を思い出しました。
司祭様は寂しく思わないようにとおっしゃったのに、私は寂しかったのです。
そして、司祭様はもう一つお尋ねになりました。子どもたちに、別れを告げられなかったでしょう、と。
私がうなずくと、司祭様は、次の季節に孤児院へ行ったら、子どもたちの額に手を当てて、あなたに代わって伝えてくださるとおっしゃいました。
いちばん小さな子には、兜を二度叩くことで伝えよう、と。
その合図をどうしてご存じだったのか、私には分かりません。
司祭様は、子どもたちのことに関しては、知らないことがない方でした。
司祭様は私の手をもう一度握って、6年のあいだ、塀の上から何を見ていたのかとお尋ねになりました。
はしごの下で数を数えていた子がしていた質問と同じでした。
あの子には、答えなかった質問でした。
私は、司祭様にはお答えしました。端だけを見ていました。あれらは、いつも松明のすぐ外側にいました。
司祭様はうなずかれました。そして、あの子にもそう答えてやればよかったのにな、とおっしゃいました。
叱る声ではありませんでした。だから、余計に痛みました。
あの子がその答えを聞いていたら、倉庫の穴から出て行かなかったかもしれません。
端しか見えないと分かっていたなら、自分で見に行く必要はなかったはずですから。
私はそのことを、4年のあいだ考えないようにしていたのに、あの夜、神殿で考えてしまいました。
司祭様は、私がその考えを最後まで考え終えるまで、手を離しませんでした。
司祭様は、次の季節に孤児院へ行かれたはずです。そう約束なさったのですから。
6年のあいだ、司祭様は、来てくださるとおっしゃった季節を一度も欠かしませんでした。
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告解の内容は、今回もない。額に手を置いた、という一文だけがある。
司祭が代わりに別れを伝えてくれたのだろう、と書いた。確認した文ではない。
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この最後の章は、相談室で書いています。
部屋では、三度ここまで来て、三度とも止まりました。止まった場所は、三度とも同じでした。
それで、先生に、相談室で続きを書いてもよいかと伺いました。
相談室で課題を書くには、相談室使用申請書を出さなければならないと、そのとき知りました。
使用目的の欄には「課題作成」と書き、理由の欄には「部屋では最後まで書けなかったので」と書きました。
先生はその申請書を決裁してくださいました。
相談室で書いて、相談室で決裁された書類なので、その申請書は一度も相談室の外へ出ませんでした。
先生の前で書けば、最後まで書けるような気がしました。
先生は鉢植えをご覧になり、私はノートを見ます。半々です。
同室のご老人は、私が相談室で課題を書くと聞いて、ついて行くと言いました。相談室は暖房が入るのだそうです。
筆記補助として、申請書に自分の名前を入れてくれ、とも言いました。
ボールペン一本で書く課題に補助がなぜ必要なのかと伺うと、ボールペンが落ちたら拾ってやる人が必要だ、と言いました。
先生は、その様式には同行者の欄がない、とおっしゃいました。
ご老人はその日の晩、欄がなくて負けたのは六十年生きてきて初めてだ、と口惜しがっていました。
ご老人は、いつも欄がないところで勝ってきた人です。祈りみたいに。
床につく前に、司祭様は明日の仕事について短く話してくださいました。
何もしなくていい、とおっしゃいました。
庭に立っているだけで、あとはご自分がなさる、とおっしゃいました。
私の仕事は、立っていることだけでした。
6年間、塀の上でやっていたことでした。
その夜、私は神殿の長椅子で寝ました。椅子が短くて、足が外にはみ出しました。
司祭様は、ご自分の毛布をかけてくださいました。蜜蝋の匂いのする毛布でした。
眠れなかったので、私は天井を見ました。神殿の天井には、煤がたくさんついていました。
長いあいだ、蝋燭を灯してきた天井でした。
司祭様の部屋の方からは、遅くまで蜜蝋の匂いがしていました。
曲がった蝋燭は、司祭様の机の上に寝かせてありました。立てておけば、倒れてしまいそうだったからでしょう。
夜が更けて、神殿の庭に馬の蹄の音がしました。司祭様は蝋燭を持って、外へ出て行かれました。
私は窓から庭を見ました。
馬から降りた人が、司祭様に
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ここでペンを置いた。13分。
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彼は、司祭が次の季節に孤児院へ行ったのだろう、と書いた。そう約束したから、と。
神殿の長椅子で、彼は足を外へ出して寝た。
その足が、その夜どれほど長く椅子の外にあったのかは、書かなかった。




