第55話 救ったものと埋めたもの(3)――並縫いの月
紙には、尻尾を切られた文が五十個並んでいた。
俺は子どものころ ________。
俺がいちばん得意なことは ________。
俺がいちばん恐れているものは ________。
他人は俺を ________。
文章完成検査というのだそうだ。一般収容者に切り替わると、分類審査を最初から受け直すことになる。それに入っている検査だった。
前半は印刷されていて、後半は俺が埋める。五十個を一時間で。
監督官は始める前に、深く考えるな、最初に浮かんだ言葉を書けと言った。
この国の書類が、最初に浮かんだ言葉をよこせと言ってきたのは初めてだった。これまで受けた書類は、俺が最初に思い浮かべた言葉を全部、差し戻してきたのに。
寝台の縁の刻み目は、六十八で止まったままだった。その後、朝が三度過ぎた。
三度とも、「あいさつ」は配膳口の向こうから「こんにちは」と言った。最初の朝は答えられなかった。次の二度は答えた。今朝は、声があまり割れなかった。
名札にはもう俺の写真が貼ってある。二か月以上、白い紙が貼られていた場所だ。だから通る者はみんな覗き込んだ。写真を見て、部屋の中の俺を見て、また写真を見た。
同じ舎棟の者どうしで、写真のほうがいいという側が二人、実物のほうがいいという側が一人に割れた。
牧師はその投票で棄権した。同じ部屋の者が票を入れたら公正じゃない、と言った。本当は、どちらがいいのか分からなかったのだろう。
牧師は二か月以上、俺の右肩しか見ていなかった。息をしながら俺の顔を見るようになって、今日で三日目だった。
検査室には、俺を入れて七人が座っていた。誰も息を止めなかった。
監督官は俺の顔を一度見て、時計を見た。時計のほうを、長く見た。
* * *
牧師も定期再審査の順番で、同じ検査室にいた。
牧師はこの検査を七回受けていた。刑務所を移されるたびに受けさせられたので、五十の文は全部暗記してしまった、と言った。
開始の合図が落ちると、牧師は十分で五十欄を埋めて、腕を組んだ。
休憩時間に、牧師は自分の答えをいくつか教えてくれた。
「俺の父は」
「何と書いたんですか」
「神だ。俺が最も恐れているものは、神の審判である。他の人々は俺を、牧師と呼ぶ」
三つのうち、事実だったのは最後の一つだけだった。
牧師は、最初の二つの刑務所では五十欄を全部「神」で埋めたと言った。三つ目の刑務所で、結果票に「宗教的防御傾向」という判定が捺された。それからは、十欄に一つだけ神を入れる。五十欄で五つ。判定が捺されない線はそこだ、と。
その線を探すのに、牧師は刑務所を四つ使った。
「信仰にも定量がある」
「五つなら信仰なんですか」
「五つまでは信仰、六つからは防御だ」
俺は四十九欄をすぐに埋めた。
最初に浮かぶ言葉は、たいていあっちの言葉だった。
俺が一番得意なのは、塀の上で朝を待つこと。
俺が一番恐れているのは、子どもたちが呼んでいるのに、降りていけないこと。
ボールペンは欄から欄へ、止まらずに滑っていった。十五分もかからなかった。
残ったのは一欄だった。
他の人々は、私を____。
最初に浮かんだ言葉があった。あまりに早く浮かんだので、ペン先が欄に触れるより先に、手が止まった。俺の字では一度も書いたことのない言葉だった。他人の字で九度書かれた言葉だった。
俺はその欄を空けたまま、残りの四十五分を座って過ごした。
監督官は答案を回収しながら、空欄を指で突いた。未記入の項目には、欄の下に理由を書けと言った。理由の欄は一行だった。
俺はその行に書いた。
他人の言葉なので。
監督官は理由を読むと、何も言わずに答案を持っていった。差戻しはしなかった。最初に浮かぶ言葉を出せという書類なので、理由も最初に浮かんだまま受け取るようだった。
* * *
午後に相談があった。転換書類の相談回数の欄には、週に2回と書いてあった。相談員の字だった。
* * *
相談室の椅子が回されていた。窓の側ではなく、机の側だった。相談員は机の前に座っていた。
「座ってください。今日からはこちらを見て話しますね」
俺は座った。相談員は俺を見た。丸眼鏡の向こうの目は、思っていたより小さかった。70日のあいだ、俺は彼の横顔しか見ていなかった。正面から見ると、横から見るときより疲れて見えた。彼は息をした。俺も息をした。そうして10秒ほど経った。
そして、二人とも鉢植えを見た。
どちらが先だったのかは分からない。70日のあいだ、鉢植えを見ながら話していた者と、その横顔を見ながら答えていた者だった。公文は解けたのに、癖は解けなかった。右の鉢植えは相変わらず半分枯れていた。
「不思議ですね。こちらのほうが楽です」
相談員が鉢植えを見たまま言った。
「俺もです」
「では半分ずつにしましょうか。質問は私が顔を見てします。答えは鉢植えを見てください」
そうした。彼は質問のたびに顔を巡らせて俺を見て、俺は答えるたびに鉢植えを見た。扉の外から誰かが覗いたなら、鉢植えに相談されている収容者に見えたことだろう。
「この前の課題、読みました。はしごの下で数字を数えていた子」
「はい」
「相談記録には、回ごとに主題を一行ずつ書くことになっています。今回はこう書きました」
彼は記録紙を手に取って読んだ。
「救ったものと埋めたもの」
俺は鉢植えを見た。その題が間違っているとは言えなかった。
「午前に検査を受けましたね。結果票の写しがもう届いています。49の欄のほとんどが、あっちの話でした。空いていたのは1つだけです」
彼は結果票をめくって、その欄を探した。そして声に出して読んだ。
「他の人々は、私を。未記入。理由、他人の言葉なので」
誰かが俺の紙を声に出して読むのは久しぶりだった。最後がいつだったかは、覚えていた。
* * *
帰還して3か月目になる日だった。
白い部屋で、俺は書類を読んでくれと頼んだ。職員たちが書いた経緯書だった。俺を見て驚いた人たちが、驚いた経緯を書いた紙。紙ごとに、一番下に一つだけ欄があった。目撃対象陳述。その欄に何が書かれているのか、あの建物で俺だけが知らなかった。俺は知る権利があると言った。その言葉は正しいと信じていた。あっちで俺は、正しいかどうかを問う人間だった。そんな人間が、自分について書かれたものを知らないままでいられるはずがなかった。
声が十二枚を読んだ。低くて、角のない声だった。一枚読んではめくり、次の一枚を読んだ。一枚も飛ばさなかった。俺がやめろと言っても、あの声は飛ばさなかっただろう。俺はやめろとは言わなかった。読み終えるまでに20分かかった。
一番下の欄の字は、紙ごとに違っていたのだろう。声はその十二人分の字を、一枚ずつ、同じ声に置き換えて読んだ。そうして、同じ言葉がまた出てきた。めくるたびに、また出てくると思った。そしてだいたいは、出てきた。全部聞いてから数えると、九枚だった。子供を食う怪物。
残りの三枚に何が書かれていたかは覚えていない。あの声は三枚も、同じように角なく読んだのだろう。俺は九枚を救い出し、三枚はあの部屋に埋めた。救ったものと埋めたもの。相談員がつけた題は、あの部屋にも当てはまった。ただ、あの部屋で俺が救い出したほうは、救う値打ちのあるものではなかった。
全部聞き終えてから、俺は笑った。これは何の冗談だ、と訊いた気がする。部屋に戻って、洗面台の鏡を割った。手は治らなかった。俺が知っている順序は、そこまでだ。
* * *
「十二枚のうち、九枚が同じでした」
俺は鉢植えを見ながら言った。
「何と書いてあったんですか」
相談員は俺を見ながら訊いた。約束どおりに。
「それは言いません」
「そうですか」
彼はそれ以上、訊かなかった。結果票の空欄の横に、何か書き足した。何を書いたのかは見なかった。他人が俺について書くものを見ないのには、慣れていた。
「九なら、多いんですか」
「分かりません」
そう答えてから、一つ思い出した。経緯書より先に聞いた言葉だった。帰還して最初の週、管理局で説明を受けた。人が俺を見ると、なぜ息を止めるのか。何に見えるかは、見る人によって違うと言われた。その人が一生で一番恐れたもの、あるいは一番憎んだものに見えるのだ、と。
俺はそのとき、その話を聞いて頷いた。あっちでも、子供によって怖いものは違った。ある子は闇を怖がり、ある子は井戸を怖がり、大半は院長を怖がった。人によって違うというのは、おかしな話ではなかった。
俺は結果票に目を移した。50の半端な文のうち、一つがそこにあった。
私が一番恐れているものは________。
今朝、あの検査室で七人がこの欄を埋めた。牧師は「神の裁き」と書き、俺は「子供たちが呼んでいるのに、降りていけないこと」と書いた。
残りの五人が何を書いたかは知らない。それでも、七つの欄が全部同じではないことだけは分かる。最初に浮かぶ言葉は人によって違う。だからこんな検査がある。
ところが、十二人のうち九人が同じ言葉を書いた。一生で最も恐れたものが、九人から同じように出てきた。しかも、初めて会う人間の顔から。
俺はそこでその考えを止めた。止め方は知っている。6年の間、壁の上で森の向こうを考えなかった。
代わりに、分かっていることを数えた。
俺は6年の間、壁の上に立っていた。子供を40人ほど助けた。崩れた壁の前で、日が昇るまで持ちこたえた。庭で叙任を受け、その証書は院長の櫃にある。司祭が季節ごとに俺の額に手を置いてくれた。
一つ数えるごとに、指を一本ずつ折った。指が足りなくなるほど数えてから、鉢植えがまた見えた。
「次の課題です」
相談員が紙を差し出した。鉢植えではなく、俺を見ながら。
課題6 — 共に働いた人々。
「作成要領が一行増えました。今期からだそうです」
俺は紙を受け取った。受け取りながら鉢植えを見た。半々と言っていたから。
* * *
その夜、牧師は早く横になった。午前に50の欄を埋め、午後は作業場で祈りをたくさんしたので疲れた、と言った。
牧師は目を閉じる前に、一度こちらの方を見た。
「お前、あの空欄のせいで再検査になるかもしれないぞ。そしたら、ただの善人だと書け。それが一番、判定に引っかからない」
「それは他人の言葉じゃないですか」
「全部他人の言葉だ。人が自分の言葉で埋められる欄は、名前欄しかない」
そう言って、いびきをかいた。
牧師がいびきをかいている間、俺はあの空欄をまた思い出していた。
他の人たちは、俺のことを。
今日、この舎棟には、あの欄を代わりに埋めてくれる人がたくさんいた。あいさつなら「こんにちは」と書くだろう。チュックのチームなら「空振り」と書くだろう。相談員なら「鉢植え」と書くかもしれない。
三日で、あの欄に入る言葉はそれだけ増えた。どれも違う言葉だった。
俺は寝台に横になって天井を見た。廊下の灯りの光が配膳口の隙間から入ってきて、天井に細い線を引いた。
白い部屋では、板の下に横になった。板に向かって話しかけても、板は答えなかった。それが板の良いところだった。天井も答えないだろう。
俺は天井に向かって言った。
「怪物は人によって違って見えるって言うのに。なぜ九人が同じものを見たんだ?」
* * *
その日、彼が空けたままにした欄は、50のうちの一つだった。残りの49は、15分もかからずに埋まった。
空欄一つを前に、彼は45分、座っていた。




