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第52話 聖騎(3)――仕付けの月

寝台の角に、爪で刻んだ傷が六十五本あった。


一日に一本。入所した日から刻んだ。寝台は鉄の枠に合板を載せただけの作りで、合板の角は爪がよく食った。松の板より楽だった。縦線を一本引くのに三日もかからない。一秒で足りた。


六十五本目の傷を刻んだ夜、牧師が布団の中から訊いてきた。


「明日か?」


「明日です」


「明日の朝、お前をまっすぐ見てやる。息を止めずにな。三秒損した分、取り返す」


「その三秒は、誰かに借りられたわけじゃないでしょう」


「だから取り返すのが余計に難しいんだよ」


その夜はほとんど眠れなかった。夜明けに目が覚めた。奴らが降りてくる時間だった。手が先に枕元を探った。松明の代わりに、廊下の灯りがついていた。


* * *


六十六日目の朝、配膳口が開いた。


食器が入ってきた。手がひとつ、盆を押した。手首から上は見えなかった。配膳口の向こうで、息が途切れていた。盆を押し、蓋を閉め、廊下の奥で大きく息を吐いた。昨日と同じだった。


牧師は約束どおり、俺をまっすぐ見た。そして息を止めた。三秒ではなく、五秒だった。


「おい、なんだこれ。損が増えてるじゃねえか」


「俺にも分かりません」


「公文には六十五日って書いてあったろうが」


公文に日付はなかった。残り期間とだけ書いてあった。六十五日は俺が数えた数字だった。管理局で最初に聞いた言葉を、俺が日付に置き換えた。およそ一年。俺はその前の「およそ」を削って数えた。


なのに、この刑務所は俺の数字を使っていた。


九時になると、行政の事務員が房の前に来て、名札の白い紙をはがした。写真省略が落ちた場所に、俺の収容写真が貼られた。事務員は写真を貼りながら写真を見た。写真は息を止めさせなかった。事務員は満足した顔で帰っていった。十時には運動の時間割が変わった。単独が消され、一般が書き込まれた。一般収容者転換。公文の最後の条項が執行された。転換には書類がついてきた。一般収容者分類審査表。その中の、収容前の職業欄があった。欄はシステム上、二文字までしか入らなかった。相談員が相談記録を見て、その欄を埋めた。聖騎士。三文字だった。システムは最後の一文字を切った。分類審査の担当はその欄を見て、俺の処遇等級を再検討対象に上げた。日付は刑務所が数えた。帰還の日からちょうど一年。行政は「およそ」を知らない。


運動場で、三十人が同時に息を止めた。


俺は運動場の端を一周した。俺が通る先々で、人が順番に固まっていった。縄跳びをしていた者は縄に引っかかり、チュックをしていた者たちは、転がっていくボールを誰も追わなかった。ひとりは長く我慢しすぎて、その場にしゃがみ込み、荒い息を吐いた。職員がホイッスルを吹いた。ホイッスルも息がなければ吹けないので、音は途中で切れた。


午後、訂正公文が下りてきた。


残余期間の算定について確認中。確認まで、従来の処遇を維持。


事務員がまた来て、俺の写真の上に白い紙を貼った。今度は、写真を見ずに貼った。テープは曲がっていた。


俺は一日だけ、写真のある人間だった。また、写真のない人間に戻った。


* * *


六十七日目の朝も、同じだった。六十八日目の朝も。


その二日間、俺は寝台の角に線を刻まなかった。数える理由が分からなかった。終わる日を知らない数字は、数字ではなかった。ただの線だった。


牧師はその二日間、よく喋った。


「およそ」という言葉がつけば、それは法ではなく予言だと言った。予言は、当たるまで待つのが原則だと言った。自分はその原則で三十年、食ってきたと言った。


そして夕方、カップ麺に湯を注ぎながら、独り言のように言った。


「でもな、当たらない予言もある。俺はそういうのをたくさん売った」


* * *


六十八日目の午後には、相談があった。


相談員はその日も、鉢植えを見て座っていた。公文がまだ有効だったからだ。


彼は訂正公文の話をもう知っていた。鉢植えを見ながら言った。


「分類審査表の件、聞きましたよね。職業欄の」


「聞きました」


「その理由を突き止めるのに、一日かかりました。返信を書くのに、もう一日。理由欄にはこう書きました。誤記にあらず。漢字併記を要請」


彼は鉢植えを見たまま、書類を一枚、俺のほうへ押し出した。手だけ動かして。


職業欄には、相変わらず二文字だけが打たれていた。その隣の備考欄に、ボールペンで括弧がひとつ書き足されていた。


聖騎(せいき)。


「欄が二文字なので、漢字は備考に手で書きました。漢字を入れると、みんな静かになりました。漢字は強いんです」


「俺はその漢字が書けません」


「私もです。調べて、写しました」


「六十五日と数えたそうですね」


「数えました」


「そうですか。では、それは誰の数字でしょう」


「俺の数字です。俺が数えたので」


「刑務所も同じ数字を数えました。管理局は数えていません。『およそ』とだけ言いました。私は数字が三つだと思っていたのですが、聞いてみれば二つですね。数える側と、数えない側」


彼は指先で右の鉢植えに触れた。今度は、葉が落ちなかった。いい兆候だ、と彼は言った。


俺は、あの鉢植えがこの一週間、一度も水をもらっていないと知っていた。相談員が数字を数えるのに忙しかったからだ。


房に戻って職業欄の話をすると、牧師はしばらく笑って、あれは自分が書いても差戻しだと言った。


その夜、俺は牧師の言葉にも、相談員の言葉にも答えなかった。代わりに、手を見た。


手の甲に、白い線が三本あった。


その線ができた日も、俺は日付を数えていた。三か月目だった。その日は、日付が合っていた。


* * *


六十九日目の朝、配膳口が開いた。


食器が入ってきた。片手が食器を押した。手の甲に皺の多い手だった。


入所した日に俺の収容事由書を差し戻した、あの手だった。温かい手。


そして、配膳口の向こうから声がした。


「こんにちは」


短くはなかった。息を止めて言う言葉は、語尾が切れる。一年のあいだ、俺は語尾の切れた言葉しか聞いてこなかった。その言葉は、最後まであった。こんにちは、の『は』が配膳口の蓋に触れて、それから房の中まで入ってきた。


俺は答えられなかった。配膳口の向こうの人は、返事を待たなかった。食器を押し込んで、蓋を閉めた。そして廊下を歩いていった。


俺は配膳口に耳を当てた。廊下の向こうから、大きく息を吐き出す音はしなかった。吐き出す必要がなかったからだ。あの人は最初から息をしていた。足音の合間に、息の音が聞こえた。ただの息の音。歩いている人がしている、呼吸。


俺は食器の前に座って泣いた。


* * *


その日は、一日中泣いた。


泣こうと思って泣いたわけではなかった。止まらなかった。


朝飯を食いながら泣いた。汁に涙が落ちたが、汁はもともと塩辛かったので、味は変わらなかった。


牧師はその朝、息を止めなかった。俺をまっすぐ見て、息をして、それから言った。


「なんだよ。ただのおっさんじゃねえか」


そう言って、俺の汁を持っていった。泣く人間は汁が飲めないのだと。それは正しかった。


作業場でも泣いた。ショッピングバッグに手提げの紐を通しながら泣いた。涙が落ちたショッピングバッグが十一個、不良で抜かれた。紙が泣いたせいで商標が滲んだ、と班長が言った。


班長は不良事由の欄に何を書くべきかしばらく悩んだ末に、水分と書いた。その日、俺の手は初めて四百個に届かなかった。


班長は俺を見た。息をしながら。


怯えた目ではなかった。面倒くさそうな目だった。


不良を十一枚、数え直さなければならない人の目。他の看守たちも同じだった。


その日から、人は俺をそういう目で見るようになった。俺はその面倒くさそうな目が有り難くて、また泣いた。


午後には管理局の確認公文が来て、名札の白い紙がまた落ちた。今度は、誰も息を止めなかった。


あっちには規則があった。子供たちの前で泣かないこと。


6年、守った。


こっちには子供たちがいなかった。だからあの日、俺は6年分を一度に泣いた。


その計算が合っているのかは分からない。ただ、そうなった。


昼時分に部屋へ戻って、寝台の角を見た。


傷は六十五本で止まっていた。


俺はその隣に三本足した。六十六、六十七、六十八。


爪が合板を引っ掻く音がした。鼠が壁を引っ掻く音に似ていた。


そして六十九本目の傷は付けなかった。終わった日は数えないことにした。数えてしまうと、ほかの数字まで一緒に数えてしまいそうだった。


* * *


夕方の配膳は、魚フライだった。


牧師は俺のトレイから魚フライをつまみ上げながら、泣いている人間は魚の匂いを嗅ぐと余計に泣くんだと言った。


前回の課題を読んで、知った事実なんだそうだ。


俺は反論しなかった。魚フライの消えたトレイを見て、また泣いたからだ。


牧師はそれを見て、自分の言ったとおりだったと言った。


魚フライがなくなったから泣いたのか、魚の匂いのせいで泣いたのかは、俺にも区別がつかなかった。


その日は、何を見ても泣いた。配膳口の蓋を見ても、俺の写真がまた貼られた名札を見ても、牧師のカップラーメンの領収書の栞を見ても。


夕方の点呼のとき、あの刑務官がまた配膳口の前に立った。今度も言った。


「こんにちは」


夕方のあいさつとしては、少し変だった。


あの人は、一日に一度だった言葉を、二度言った。朝に一度、夕方に一度。


俺は今度は答えた。喉が枯れていて、声が割れた。


「こんにちは」


蓋が閉まってから、牧師が布団の中で笑った。


「あの旦那の名前、知らねえのか?」


「知りません。名札を見たことがないので」


「俺も知らねえ。じゃあ、あいさつってことにしよう。あいさつ」


それから、あいさつは毎朝、同じ言葉を言った。こんにちは。


その言葉のほかには、何も付け足さなかった。天気の話も、飯の話もなかった。ただ、毎回、最後まで言い切った。


それが、あの人の言える言葉のすべてなのか、あの人が選んだ言葉のすべてなのか、俺には分からなかった。訊かなかった。


あの刑務官は、そうしてあいさつになった。名前を知らない人間に付けた名前だった。


* * *


その夜、夢を見た。


孤児院の塀だった。夜で、松明が塀の上に並んでいた。


森の方から黒いものが下りてきた。音もなく。塀を引っ掻く音だけが、端から端へと移っていった。


そして、ひとつずつ塀を越えた。越えていく背中が、松明の明かりにてらてらと光った。


鐘が鳴った。子供たちが倉庫へ走っていく足音が、塀の向こうから聞こえた。


俺はあの言葉を言おうとして、口を開けた。


怖いものは見ないで目を閉じて寝ろ。俺が見てる。


言葉は出なかった。塀が、俺の前にあった。


俺は塀の上にいなかった。塀の中にもいなかった。


足元は草だった。後ろは森だった。


黒いものが俺の横を通り過ぎ、塀を越えていった。俺はそれらの間で、塀を見上げていた。


塀の上に、小さな頭がひとつ、出ていた。


* * *


彼はその日の朝、息遣いをひとつ聞いて、一日中泣いた。同じ日の夜、彼は自分が塀のどちら側に立っていたのかを、記録しなかった。


作業日誌には、その日の不良の理由として「水分」が残った。欄は、それ以上を受けつけなかった。


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