第49話 収容事由書(3)――下絵の月
護送バスの窓には金網があった。金網の向こうを秋が過ぎていった。
俺は一番後ろの席に一人で座った。前の11席は空いていた。
本来は12人が一緒に乗るバスだと言われていた。拘置所から刑務所へ、刑が確定した者たちをまとめて運ぶバスだ。
ところが、出発直前に11人が次のバスへ移された。理由は聞かされなかった。
俺は理由を知っている。俺を見ると、息が止まるからだ。
バスに乗っていたのは3人だった。
運転席の運転手。助手席の刑務官。そして、俺。
二人は一度も後ろを振り返らなかった。バックミラーはテープで覆われていた。
テープの上にはマジックで「走行中、後方確認は不要」と書いてあった。その日、あのバスは一度も後退しなかった。
俺は窓の金網に額を当てた。車の中だった。
半年前も、俺は車の中にいた。あの日のことは、車のドアが閉まる音で途切れる。ドン。
その次は拘置所の独房の天井だ。その間はない。
判決文にはその間のことが書いてある。俺はそれを、他人の字で読んだ。
* * *
刑務所の入所手続きは、欄でできていた。
服を脱いだ。欄にチェックが入った。所持品を出した。欄にチェックが入った。
囚衣を受け取った。拘置所の囚衣は水色だったが、ここは灰色だった。刑が確定すると色が抜ける。
それも欄にチェックが入った。
最後の机で紙を一枚受け取った。裏表に印刷された紙だった。
表の題名は新入収容者記録票。裏の題名は収容事由書。
表はすでに埋まっていた。他人の字だった。氏名、収容番号、刑期、罪名。
罪名:殺人。
その下の欄。
本人陳述:記憶にありません。
拘置所の初日に俺が言った言葉だった。
その言葉は6か月の間、この欄からあの欄へと書き写されていった。警察の調書から検察の調書へ、検察の調書から判決文へ、判決文からこの記録票へ。
書き写す人が変わるたびに字は変わったが、言葉はそのままだった。記憶にありません。
それが、この国が俺について持っている唯一の本人陳述だった。
弁護士は狂気を主張した。異世界から帰還した者が陥る一時的な錯乱。
裁判所は受け入れなかった。
判決文には理由が一行あった。
「被告人は犯行前後を通じ一貫して正常な判断能力を示した」
俺はその一文が間違っていると思った。正常な人間は、あの日を丸ごと失くしたりしない。
あの日、俺は正常ではなかった。そうでなければならなかった。
6年間、子どもたちを守ってきた人間が、正常なまま人を殺すはずがないからだ。
裁判所は俺の正常さを認めてくれた。俺はその認定がひとつもありがたくなかった。
裁判の二日目、遺族陳述書が朗読された。陳述人の欄は伏せられていた。
関係の欄だけが読まれた。姉。勤務先の欄も読まれた。国家移住管理局。
裁判官がその二つの欄を読み上げる間、俺は被告人席で顔を上げられなかった。
陳述書は長くなかった。最後の一行だけ覚えている。
「被告人に対する処罰の意思は、裁判所の判断に委ねます」
委ねるという言葉が、こんなに重いとは知らなかった。
判決が出てから、俺は書類を一通出した。管理局宛て。担当者交代要請。
理由の欄には、こう書いた。
あの人が、これからも俺を見ていてはいけない。
俺の書類綴りをめくり、俺の記録を決裁し、俺の名前の隣に自分の印章を押す。あの人が、そんなことをこれからも続けるのはいけないと思った。
それは正しくなかった。俺は、正しくないことを放っておける人間ではなかった。あっちでもそうだった。
1か月後、通知が来た。一行だけだった。
差戻し(本人拒否)。
誰が「本人」なのかは、欄に書かれていなかった。俺はその通知をしばらく見ていた。
俺が出した要請なのだから、本人は俺だった。つまり、俺が俺を拒否したことになる。
あるいは、別の本人がいた。
どちらにせよ、俺はそれ以上は聞かなかった。この国の書類は、一度差し戻されたら、それで答えは終わりだった。
裏面は白紙だった。欄がひとつあった。
本人が考える収容理由を記載すること。
「それは、今日の夕方までに出していただければ結構です」
机の向こうの刑務官が言った。俺の囚人服のボタンを見ていた。
顔は見なかった。息を止めて話すので、語尾が短かった。
* * *
部屋には先客がいた。
六十歳くらい。髪は半分ほど白かった。
壁に背を預けて座り、聖書を読んでいた。刑務所の図書室の蔵書印が押された聖書だった。
俺が入っていくと、彼は聖書を閉じずに顔だけ上げた。
彼は俺を見た。まっすぐに。そして息を止めた。
三秒。彼は三秒の間、息を止めていた。それから吐いた。長く。煙草をやめて久しい人が、最後の一口を吐き出すみたいに。
「おお。そういう見た目なんだな」
「どんな見た目なんですか」
「それは言わない。俺はそれを言っちゃいけないって教え込まれたんだ。入所教育のときは、あんたの話だけで20分使ってたよ」
彼は聖書を脇に置いた。
「俺のことは牧師と呼べ。本物の牧師じゃないけどな」
「じゃあ、何なんですか」
「詐欺師だよ。牧師のふりして献金で食ってたら、ここに入れられた。でもここでも、みんな俺を牧師って呼ぶ。人ってのは、一度牧師なんて呼ばれると、なかなか抜けないもんだ」
俺は彼の向かいの壁に座った。彼は俺の顔ではなく、右の肩を見た。そこが、彼には楽な場所のようだった。
「みんな、俺と同室になるのは嫌がったでしょうね」
「ああ。みんな嫌だってさ。手を挙げたのは俺だけだった」
「どうしてですか」
「特別管理収容者と同居すると、仮釈放審査で奉仕点がもらえるんだと。危険同居の加点ってやつだ。俺は地獄を30年売ってきた。この程度は見本だよ」
彼はそう言って笑った。笑うときも、俺の肩を見ていた。
俺はその瞬間、彼のことが好きになった。
俺を見て息を止めた人間のなかで、もう一度笑ったのは、彼が初めてだった。
* * *
刑務所には、公文のほうが先に来ていた。俺より先に。管理局から。
房の扉の横には名札が貼られる。収容番号と写真だ。俺の名札の写真のところには、白い紙が貼ってあった。紙には、こう書いてある。
写真省略(公文第▇号による)
巡回の刑務官は、俺の房の前を通るたびにその白い紙を見た。紙は、俺の代わりに二か月以上、巡回を受けていた。紙は、誰の息も止めさせなかった。
公文のほかの条項も、順に知った。
肉眼注視自粛の勧告。
運動時間単独割当。
面会時は仕切り必須。
接見録画は画面経由。
そして最後の条項。残余期間経過後、一般収容者へ転換。
残余期間が何日なのかは、公文には書いていなかった。俺は知っている。65日。
牧師は、その条項を全部覚えていた。入所教育のときに聞いたのだと言う。
「65日経ったら、お前はただの人になるんだとさ」
「今も人です」
「そう。書類の上でも、ってことだ」
* * *
最初の相談は、入所の翌日だった。
相談室は本館の二階の突き当たりにあった。窓が一つあって、窓枠に小さな鉢植えが三つ並んでいた。多肉だった。左の二つはふっくらしていた。右の一つは、葉がしわしわに干からびていた。
相談員は三十代後半くらいの男だった。丸眼鏡をかけていた。机の前ではなく、窓ぎわの椅子に座っていた。椅子は窓のほうを向いていた。俺のほうを向いてではなく。
「おかけください。私は鉢植えを見ながら話します。失礼ではなく、やり方です。公文を受け取ったもので」
「知っています」
「右の、見えますか。あれは私が水をやりすぎたせいです。みんな言うんですけど、多肉は水を少なくやらないといけないらしくて。でも私は、しおれて見えると水をやるんです。すると、もっとしおれる。すると、またやる」
「やらなければいいじゃないですか」
「そうなんですけどね。分かっているのに、できないんです。相談員がこんなではいけませんね」
彼は右の鉢植えを指先で一度つついた。葉が一枚落ちた。彼はそれを拾って、土の上に戻した。
「どんな人だったのか、聞かせてもらえますか。ここに来る前の」
俺は話した。あっちの話を。6年。孤児院。塀。子どもたち。鎧。
相談員は鉢植えを見ながら聞いた。途中で一度も遮らなかった。メモも取らなかった。俺が全部話し終えると、彼は少しだけうなずいた。
「そうですか」
「信じがたいでしょうけど」
「いいえ。信じるか信じないかは、私の仕事じゃありません。では、一つだけお聞きします」
彼はやはり鉢植えを見ていた。
「では、それは誰の記憶でしょう」
「え?」
「今お話しになったことです。それは誰の記憶でしょう」
「俺の記憶です」
「そうですか」
彼はその言葉を受けて、それ以上は聞かなかった。代わりに、机の上の紙を一枚、俺のほうへ押し出した。鉢植えを見たまま。手だけを動かして。
課題1 — 私はどんな人間か。
「来週までに。二枚以内で。要領は裏にあります」
後で知った。
あの質問は、彼の口癖だった。
彼はすべての収容者に同じ質問をした。妻の話をする者にも、母親の話をする者にも、被害者の話をする者にも。
「では、それは誰の記憶でしょう」
牧師はその質問を3回受けたと言った。3回とも神の記憶だと答えたと言った。
相談員は、3回とも「そうですか」で流したと言った。
* * *
部屋に戻ると、牧師が聞いた。
「鉢植え、見た?」
「見ました」
「右のやつ、まだ生きてる?」
「生きていました。半分くらい」
「あれは1年ずっと半分なんだよ。あの人が水をやって死にかけて、水をやって生きてる。あの人の相談は全部あれだ」
牧師はそう言って、聖書をまた開いた。ページの間にカップラーメンの領収書が挟まっていた。預かり金の購入履歴。彼はそれを栞にしていた。
* * *
入所した日の夕方、裏面を埋めた。
本人在考えた収容事由を記載せよ。
欄は一行だった。指一本分の高さ。俺はその欄を長いこと見た。
表面には、他人の文字で俺の収容事由がすでに書いてあった。殺人。記憶なし。
裏面は、自分の文字で書けと言われていた。本人が考えた、と。
俺は考えた。俺の知っている俺を。塀の上に立つ松明を。鎧にぶら下がった七つの手のひらを。それが、俺の知っている俺だった。
その男がなぜ今、灰色の囚衣を着てこの部屋にいるのか。その男の記憶の中に、俺は答えを見つけることができなかった。表面の事由は、俺の知らない事由だった。裏面には、俺の知っている事由を書きたかった。
俺はボールペンを取った。欄に合わせて、まっすぐに書いた。
子供たちを守って帰ってきました。
* * *
点呼が終わると、教導官が配膳口の前に立った。記録票を回収しに来た。五十代ほどの男だった。彼は配膳口に手だけを差し出した。
俺は紙をその手に握らせた。彼の手は温かかった。息は止まっていた。
彼は紙を裏返して読んだ。裏面を。長く読んだ。一行しかないものを、長く。
そして、配膳口から紙が戻ってきた。
「この欄は、そう書く欄ではありません」
彼が言った。息を止めて言ったので、短かった。
「書き直して、明日の朝に出してください」
配膳口の蓋が閉まった。足音が遠ざかった。廊下の端で、彼が息を大きく吐く音が聞こえた。
俺は戻ってきた紙を見た。裏面の欄の横に、赤いボールペンで小さく書いてあった。
差戻し。
その下に一行。
事由:収容事由と無関係。
収容事由書の収容事由欄に書いた俺の収容事由が、収容事由と無関係だった。
牧師が壁のほうで寝返りを打ちながら言った。
「何て書いたんだ」
「子供たちを守って帰ってきました、と」
「ああ。それは俺が書いても差戻しだ」
* * *
その夜、彼は同じ文をさらに二度書いた。二度とも、欄に正確に収まった。
欄は、彼が何を書いたかではなく、書いたものが欄に収まるかどうかだけを確認していた。




