第48話 収容事由書(2)――下絵の月
管理番号KR-07 矯正相談記録
課題2 — 私がした中で最も善いこと
* * *
前回の課題は二枚を超えましたが、先生は何もおっしゃいませんでした。
ですから、今回も超えます。先に言っておきます。
同室のご老人が言うには、刑務所では先に言えば自首、後から見つかれば摘発なのだそうです。自首は減刑の理由になるのだとか。
私は減刑を受けたいのです。
最も善いことを書け、とおっしゃいました。
私は井戸の話を書きます。
ほかにもいろいろありましたが、このことだけは最初から最後まで全部覚えています。最初から最後まで覚えていることなど、私にはそう多くありません。
* * *
孤児院の庭の真ん中に、井戸がありました。
石を積んだ、丸い井戸でした。深い井戸でした。
釣瓶の縄は十二尋ありました。
その井戸は冬でも凍りませんでした。そのかわり、夏でも冷たかったのです。
子どもたちはその井戸を、怖がりながらも好きでした。
怖いものを好くのは、あっちの子もこっちの子も同じです。
その日は晩秋でした。
いちばん小さな子が熱を出しました。背中に張りついていた、あの子です。
一晩じゅう、額が熱いままでした。
別の子がひとり、水を汲んでくると名乗り出ました。初日に私に石を投げた、あの子でした。
夜でした。夜に庭へ出てはいけないことを、その子も知っていました。
けれど、友だちの額が熱かったのです。その子は規則より、額を選びました。
私はそのとき、塀の上にいました。森を見張っていました。第一の決まりどおりに。
背後で、釣瓶の縄が繰り出される音がしました。
滑車が、きいと鳴りました。その次に、音がしました。
水の音。とても深いところから聞こえてくる、水の音。
私は決まりを破りました。
森に背を向けました。
* * *
決まりの話は、前の課題で先に済ませてあった。これを書くためだったのだろう。
字は、前回より速い。行は、相変わらず守っている。
* * *
塀から井戸までは、四十歩でした。
私はその四十歩を、全部覚えています。
鎧は、重かったです。
走りながら、鎧を脱ぎました。
兜を投げ捨て、肩の紐を断ち切りました。
藁が、庭に散らばりました。
井戸にたどり着いたときには、下着姿でした。
騎士が下着姿で井戸に飛び込んだのは、あの村の歴史で私が初めてだったでしょう。
翌朝、村の人たちは庭に散らばった藁を見て、夜通し何があったのかを、みんな知ったそうです。
釣瓶の縄を、手に巻きました。
巻いて、降りました。
縄が、手のひらを擦りました。
手のひらの皮が剥がれていくのが、分かりました。
痛くは、ありませんでした。
痛みは、あとから来ました。
そのときは、手のひらが熱いだけでした。
指のあいだを縄が滑るたび、私は手を、もっと強く握りました。
握れば滑りは減り、皮はもっと剥がれました。
私は、剥がれるほうを選びました。
水は、冷たかったです。
夏でも冷たい水が、晩秋の夜には刃物のようでした。
水のなかで、手を振り回しました。
何も、掴めませんでした。
もう一度、振り回しました。
指先に、何かが触れました。
髪でした。
私は、その髪を掴みました。
髪を掴んだまま、引き上げました。
子どもは、それにつられて上がってきました。
子どもは、井戸の壁の石をひとつ、掴んでいました。
水に落ちてから、その石を見つけて、掴んだのでした。
暗闇のなかで。
指、四本で。
爪は、みんな割れていました。
指は、石の隙間に挟まっていました。
私が引いても、指は抜けませんでした。
私は、その指を一本ずつ開きました。
親指から。
子どもは、泣きませんでした。
泣く力も、ありませんでした。
* * *
手。
手のひらが剥がれました。手を振り回しました。指の先に触れました。指を一本ずつ開きました。
この章で「手」の入った文を数えていました。数えている途中で、やめました。
* * *
上では、他の騎士たちが綱を引きました。
私は子どもを片腕で抱き、もう片方の腕に綱を巻きました。
上まで上がるのに、長くかかりました。
途中で一度、綱が止まりました。
上で騎士が一人、院長に呼ばれたからです。
院長は、この騒動で釣瓶が壊れていないか、確かめろと言いました。
私たちは井戸の中ほどにぶら下がったまま、釣瓶が無事だという知らせを待ちました。
釣瓶は無事でした。
それで、綱はまた上がりました。
その夜、あの孤児院でいちばん先に安否を確かめられたのは、釣瓶でした。
庭に上がったとき、子どもの手はめちゃくちゃでした。
爪は四枚とも、めくれていました。
指が二本、おかしな方向に折れていました。
血は水に洗われて、ほとんど見えませんでした。
代わりに、指の先が白かった。
冷たすぎて、血が巡らない白でした。
私はその手を、自分の両の手のひらの間に入れました。
私の手のひらも、めちゃくちゃでした。
綱に擦れて、皮がありませんでした。
剥がれた手のひら二つの間に、壊れた手が一つ、入りました。
そのまま、私は祈りました。
祈りと呼ぶのも、ためらわれるようなものでした。
私はそのとき、何も言いませんでした。
ただ、手に力を込めました。
握る力ではなく、別の力を。
手のひらが温かくなりました。
最初は、私の手のひらだけが温かくなりました。
次に、子どもの手が温かくなりました。
白かった指の先に、色が戻りました。
折れた指が、私の手のひらの中でゆっくりと動きました。
骨が元の場所に収まる感触が、手のひらに伝わりました。
浮いていた爪が、下りて収まりました。
私は手を開きました。
子どもの手は、元通りでした。
爪には、ひびひとつありませんでした。
向こう側の人たちは、それを神聖力と呼んでいました。
私は名前をつけませんでした。
ただ、私の手ができることでした。
子どもが最初に言ったのは、ありがとう、ではありませんでした。
水を汲んでこられなかった、という言葉でした。
釣瓶を落としてしまって、いちばん小さな子に水をやれなかった、とその子は言いました。
その子は、自分が井戸に落ちたことより、水を持って行けなかったことのほうを、ずっと申し訳なく思っていました。
私はその子を抱いて、台所へ行きました。
台所の水がめから、水をひしゃくで一杯くみました。
水がめには、水が満ちていました。
その子は、それを知りませんでした。
夜に台所へ入れば院長に叱られると思って、井戸へ行ったのでした。
その子には、院長のほうが、あれらより怖かったのです。
私も、その気持ちはわかります。
私たちはひしゃくを持って、いちばん小さな子のところへ行きました。
その子は水を飲みました。
半分飲んで、半分こぼしました。
こぼれた水が、私の膝に落ちました。
私はその夜、井戸の水と水がめの水に、順番に濡れました。
その日、私は一晩中濡れていましたが、誰もそれを気にしませんでした。
みんな、子どもの手を見るのに忙しかったからです。
私もそうでした。
騎士団長は朝、庭の藁を見てため息をつきました。
そして私に、藁を拾い直して肩に入れろと言いました。
藁は露に濡れていました。
私はその日、一日中、肩が湿っていました。
あれは罰ではなかった、と団長は後で言いました。藁が惜しかっただけだ、と。
あの村では、藁も空の意志も、どちらも大切に使いました。
* * *
あの子の手は治った。
その子の手のひらがどうなったかは、書かれていない。
この章にも名前はない。
水を汲みに行った子、いちばん小さな子、院長、騎士たち。
保安課から課題の検討依頼が来た。
「縄」「深いところ」「飛び込んだ」。自傷リスク・キーワードが三つ。
井戸であの子を助けた話だと返信した。
返信の書式の理由欄が一行だったので、「井戸」までしか書かなかった。
保安課は「井戸」を四つ目のキーワードとして登録した。
* * *
あの子は翌朝、私の脚にしがみついたまま、私の手を握りました。
鎧の手袋を脱いだ、素手のほうを。
あの子はそれから毎朝、私の手も握りました。
背にはいちばん小さな子が、手にはあの子が。
私はそれから、両側が重たくなりました。
いちばん小さな子の熱は、その朝に下がりました。
井戸の水は、一口も飲めなかったのに。
院長は、それが空の意志だと言いました。
そして、釣瓶の綱を新しく買わなければならないとも言いました。
私の手のひらの血が染みて、綱が腐るだろうからです。
綱の値段は騎士団の取り分から出ました。
空の意志はただでしたが、綱はただではありませんでした。
その日、私は第一の決まりを破りました。森に背を向けたのです。
その夜、森からは何も来ませんでした。
騎士団長は私を叱りませんでした。
ただ、食堂の柱の第一の決まりの隣に、小さく一行を刻み足しただけでした。「井戸は例外」と。
6年の間、あの決まりの例外は、それ一つだけでした。
* * *
同室のご老人が、この課題をこっそり読みました。私が運動の時間に出ているあいだのことでした。
戻ると、ご老人は井戸の話がいいと言いました。
ただし、神聖力の部分は外せ、とも言いました。先生がその部分を読めば、精神科の相談に回されるだろうから、と。
ご老人は、自分もその部分で引っかかったと言いました。
ご老人は、献金を受け取るたびに手を当てて病を治してやると言っていたそうです。治った人は一人もいませんでしたが、献金は全部受け取りました。だからここへ来たのだそうです。
ご老人は私に、お前は本当に治したのかと聞きました。
私は、治したと答えました。
ご老人は笑いました。自分も最初は、本当に治していると信じていたと言いました。
信じるから手から熱が出ました。熱が出るから、もっと信じるようになりました。
ご老人の話では、そういうことでした。
私はその言葉に答えませんでした。代わりに、自分の手を見ました。
手の甲に、白い線が三本あります。鏡を割ってできた跡です。
この線は、半月のあいだに、ひとりでにふさがりました。
誰も手を当てませんでした。私も当てませんでした。当ててみても、何も起こらないと分かっていたからです。
ここで、私の手はショッピングバッグを折ります。作業場の割り当てが、そうなりました。
紙のショッピングバッグに、持ち手の紐を通す仕事です。一日に四百個を折ります。
班長の話では、私の手は速いのだそうです。来たばかりの者にしては、紐を通す穴を一度も破かない、と。
私は、それが何を意味するのか分かっています。
この手は今でも、何かを丁寧に扱うやり方を覚えています。ただ、治すやり方だけを忘れました。
同室のご老人は、作業場でも私の隣の席です。ご老人は、一日に百個を折ります。
残りの時間は、ショッピングバッグに印刷された社名を見て、その会社の会長のために祈ります。
班長が働けと言うと、ご老人は今働いていると言います。祈りも労働だ、と。
班長は、そんな欄はないと言います。祈りを記録する欄は、作業日誌にはない、と。
ご老人は、欄のない労働こそ本物の労働だと言います。
二人はその話を、毎日します。
私はそのあいだ、ショッピングバッグを折ります。つまり、ご老人の分まで折っている勘定です。
ご老人はそれについて、私の手には恵みがあると言います。私はその恵みの対価にカップラーメンをもらうべきだと思っていますが、まだもらえていません。
あっちでは、私は他人の手を治しました。それが、私がしたことの中で一番よくやったことです。
こっちでは、私は自分の手を一つも治せません。それは課題に書けと言われていないことですので、ここまでにしておきます。
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課題の下の余白に、一行だけ書き添えて、返ってきた。
「その手は今、どうですか」
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彼はその質問を受け取った夜、手のひらを天井に向けて眠った。
何も降りてこなかった。
彼はそれを確かめるために、そうして眠ったのだ。




