第46話 爪
板は松だった。木目は縦に走っていた。
木目に沿って引く一画は簡単だった。木目を横切る一画は難しかった。1か月、板の下に寝転がって、それを覚えた。縦の一画は三日で溝になった。横の一画は十日かかった。
今夜、残っているのは横の一画だけだった。「な」の右側、短く跳ね出す一画。指の関節一つ分にも満たない一画だった。
俺はベッドの下に仰向けに寝て、右手の人差し指を立てた。爪の先はもう丸みを失っていた。1か月前は丸かったのに、今は平らだった。
板が俺の爪を削り、俺の爪が板を削った。どちらが勝っているのかは、溝の深さが教えてくれた。板が負けていた。
引っかいた。木目を横切って。音がした。ごく小さな音。ネズミが壁を引っかく音に似ていた。
最初の何日かは、その音のせいで観測室から人が降りてきた。ネズミがいるかどうか、確かめに。ネズミはいなかった。代わりに、ベッドの下に帰還者が一人いた。
* * *
観測記録は、配膳口の横のクリップボードに挟まれていた。俺はトレーを受け取るたびに、それを逆さから読んだ。逆さ読みにはすぐ慣れた。この部屋で、慣れないものは何もなかった。
対象、ベッド下進入。理由不明。
初日の記録だった。二日目も同じだった。三日目からは短くなった。
対象、ベッド下。特異事項なし。
十日目からは、さらに短くなった。
ベッド下。
二十日目、誰かが記録欄の横に鉛筆で小さく書き足した。カメラ角度調整の要請――ベッド下の死角。その隣に、別の筆跡で「差戻し(予算)」。
その死角は、予算のおかげで俺のものになった。この施設で初めて、自分だけの空間を手に入れた。ベッド下の六十センチ。
爪切りの一件もあった。
十五日目、配膳口から爪切りが入ってきた。トレーの横、ビニール袋に入れられて。袋にはメモが貼ってあった。衛生管理のため。使用後は直ちに返却。
爪が長すぎる、という意味ではなかった。観測室は、なぜ俺の爪が早くすり減るのか、知らなかった。だからとりあえず、切れと寄越したのだ。切るものがない爪に。
俺は爪切りを使わずに返した。翌日、記録に一行増えた。
爪切り返却(未使用)。理由:「まだ使うところがある」。
その理由は、俺が配膳口に向かって言った言葉だった。記録した人間は、その言葉をそのまま引用符の中に入れた。どういう意味かは訊かなかった。この施設の人間は、訊けば答えを聞かねばならないことを知っていた。だから訊かなかった。
今夜の夕食のトレーには、おかずが一つ多かった。ソーセージ炒め。普段はないおかずだった。
配膳口の向こうの職員はトレーを押し入れ、蓋を閉めなかった。少しの間、そこに立っていた。
「それ、厨房から一つ多めに入れろって」
「なんで」
「別に。明日、出るんだって」
俺はソーセージを一つつまんで食べた。塩辛かった。
この施設の食べ物は、どれも塩辛い。あっちの食べ物は薄かった。孤児院では、塩は薬と同じくらい貴重だった。
6年もの間、薄味で食べてきた舌が、こっちに来て4か月目になっても、まだ驚いている。
舌は、まだ帰還できていない。
「送別会ですか、これ」
「いいえ。送別会は規定にありません」
「じゃあ、何なんですか」
職員は答えの代わりに、蓋を閉めた。蓋の向こうから、小さく言った。
「おかずの追加は規定にあります。栄養管理のためです」
この施設には、送別の規定はない。栄養の規定はあった。
俺は栄養を受け取った。ソーセージは六本、全部食べた。送別会にしては塩辛かった。
* * *
横画が半分ほど彫られた。
指を休めながら、天井の代わりに板を見た。二文字が、そこにあった。俺の目から拳一つ分。暗闇の中でも見えた。
一か月、毎晩見てきた文字は、目を閉じても見える。
俺は、あっちで6年を生きた。
孤児院を守る騎士団の者だった。モンスターが子供たちを攫っていく村だった。
毎晩、塀の上で松明を掲げた。
子供たちは俺の鎧にぶら下がった。冬にもぶら下がった。鉄が冷たいのに。
あの子たちが手のひらを鎧に当てていて、離すと、手のひらの形に湯気が浮かんで、消える。俺は、そんなものを6年の間、見てきた。
そこで俺は、手を当てて人を治した。神聖力と呼ばれていた。
転んだ子供の膝。矢を受けた仲間の肩。俺が手を当てると、傷は閉じた。閉じる音はしなかった。代わりに、子供たちが息を止めて、また吸う音がした。
それが、俺の知っている俺だった。6年の間、子供たちを守ってきた人間。
3か月目になった日、女が書類を読んだ。俺は鏡を割った。手は治らなかった。
それ以上は、考えない。考えないように、これを彫っている。
手は結局、治った。半月ほどかかった。普通の人間が治る速さで。
かさぶたができて、落ちて、手の甲に白い線が三本残った。
あっちでは、他人の傷は、俺がひと撫ですれば閉じた。こっちでは、俺の傷は半月かけて、ひとりでに閉じた。
俺には、その半月が、割れた鏡より怖かった。
洗面台の上の壁には、今はねじ穴が四つ残っているだけだ。
鏡を外していった人間たちは、穴を埋めなかった。
俺は時々、洗面台の前に立って、その四つの穴を見る。何も映らない。それがいい。
* * *
また爪で引っ掻いた。木目を横切るように。
扉の外で足音がした。革靴の音だった。ヒールが低くて、拍子が一定だった。
その拍子を、俺は知っている。
3か月の間、毎日この部屋に入ってきた拍子だ。
それから1か月は、扉の前までしか来ない拍子だった。
足音は扉の前で止まった。扉は開かなかった。
代わりに、紙が扉の下の隙間から押し込まれてきた。床を擦る音がした。
俺はベッドの下から出なかった。首だけを回して、その紙を見た。
非常灯の明かりに、題が見えた。
移送通知書。
「明日です」
扉の向こうから、低くて、まっすぐな声がした。
1か月前、12枚の紙を順に読み上げていた、あの声だった。
1枚も飛ばさなかった声。
「お読みになって、署名欄にご署名ください。朝、回収に伺います」
俺はベッドの下から這い出た。紙を拾った。
欄は6つあった。対象、移送日時、移送経路、移送理由、同行人員、持参物品。
移送理由の欄には、待遇改善(施設の老朽、鏡の不在)。
鏡は、俺が割った。
俺が割った鏡のせいで、俺の待遇が改善される。
この国は、人が割ったものまで、その人の待遇として計算してくれる。
同行人員の欄には、本国職員2名(運転1、同乗1)。
持参物品の欄は空だった。欄の横に、小さな字で書いてあった。
該当時記入。
俺はボールペンを探した。ボールペンは、なかった。
この部屋には、ボールペンを置かない。代わりに、扉の下から鉛筆が1本転がり込んできた。
短くなった鉛筆だった。先は丸く潰れていた。俺の爪と同じくらい。
持参物品の欄に書いた。
爪、10本。
それから署名欄に名前を書いて、紙をまた扉の隙間から押し出した。
向こうで、紙が引きずられる音がした。少しの間、静かだった。
彼女が読んでいた。
「この欄は、そう書く欄ではありません」
「知ってる」
「差し戻されたら、明日の朝、書き直していただくことになります」
「じゃあ明日の朝は9本って書く。1本は今夜で使い切るから」
扉の向こうから、何の音も聞こえなかった。笑い声も、ため息も。
彼女は、音を立てない人間だった。3か月の間、ずっとそうだった。
* * *
一つだけ、頼みがある。
俺は言った。扉に背を預けて、床に座ったまま。
扉の向こうの彼女も床に座っているのかどうかは、分からなかった。立っているようだった。革靴の踵は動かなかった。
「おっしゃってください」
「俺がいなくなったら、この部屋もまた誰かが使うだろう」
「いつかは」
「次に来る奴には、言うな」
革靴の踵が一度、床をこすった。
「何を、ですか」
「そいつが何に見えるか。経緯書だの何だの。一番下の、あの段」
俺は板のほうを見た。ベッドの下は暗かった。そこに自分の字は見えなかった。彼女はあの字を知らない。この部屋に入らなくなって、もう一か月になる。その一か月の間に彫った字だから。
「俺が読んでくれって言った。知る権利があるって。あんたは俺の言うとおりにした。だから、それはあんたのせいじゃない。俺が間違っていた。知る権利なんて、ない。知っちゃいけなかったんだ」
「……」
「知ってしまうと、そうなる」
扉の向こうから、長い間、何の言葉も聞こえなかった。俺はその沈黙を待った。あっち側では、俺は待つのが得意だった。塀の上で松明を掲げて、朝まで待った。朝が来れば、子供たちは目を覚ました。子供たちが全員起きれば、その夜は勝ちだった。
「約束します」
彼女が言った。
「次の方には、言いません」
「絶対だぞ」
「記録に残しておきます」
「記録はするな。記録したら、誰かが読むだろう」
「では、覚えておきます」
俺はその返事が気に入った。書類より人間のほうがいい。書類は差し戻されるが、人間は差し戻されない。
あの子供たちのことを考えた。俺が守った子供たち。あの子らに、俺は毎晩同じことを言った。怖いものは見ないで目を閉じて寝ろ。俺が見てる。今、俺は扉の向こうの女に同じことを言っている。次の奴には見せるな。俺が見たから、もういい。
子供たちを守っていたときの癖だった。癖はこっち側に来ても抜けなかった。神聖力のほうは、三か月で抜けていったのに。
「それともう一つ」
「おっしゃってください」
「明日は運転に気をつけろって伝えてくれ。俺は車に長く乗ったことがない。6年の間、乗ったのは馬ばかりだったから。酔うかもしれない」
「お伝えします」
彼女はその言葉を真面目に受け取った。この施設の人間は、冗談も受理する。そして処理する。明日の朝、同乗する職員の業務手帳には一行増えているだろう。対象、乗り物酔いの可能性あり。理由欄があるなら、理由は馬だ。
革靴の音が遠ざかった。階段のほうへ。拍子は一定だった。最後まで、一定だった。
* * *
俺はまた、ベッドの下へもぐった。
横の一画の、残り半分。
爪を立てた。木目を横切って、鼠が壁を引っ掻くような音で。
板の粉が、眉の上に落ちてきた。
1か月のあいだに落ちた粉は、毎朝、俺が掌で払って洗面台に捨てた。観測記録にはそれもあった。洗面台の使用、頻繁。特記事項なし。
一画が終わった。
爪の先が、溝の端に引っかかった。これ以上、進む先はなかった。
俺は手を離し、三文字を最初から最後まで見た。
見、る、な。
縦の線は深く、横の線は浅かった。木目を横切ったほうが浅かった。松は最後まで、自分の木目を曲げなかった。
1か月前、これを初めて引っ掻いたときには、理由があった。今は、その理由は全部、板の中に入っている。取り出して、また見る必要はなかった。
だから、掘り終えた夜は、何も思い浮かばなかった。爪が痛かった。それだけだった。
この部屋で1か月、俺は大丈夫だった。本当に。
鏡がなくて、扉は開かなくて、毎晩、板があった。
俺は板の下で、毎晩、同じ言葉を自分に言った。その言葉を聞いているあいだは、何者にもならなかった。
明日からは、板がない。
俺はベッドの下に寝そべったまま、移送通知書の欄を思い浮かべた。
移送経路の欄には、何も書かれていなかった。保安上の理由で。
どこへ行くか分からない車に乗るのは、初めてではなかった。あっち側へ渡ったときも、同じだった。
あのときは、目を開けたら、孤児院の塀の外だった。
今度は、目を開けたまま行く。
板を手のひらで一度、撫でた。溝が、手相みたいに引っかかる。
「掘り終えた」
板に向かって言った。返事はない。板はもともと返事をしない。それが、板のいいところだった。
「掘り終わったら、別の部屋に移すんだと」
* * *
彼は最後の一画を引きながら、それが自分自身に宛てた言葉だと信じていた。
彼が何も疑わなかった、最後の夜だった。




