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第45話 帰ってきます

「最後の書類です」


車がマンションの正門前に停まったとき、彼女が運転席から後ろへ紙を一枚差し出した。クリップボードに挟んで。ボールペンまで挟んで。


帰還者保護終了確認書。


保護期間:帰還日から365日。保護機関:国家移住管理局特殊課。対象:管理番号 KR-08。


そして、一番下の欄。


終了事由(簡潔に記載)


一行だった。どこまでも一行だった。


この国の事由欄は、最初から最後まで、指の関節ひとつ分の高さしかなかった。


「何て書けばいいんですか」


「何でも構いません」


「誰も読まないんですか」


「私が読みます」


彼女が言った。バックミラーの中から、彼女の目が俺を見た。


バックミラーは鏡だ。1年のあいだ、彼女が俺を見るときに一番楽だった角度。


俺はボールペンを手に取った。欄に合わせて書いた。


「家に帰る」


欄は半分ほど残った。俺はその残り半分を長いこと見つめた。


それから書き足した。欄からはみ出さないように、小さく。


「ありがとうございました」


彼女はクリップボードを受け取った。しばらくその欄を見ていた。


そして確認欄に判を押した。室長専決。判は少しだけ傾いた。


* * *


助手席のラーメンは、振り返りもせずに腕だけを後ろへ伸ばした。


1年のあいだ、配膳口にトレイを押し込んでいた、あの腕だった。


今回は、その腕を回さなくてもよかった。ラーメンはもう、俺を正面から見ることができた。


それでもラーメンは、腕だけを伸ばした。癖だった。


その手には、みかんが一つあった。昨日、調理員がくれたみかんだった。


「奥さんにあげてください。果物の禁止、解けたじゃないですか」


「それ、俺がお前にやったやつだろ」


「僕は、施設に行けばまたもらえますから」


俺はみかんを受け取った。ポケットに入れた。


もう一つのポケットには、すでに紙が二枚あった。冷蔵庫のメモ、そして返却先が変更されたコピー。


「おじさん」


ラーメンが言った。相変わらず、前を向いたまま。


「九番目が来たらですね。僕がトレイを持って行くとき、最初は怖くて、テーザー銃を抜いちゃうと思います。たぶん」


「ああ」


「でも今回は、先に電池を抜いておいてから行きます」


後部座席の反対側の端で、サングラスが笑った。


彼女は今日、サングラスをかけていなかった。笑いながら、泣いていた。結婚式でも花嫁より先に泣く人だそうだ。


* * *


車のドアを開けた。


午後3時。1年前、赤羽根のリビングに足を踏み入れたのと同じ時刻だった。


彼女は運転席から降りなかった。ラーメンも降りなかった。


規則だった。保護が終了した帰還者の私的空間には、管理局の職員は同行しない。


そんな規則が本当にあるのか、俺は知らない。彼女がそうだと言えば、そういうことだった。この1年、ずっとそうだった。


車のドアに手をかけたまま、俺は聞いた。


「一つだけ、お伺いしてもいいですか」


「質問ですか」


「はい」


「妻が、あの日、ドアを開けなかった理由です。俺の頼みのせいじゃない、とおっしゃいましたよね」


彼女は答えなかった。


ハンドルを握った手が、ほんの少しだけ震えていた。昨日みたいに。1年前の初日みたいに。


「それは」


彼女は言った。


「奥様に、直接お尋ねください」


* * *


アパートの棟の入口、花壇の横に、蛇口が一つあった。


俺はその前にしゃがみ込み、栓をほんの少しだけひねった。水滴が一つずつ落ちた。


今朝、休憩所のトイレで一度やった。それでも、もう一度やりたかった。


妻の前で、数秒でも失いたくなかった。


歯ブラシをくわえたまま洗面台の前で我に返る。あれと同じことを、妻の顔の前で起こすわけにはいかない。


水滴を一つ、捕まえた。


花壇の縁が、青く濡れた。


一秒。


放した。水滴が土に落ちた。


車の中から、彼女はそれを見ていただろう。録音機を手にして。


測定表の『一日自己使用の有無』欄に、今日は二度目のチェックを入れたはずだ。


保護は終わっても、測定は終わらない。1年経っても、俺の数値は増え続けていた。


* * *


エレベーターの前に、紙は貼られていなかった。点検は終わっていた。


俺は階段で上がった。


エレベーターの中には、鏡がある。鏡を怖がる理由は、もうなかった。鏡は、最初から嘘をつかなかった。


それでも、階段を選んだ。9階まで、歩いて上がりたかった。


1フロアに、十数段。


俺は数えた。魔王城の階段を数えたときのように。六番目が×印を数えたときのように。


今度は、へたり込むのが怖くて数えたんじゃない。一段ずつが惜しくて数えた。


階ごとに、センサー灯が点いた。9階に着くと、9階のセンサー灯も点いた。


誰かが、ブレーカーのスイッチを上げ直していた。


ブレーカーの蓋には、新しいステッカーが貼ってあった。


「無断操作禁止(違反時は管理事務所に通報)」


25日前にはなかった文言だ。俺が作った規則だった。


廊下の突き当たりに、ドアがあった。


土だけの植木鉢。


今度は、土だけではなかった。指ひと節ほどの緑の芽が、一本だけ出ていた。


何を植えたのかは、わからない。


妻には、植物を枯らす才能があった。なのに、今度は生きていた。


ドアロックには、新しいカバーがはめられていた。


消火器の跡が残った古いカバーは、新しいものに替えられていた。


* * *


1年前、俺は暗証番号を知らなかった。


だからドアを開けた。手のひらをドアロックに当てて、軽くひねる。あっちで11年、城門と牢獄と宝物庫を開けてきた癖で。


今も、俺は暗証番号を知らない。


だから、呼び鈴を押した。


ピンポン。


先ごろ直したという呼び鈴だった。音はとても大きかった。直すついでに、音量を最大まで上げたらしい。妻はいつも、枠より大きく書く人だった。呼び鈴も、枠より大きく鳴った。


ドアの内側で、スリッパの音がした。かかとを引きずる音。速かった。とても速かった。走っているのに近かった。


足音は、ドアのすぐ内側で止まった。25日前と同じ場所だった。


今度は、誰だと聞かなかった。


ドアロックが外れる音がした。ドアノブが回った。ドアが開いた。一枚のドアが、横にのいた。


* * *


妻が立っていた。


耳の下まで届く短い髪。狭い肩。痩せた顔に、顔より大きな眼鏡。


映像通話の画面の中の、あの顔だった。26日前、鉄条網の向こうから受け取った写真の中の後ろ姿。


4年3か月なのか11年なのか分からない時間のあいだ、ただの一日も忘れたことのない人。


その人が、前を向いて立っていた。


妻が俺を見た。


俺は、妻の息づかいを聞いた。1年、白い部屋で一番小さな音を探していた耳で。


吸う息。


吐く息。


妻は息を止めなかった。


1年前、白い部屋のドアが開いたとき、灰色の髪の女も息を止めなかった。4日間で初めてのことだった。


そして今、それは1年で初めてのことではなかった。昨日のラーメンも、サングラスも、調理員も、息を止めなかった。呪いは終わった。だから、妻が息を止めないのは、おかしなことではない。


それなのに、おかしかった。


妻の息は、ラーメンの息とは違った。ラーメンは1年で初めて、息を止めずに俺を見た。


妻の目は、初めて見る目ではなかった。25日前、ドア一枚を隔てて。いや、4年のあいだ、毎日この顔を見てきた人の目だった。


妻が俺の顔を見た。剃った髭の跡。左の眉の上の傷跡。こけた頬。


そして、妻が口を開いた。


俺の名前を呼んだ。


あっちで11年、誰も呼ばなかった名前。


こっちで1年、書類に書けなかった名前。


八番目でも、KR-08でも、勇者でも、被疑者でも、スープを飲んでいた人でもない名前。


枠に合わせて書く必要のない名前。


妻が呼んだその名前は、枠の外へあふれた。


* * *


俺はポケットから紙を二枚取り出した。


一枚は冷蔵庫のメモだった。ちゃんとごはん食べるこ。「と」が紙の端で切れている。25日前、ドアの隙間から出てきた紙。25日後に返してくれと言われていた紙。


もう一枚はコピーだった。3年前、妻が警察署に提出した意見書。「不同意」にチェック。ペンを強く押しすぎて紙が破れた跡。そして一行だけの欄を突き抜けて下へはみ出した文字。


夫は帰ってきます。


俺はその二枚を妻の手に握らせた。書類を手のひらで押しやるのではなく。指が触れた。温かかった。


妻はコピーを見下ろした。自分の字を見た。枠の外へあふれた「帰ってきます」を。長く伸びた「す」の払いを。


「理由不十分だって」


妻が言った。泣きながら。笑いながら。二つが混ざって。


「警察が。これを見て。理由不十分だって」


「ああ」


「十分だったよね?」


「ああ」


俺は妻を抱きしめた。許可は得なかった。妻も許可しなかった。妻が先に抱きついてきたからだ。


「ごはん、食べた?」


俺が聞いた。


妻は俺の肩に顔を埋めたまま答えた。


「入って、一緒に食べよう」


俺は靴を脱いだ。1年前、アカバネの居間に上がったときは脱がなかった。靴を脱いだ瞬間に襲われたら、裸足で戦わなければならないから。


今回は脱いだ。


ポケットの中のみかんが転がった。


玄関から居間が見えた。ソファ、テレビ、それから台所。台所の食卓に食器が並んでいた。二人分。ご飯茶碗が二つ、汁椀が二つ、匙と箸が二組。汁椀から湯気が立っていた。わかめスープの匂いが玄関まで届いた。


「今日、来ると思ってた?」


「25日って言ったじゃない。数えてたの」


妻は俺の手を引いて台所へ行った。冷蔵庫の扉に磁石が一つ貼ってあった。何も留めていない磁石。25日前にメモを外した場所だった。妻は俺の手からメモを受け取り、その磁石の下にまた挟んだ。ちゃんとごはん食べるこ。「と」が切れたまま。


俺は食卓に座った。匙を持った。わかめスープを一口すくった。


薄かった。ひどく薄かった。施設の調理員が昨日の夕方から薄くすると言っていた、あの味よりも薄かった。妻は昔から味付けができなかった。植物を枯らす才能と同じ種類の才能だった。


「薄いでしょ?」


「ああ」


「濃い味はだめなの。あなた、これから長く生きるんだから」


俺はその薄いスープを全部飲んだ。今度は泣かなかった。代わりに、もう一杯くれと言った。


* * *


その男の名前を、我々はこれから記録する。あの日、あのドアの前で、初めて声に出して呼ばれたからだ。


我々の本棚の最後の頁には、その名前の隣に二つの言葉が並んで書かれている。


一つは「時間」、もう一つはまだ消されている。


その名前と、我々が最終的に「治癒師」と呼ぶことになる者が同じ人間かどうかは、この頁にはまだ書かない。


第一部 完。


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