第44話 365日
扉が開いた。
配膳口ではなく、扉が。
ラーメンがトレーを持って立っていた。
トレーの上に汁椀があった。蓋がしてあった。
12か月前、俺が経緯書の再発防止対策欄に書いたとおりだった。
「今後、汁物は蓋付きの器で」
一日で実施され、そのすぐあとに汁物禁止に押しのけられた。その対策が、今日、戻ってきた。
ラーメンは敷居のところで止まっていた。うつむいて、トレーの汁椀の蓋を見ていた。
12か月前、わかめスープの椀の縁を見ていたときのように。
誰かが彼に、最後にもう一度だけ言い聞かせたのに違いなかった。今朝、彼女が。
「入れ」
俺が言った。
ラーメンが一歩、入ってきた。二歩。
トレーをベッドの端に置いた。手は震えていなかった。汁椀の蓋も、かたかたと音を立てなかった。
そして、ラーメンが顔を上げた。
俺と目が合った。
俺はラーメンの息の音を聞いた。12か月のあいだ、この部屋で一番小さな音を探していた耳で。
吸う。吐く。吸う。
止まらなかった。
ラーメンの目が、俺の顔の上をゆっくり動いた。額、左の眉の上の傷跡、ぼうぼうのひげ、やせこけた頬。
12か月のあいだ、ラーメンは俺の手と、左耳の横の壁しか見ていなかった。
今日、初めて、別の顔ではなく、俺の顔を見た。
ラーメンの目元が赤くなった。
今度は、七歳児が叱られる寸前の顔ではなかった。
「……ただのおじさんですね」
ラーメンが言った。
「ほんとに、ただのおじさんですね。ひげ、ちょっと剃ったほうがいいですよ」
* * *
汁はわかめスープだった。蓋を開けると、湯気が立った。
スプーンですくった。しょっぱかった。
12か月前、5日目の最初のわかめスープと同じくらいしょっぱかった。
誰かがわざと、あの日と同じ塩加減にしたようだった。
俺は泣かなかった。代わりに笑った。
ラーメンも笑った。ベッドの横に立って、俺がわかめスープを飲むのを正面から見た。
息を止めずに正面から見たのは、初めてだった。
「おじさん、あの……」
「ああ」
「これまで僕が見てきたもの、お話ししてもいいですか。もう終わりましたから」
俺はスプーンを止めた。
彼女が七番目と交わした約束が、頭に浮かんだ。
自分が何に見えているかを知った瞬間から、人はそれになっていく。
「いや」
俺は言った。
「知らなくていい。もう、そうならないから」
ラーメンはうなずいた。それから、付け足した。
「じゃあ、ひとつだけ。さっき扉を開けたとき、怖かったんです。でも、おじさんが怖いんじゃなくて。まだあの顔だったらどうしようって、怖かったんです。あの顔を見たら、また僕がテーザー銃を抜いちゃうんじゃないかって」
ラーメンの腰に、テーザー銃はなかった。
今朝、返却したと言った。返却理由の欄に、一行。
「対象、正常化」
* * *
ラーメンは出ていく前に、ドアの外側のラミネート加工の紙を剥がした。
紙にはこう書いてあった。
食事配給時は2人1組。
対象と目を合わせないこと。
汁物禁止。
テーザー銃のバッテリーは随時点検。
12か月のあいだ、そこに貼られていた紙だった。
テープがドアにこびりついて、なかなか剥がれなかった。ラーメンは爪でしばらく引っ掻いた。
紙は剥がれたが、テープの跡が四角く残った。白いドアに、灰色の四角。
ラーメンはその四角を見ながら、言った。
「これも撤去申請書、書かないといけないんですかね」
「欄があればな」
「ありますよ。ここは何でもあります」
ラーメンは剥がした紙を折りたたんで、ポケットに入れた。捨てはしなかった。記念だと言った。
それから、別のポケットから手鏡を取り出した。丸いプラスチックの手鏡で、裏側にはキャラクターのシールが貼ってあった。
「髭を剃るときに使ってください。部屋に鏡、ないじゃないですか」
俺は手鏡を受け取った。
洗面台の上。壁に残った四つのネジ穴の下で、俺はそれを持ち上げた。
1年ぶりに、自分の手で持つ鏡だった。
そこには38歳の韓国人の男がいた。いや、もう39歳だった。
痩せこけた顔、伸び放題の髭、左の眉の上には傷跡。1年前とまったく同じだった。
鏡は、最初から嘘をつかなかった。
変わったのは、見る者たちのほうだった。
俺はその手鏡を見ながら、髭を剃った。剃刀の刃が顎を通るたびに、鏡の中の男は少しずつ若くなっていった。
剃り終えてみると、鏡の中の男は、赤羽根の家の玄関で靴を脱いでいた男に似ていた。
4年3か月前の男。妻が知っている男。
* * *
施設の人間が、次々と俺を見に来た。
正確に言えば、彼女が送り込んだ。一人ずつ、5分間隔で。
彼女の測定表には、新しい欄ができていた。対面確認者/時刻/反応。
反応の欄には、「正常」と「異常」、二つの四角があった。
二人目は、サングラスだった。
彼女は入ってくるなり、俺を見た。息を止めなかった。そして、いきなり泣き出した。理由もなく。泣きながら笑った。
「す、すみません。私、もともとこうなんです。結婚式に行くと、新婦より先に泣くんです」
彼女の測定表の反応欄には、「正常」にチェックが入った。横に小さな字で、(泣く、本人の体質)。
三人目は、上の階の観測室の別の要員だった。12か月のあいだ、一度もこの部屋に降りてきたことのない中年の男。鏡の向こうから、俺を見ていた人だった。
彼は入ってきて、俺を見て、息を止めず、首をかしげた。
「モニターで見てたのと、同じですね」
それが彼のすべてだった。反応欄に「正常」。
四人目は、構内食堂の調理員だった。12か月のあいだ、俺のワカメスープを煮て、汁物禁止のあとはキンパを巻いて、豆乳を用意してくれた人。60代の女性だった。
彼女は戸口に立ったまま、俺を上から下まで眺めた。
「こんなに痩せてたんだから、汁がしょっぱくたって残さず食べたわよね。今日の夕飯は薄味にしときますね」
反応欄に「正常」。横に、(食事内容の変更を希望)。
調理員は、帰りがけに戸口でもう一度振り返った。
そして、俺の手にビニール袋を握らせた。中には、みかんが三個入っていた。
12か月のあいだ、トレーに果物が載ったことは一度もなかった。果物は汁物ではない。だが、汁が出るという理由で、誰かが禁止リストに入れたのだと言われていた。
その誰かが誰なのかは、最後まで明らかにならなかった。
五人目、六人目、七人目。全員、正常だった。
七人が俺を見て、息を止めなかった。七つの「正常」が、測定表に並んで刻まれた。
12か月前の七人の帰還者のうち、五人は死に、一人は刑務所に、一人はまだ管理中だった。
今日は、七人が俺を、ただのおじさんとして見た。
* * *
最後に、彼女が入ってきた。
録音機を持っていた。測定表を挟んだクリップボードを持っていた。椅子を引いて、テーブルの角に斜めに腰を下ろした。12か月のあいだ、毎日座っていた席だった。
「定期測定です。最後です」
俺は、いちばん小さな音を探した。
今日、この部屋でいちばん小さな音は、彼女の呼吸だった。とても浅くて、速かった。吸って、吐いて、吸って、吐いて。
12か月のあいだ、俺は彼女の呼吸を一度も掴まなかった。今日も、掴まなかった。代わりに掴んだのは、上の階の換気口の風の音だった。
世界が青く染まった。
放した。
彼女は録音機の画面を見た。そして、俺のほうへ向けた。隠さなかった。
SYNC ERROR -00:00:02.10
「2.1秒です」
彼女が言った。
「1年が経ちました。呪いは終わりました。ですが、これは終わっていません。増え続けています」
「分かっています」
「六番目も、そうでした」
「分かっています」
彼女はクリップボードに数字を書いた。そして、対象協力度の欄をしばらく見てから、「上」にチェックを入れた。
隣に理由を書いた。俺は逆さまに読んだ。
(1年間、何もしていない)
七番目の手紙に書いた返事が浮かんだ。
「これからも、何もしません」
管理局は、その約束に期限を付けられなかった。
彼女は、その約束が守られた、と書いた。
* * *
「ひとつ、申し上げます」
彼女が録音機を切った。赤いランプが消えた。
12か月の間、彼女が録音機を切って話したことは、ほとんどなかった。
「今回は、ちょうど365日でした。いつもは数日ずれるのに」
「はい?」
「呪いが終わった日のことです。あなたが帰還なさった日から、ちょうど365日目の朝です。前の七人は、ある人は359日、ある人は371日でした。ぴったり合ったのは、初めてです」
「それは、どういう意味ですか」
「分かりません」
本当に分からない「分かりません」だった。彼女は、その数字が怖い、という顔をしていた。正確すぎて。
誰かが日付に合わせて縫い目を縫ったみたいに。
そして、俺は彼女の手を見た。
震えていた。
ラーメンは震えなかった。サングラスは泣いたが、震えなかった。
観測要員も、調理員も、五番目も、六番目も、七番目も。
1年が過ぎ、呪いは終わり、みんなは俺をただのおじさんとしか見ていなかった。
彼女だけが震えていた。12か月前の初日みたいに。
テーブルの下で、両手で膝を押さえていた。手の甲に血管が浮いていた。
「まだ、怖いんですか」
俺が訊いた。
彼女は答えなかった。代わりに、長いこと俺を見た。
斜めからではなく、正面から。12か月の間、指で数えられるほど珍しかった、その角度で。
「私は」
彼女が言った。
昨夜、キンパのせいで途切れた言葉の続きではなかった。別の文だった。
あるいは、同じ文の、反対側の端だったのかもしれない。
「私は、最初から、呪いのせいであなたが怖かったわけではありません」
部屋の中は静かだった。上の階の換気口も静かだった。
ラーメンは、キンパを食べていなかった。
俺はその言葉の意味を訊こうとして、やめた。
12か月前の初日、彼女はドアを開けて入ってきて、俺を見ても息を止めなかった。4日間で初めてのことだった。
俺は、それが訓練のおかげだと思っていた。薬のおかげだと思っていた。7回の失敗から生き残った人間だからだと思っていた。
鉄条網の向こうの子どもも、息を止めなかった。
俺は訊かなかった。六番目が、室外機の上の男に先に訊かなかったみたいに。
訊いた瞬間、何かが確かになってしまいそうだったから。
彼女が立ち上がった。録音機をポケットに入れた。
今度は空振りしなかった。一発で入った。新しい薬の容器にぶつかる音がした。
ドアノブを握った彼女が、振り返らずに言った。
「約束は守ります」
「はい」
「お連れします」
* * *
ちょうど三百六十五。我々はその数字を書いた。
なぜその数字なのかは、書けなかった。




