第43話 364日
「返却予定日は明日です」
面談官が書類を一枚、テーブルに置いた。手のひらで俺の方へ押し出す。12か月のあいだに何十回も見た動作だった。
管理文書(写し)搬出確認書。
搬出文書名:長期失踪事件終結案内に対する意見書(写し)。枚数:1枚。搬出理由:妻の字だから。返却予定日:1年後。
俺の字だった。枠にぴったり収まる字だった。12か月前、帰還して9日目。
日付を書く欄に、俺は「1年後」と書いた。彼女は直せとは言わなかった。
「返却していただきます」
彼女が言った。無表情だった。だが、12か月を一緒に過ごした俺には、その無表情の種類が見分けられた。これは、冗談を言うときの無表情だった。
「原本は警察署にあるって言いましたよね。これは写しですけど」
「規定上、写しも管理文書です」
「原本の持ち主に、直接返してもいいですか。明日」
彼女は少しのあいだ、何も言わなかった。それから確認書をまた手に取った。返却予定日の欄の隣の余白に、ボールペンで何かを書いた。俺は逆さまに読んだ。
返却先変更:原本作成者。
彼女はその横に印を押した。室長の専決だった。
* * *
帰還して364日目だった。
アパートの踊り場で子どもが去ってから、3週間以上が過ぎていた。
その3週間は、妙に静かだった。白い服の人間は来なかった。妻の棟の前を、パトカーが1日に4回、回った。子どもは海外のどこかで袖をまくり上げ、手を振っていた。時折ニュースに出た。出るたびに、少しずつ小さく見えた。
妻からの手紙は2通来た。1通目には、一行だけ書いてあった。
「インターホンが壊れてた。直しとくね」
2通目にも、一行だけ書いてあった。
「直したよ」
検閲の印を押しながら、彼女は言った。これくらい短い手紙は、検閲しやすい、と。
俺は毎朝、洗面台の水滴をつかんだ。2秒、3秒。測定表の「日々の自己使用の有無」欄に、チェックが積み重なった。反射抑制の訓練も続けた。
ラーメンはもう、目を開けてゴムのナイフを振った。目を開けても、ラーメンはやはりお父さんを見た。それでも、ゴムのナイフを振った。振りながら、泣かなくなった。
* * *
午後は、荷造りをした。
荷物というほどのものは、なかった。
管理局支給の運動服が3着。歯ブラシ。妻の手紙が40数通。七番目の手紙が1通。コピーが1枚。それから、冷蔵庫のメモ。
メモは、手紙の束のいちばん上に載せた。
彼女が紙の箱をひとつ持ってきた。箱の上には、書類がテープで貼ってあった。
押収物返還確認書。
箱を開けると、ビニールのジッパー袋が3つ出てきた。袋ごとにラベルが貼ってあった。日本の警察署が貼ったラベルの上に、管理局のラベルが重ねてあった。二つの国のラベルが重なって、元の字は半分ほど隠れていた。
刀剣類 1点(刃なし、柄のみ)。
金属円盤 1点(用途不明)。
動物の骨 3点(本人は否認)。
俺は袋を、ひとつずつ開けた。聖剣の柄は、革が少しひび割れていた。勲章は錆びていなかった。あっちの金属は、こっちの空気でも錆びないらしい。魔王の牙は3本ともそのままだった。白くて、先が鋭かった。
「返還理由を書いていただく必要があります」
「返還なのに、理由が要るんですか」
「欄があるので」
欄は、一行だった。俺はボールペンを握って、少し考えた。そして書いた。
動物の骨ではない。
彼女は確認書を受け取って、その一行を見た。そして、備考欄に書き足した。返還理由、受理。訂正不可(原記録を維持)。
12か月のあいだ「動物の骨(本人は否認)」だった記録は、最後まで直らなかった。ただ、その横に俺の一行が残った。それで十分だった。
ラーメンが通りがけに、箱を覗き込んだ。
「わあ、これが魔王の牙なんですか?」
「ああ」
「一本だけ、もらえませんか。記念に」
「だめだ。動物の骨だから、検疫に引っかかる」
ラーメンは笑った。そしてポケットから何かを取り出して、箱の上に置いた。新しいバラクラバだった。今度は、額の黄色い熊の代わりに、白い兎が刺繍してあった。
「この前の、血がついたじゃないですか。これ、使ってください。もう使うことはないでしょうけど」
「じゃあ、なんでくれるんだ」
「心の準備です」
* * *
夜11時、白い部屋。
いつもなら、俺が寝室へ戻る時間だった。
彼女は戻れとは言わなかった。俺も立ち上がらなかった。
俺たちはテーブルを挟んで座っていた。彼女はいつもの席、テーブルの角に斜めに。
「最後の夜ですね」
俺が言った。
「そのとおりです」
「七番目の時も、こうして一緒にいたんですか。最後の夜は」
「七番目は、最後の夜をここで過ごしていません」
俺にはその言葉の意味が分かった。七番目の最後の夜は刑務所だった。
1年が過ぎ、人々が彼を普通に見始めた頃、彼はすでに人を一人殺したあとだった。
彼女が立ち上がった。椅子を持ち上げた。
俺は、出て行くのかと思った。
彼女は椅子を持ったままテーブルを回って、俺の横へ来た。俺の椅子の隣に自分の椅子を下ろして、座った。
真正面ではなかった。角でもなかった。横並びだった。
12か月のあいだ、彼女は一度も俺の隣に座らなかった。
俺たちは同じ方向を見た。向かいの壁全体を覆う鏡を。
鏡の中では、二人が並んで座っていた。三十九歳の痩せこけた男と、四十代半ばの灰色の髪の女。
鏡の中では、どちらも普通だった。
「鏡で見るなら、平気ですか」
俺は訊いた。
「鏡で見るなら、平気です」
彼女は言った。それから、付け足した。
「鏡で見なくても、実は……」
彼女は言葉を止めた。
俺は待った。12か月のあいだ、彼女が言葉を止めるたびに、俺は待った。
彼女はたいてい、それ以上は話さなかった。
でも今日は、彼女の唇がもう一度動いた。
下唇は噛まなかった。12か月のあいだ毎日噛んでいた場所には、かさぶたができていた。
「実は、私は……」
* * *
ドアが開いた。
「室長!おじさん!キンパです!」
ラーメンだった。
両手にアルミホイルの包みを抱えていた。後ろには、水筒を持ったサングラスが立っていた。2人1組。
ラーメンは白い部屋に入るなり、俺たち二人が並んで座っているのを見た。
そして、止まった。
「あ……僕、タイミングが……」
「入ってください」
彼女が言った。声は、いつもの調子に戻っていた。
ラーメンはおずおずとテーブルにキンパを置いた。四本だった。
「最後の夜なんで。おじさん、明日からは汁物が飲めるじゃないですか。だから今日が最後のキンパなんです。汁物禁止、最後の日です」
「それ、明日には解けるんですか」
俺は彼女を見た。
彼女は答えずに、キンパを一本取った。
「投稿の削除要請書は、明日の午前中に上がります」
サングラスが水筒を開けた。湯気が立った。麦茶だった。
「これ、汁物じゃないです。お茶です」
誰も訊いていないのに、サングラスが言った。
12か月前、この施設のどこかで「豆乳は汁物ではない」という判断が下された。今日は、麦茶が汁物でなくなった。
この施設の汁物の判定基準は、最後まで誰にも分からなかった。
俺たち四人は、白い部屋でキンパを食べた。
ラーメンは俺と目が合わないように、俺の左耳の横の壁を見た。サングラスは右の壁を見た。
彼女は鏡を見た。俺はキンパを見た。
誰も互いを見ていないのに、不思議と、みんな一緒にいた。
ラーメンが麦茶のコップを持ち上げた。
「乾杯、しますか」
「何のために」
「うーん……フンニョニのために、です」
子牛の名前だった。
サングラスがコップを持ち上げた。
彼女も、何も言わずにコップを持ち上げた。
俺も持ち上げた。
俺たちは、秘密の訓練という嘘から生まれた子牛のために、麦茶で乾杯した。
コップがぶつかる音がした。白い部屋で、初めて鳴る音だった。
12か月のあいだ、この部屋のいちばん小さな音を探し続けてきた俺は、その音を捕まえなかった。ただ、聞いた。
* * *
ラーメンとサングラスがアルミホイルを片づけて出ていった。
11時50分だった。
彼女は、続きを言わなかった。
さっき止まった文は、キンパと一緒にアルミホイルに包まれて出ていったらしい。
俺は、聞かなかった。
代わりに、別のことを聞いた。
「9日目に渡したメモ、覚えていますか」
「覚えています」
「2番は、まだ保留ですか」
2. 『消される』という言葉 — 管理局もこの言葉を使うのか。
1年近く前、彼女はその質問に線を引き、『保留』と書いた。
メモはその後、何度か行き来したが、2番の横の『保留』は最後までそのままだった。
彼女は今、そのメモを取り出した。ポケットから。薬のケースの横から。
メモは折り目が擦り切れて、今にも破れそうだった。
彼女は2番の横の『保留』に線を引いた。そして、その横に書いた。
俺は今回は、逆さまに読まなかった。並んで座っていたから。そのまま読んだ。
回答:使います。
「管理局も、その言葉を使います」
彼女は声に出して言った。
「記録には『行方確認不可』と書きます。私たちの間では、消されたと言います。12か月前にそう答えられなかったのは、あなたがまだ、その言葉を聞いてはいけない人だったからです」
「今は」
「今は、明日出ていく人です」
彼女はメモを折りたたんで、俺の手に握らせた。彼女が俺の手に何かを直接握らせたのは、初めてだった。書類を手のひらで押し出すのではなく。指が触れた。冷たかった。彼女の手は、ほんの少し震えていた。薬の及ばない震えだった。
* * *
壁時計が11時59分を指した。
彼女が立ち上がった。椅子を持ち上げて、元の場所、テーブルの端に戻した。その椅子は明日から、別の誰かの席になる。九番目が来れば。
ドアノブを握った彼女が、振り返らずに言った。
「明日の朝」
「はい」
「ラーメンを先に送ります」
彼女は、少しの間、言葉を止めた。
「息を止めるかどうか、見ていてください」
* * *
その夜、白い部屋の鏡には、二人が並んで映った。
鏡は、その日も嘘をつかなかった。




