第42話 取引
「うん。」
俺は答えた。ドア一枚を挟んで。くまの面の中で。
ドアの内側が、ひどく静かになった。息遣いも聞こえない。
妻が息を止めているようだった。それとも、息を止めていたのは俺のほうだったのかもしれない。
「ドアは開けるな。」
俺は言った。
「どうして?」
妻が聞いた。すぐに。迷いなく。
妻はいつもそうだった。理由を先に聞く。アカバネに配置になったときも、1年だけ離れて暮らそうと言ったときも、まず「どうして?」だった。
そして答えを聞くと、その答えに合わせて、枠からあふれる字を書いた。
「25日だけ。」
「なんで25日なんだ?」
「1年だから。」
「それ、どういう意味。あなた、1年になったの? 4年よ。4年と……」
「ごめん。」
妻が言葉を止めた。
俺はドアに額を当てた。面の毛糸越しに、ドアの冷たさが伝わってくる。ドア一枚。妻も反対側で、ドアに寄りかかっているようだった。
ドアが、ほんの少し内側へ押される音がした。
「飯は食べたか?」
俺は聞いた。ラーメンに言ったのと、同じ言葉で。
ドアの内側で笑い声がした。泣き声だったのかもしれない。二つが混ざっていた。
「それを今、聞くの?」
「うん。」
「……食べた。あなたが食べろって言うから。」
* * *
階段から杖の音がした。
いや、杖の音ではなかった。小さな靴が階段を上ってくる音だ。一段ごとに二度、足を置く音。脚の短い者の歩みだった。
そのあとに、大人の足音が二つ続いた。
彼女は暗がりで体を巡らせた。録音機を握った手が、ポケットの上で止まる。
センサー灯の消えた9階の廊下の突き当たり、階段の踊り場に小さな影が現れた。子供は息を荒げていた。9階まで歩いて上がってきたのだから。
エレベーターは点検中だった。75年待った人間がいても、エレベーターの点検は待ってはくれない。
「はあ、はあ。この国の階段は、はあ、いつも多すぎる。」
子供は老人の口調でぼやいた。後ろにいた老司祭の一人が、子供の背を支える。
「ここで話さないでください。」
俺はドアから額を離して言った。
「階段へ行きましょう。」
* * *
俺たちは8階と9階の間の踊り場に座った。
正確には、子供が階段に座り、俺はその三段下に座った。そうしないと目線の高さが合わなかった。
老司祭が二人、子供の後ろに立った。
彼女は俺の後ろ、二段下に立った。斜めに。
8階のセンサー灯が点いていた。黄色い光が下から上へのぼって、子供の顔を照らした。
子供は俺を見ても、息を止めなかった。
センサー灯は10秒後に消えた。暗がりの中で、子供が言った。
「手を振れ。灯りをつけろ。」
俺は手を振った。灯りが点いた。
それからは、10秒ごとに手を振らなければならなかった。75年待った人間と決着をつけている間、俺は10秒ごとにセンサー灯へ手を振った。
あっちの王は、こんな交渉を見たことがないだろう。
「その、おかしな毛糸を外せ。」
子供が言った。
「俺には効かない。お前も分かっているはずだ。」
俺は彼女を振り返った。彼女は、ほんの少しだけうなずいた。
俺は覆面を外した。
階段の踊り場の空気が、汗に濡れた顔に触れた。
老司祭の二人は俺の顔を見て、また頭を下げた。
子供は頭を下げなかった。代わりに、長いこと見た。
11か月の間、裸眼で俺をあれほど長く見た人間はいなかった。彼女でさえ、斜めから見るだけだった。
「平凡だな。」
子供が言った。
「あの方も平凡だった。足が痛かっただけだ。」
「俺は足が痛くありません。」
「まだだ。」
子供は笑った。抜けた前歯の跡が、センサー灯の光に見えた。
その笑みが何を意味するのか、俺は聞かなかった。聞いた瞬間、何かが確かになってしまいそうだった。
六番目が、室外機の上の男に先に問わなかった時のように。
「決めたか。」
子供が尋ねた。
「決めました。」
「言え。」
俺は手を振った。灯りが点いた。
* * *
「あなたたちが探していた本物が、俺だというのは確かなんですか。」
俺は尋ねた。
子供の眉が上がった。子供はその言葉を知っていた。
六番目が司祭会議で言った言葉だった。211枚のうちの百何枚目かの頁。俺はその頁を十回以上読んだ。
「一寸の嘘もなく。」
子供が答えた。その答えも知っていた。あのとき、彼が返した答えだった。
子供は、自分が年老いたときに言った言葉を、九歳の口で言い直していた。
「それなら、俺はあなたたちの上には立ちません。」
俺は言った。
「あなたたちの言葉も聞きません。」
子供は何も言わなかった。センサー灯が消えた。
俺は手を振らなかった。暗闇の中で、ひとつだけ付け足した。
六番目の言葉ではなく、俺の言葉だった。
「代わりに、あの扉の前には立っています。」
手を振った。灯りが点いた。
「あなたたちがあの扉をまた叩くのなら、俺はそのたびに、あの扉の前に立っています。五秒前に戻ってでも。」
「あなたたちの神にはなりません。あなたたちの門番にはなります。あの扉、ただ一つの。」
* * *
子供は長いこと、俺を見ていた。センサー灯が消えた。
今度は子供が手を振った。短い腕で。灯りが点いた。
「では、私たちは消される。」
子供が言った。老人の口調ではなかった。九歳の声だった。高く、細く、少し震えていた。
「分かっているか。私は毎朝、扉の枠に線を刻む。線と線の間は毎日広がっていく。」
「お前を連れて行けなければ、その線はいつか床に届く。床の下には、線を刻むところがない。」
俺はその言葉を聞いた。そして、六番目の手記を思った。
室外機の上にうずくまっていた、背の高い男。コーヒーを『贈り物』にした男。弟の使いに来た男。
翌朝、一週間も空のままだった部屋。新しいシーツ。空の椅子。
そして、一行だけの欄。事由不十分。事由:救済。
「それが、あなたたちがしでかしたことの値段です。」
俺は言った。
子供は答えなかった。センサー灯が消えた。
今度は誰も手を振らなかった。暗闇が十秒、二十秒と続いた。
闇の中で、子供が立ち上がる音がした。小さな靴が階段を踏む音。
「次の本物を探す。」
子供が言った。また、老人の口調で。
「この国になければ、他の国で。私にはまだ、線が幾つか分の時間がある。」
足音が階段を下りていった。一つの段に二度ずつ。
そのあとから、大人の足音が二つ。
下の階のセンサー灯がひとつずつ点いて、遠ざかっていった。7階、6階、5階。1階で最後の灯りが点いて、消えた。
* * *
9階に上がり、ドアの前に立った。
もう一度、額を当てた。
「行ったよ。」
「誰が?」
「変な連中。」
「あなたは?」
「俺も行かなきゃ。」
ドアの内側からは、何の音も聞こえなかった。
俺はドアノブが回るのを待った。
妻はいつも理由を尋ねた。答えを聞けば、そのとおりにした。
でも、今回は答えなかった。
妻は理由を尋ねなかった。
ドアノブは回らなかった。
「25日。」
妻が言った。
「うん。」
「その日はインターホンを押して。暗証番号、変わったから。」
俺は笑った。覆面の中で。
妻は、俺が暗証番号をいつも忘れるのを知っていた。
アカバネでもそうだった。
そのたび、妻はドアの外に立つ俺をしばらく待たせて、笑っていた。
「うん。」
ドアの内側で、スリッパの音が遠ざかった。
かかとを引きずる音。
リビングの方へ。たぶん、台所の方へ。
何かを剥がす音がした。
冷蔵庫の扉に貼ったマグネットのような音。
スリッパの音が、また近づいてきた。
ドアの隙間から、紙が一枚、押し出されてきた。リビングの明かりを背に、黄色い線に沿って。
俺はしゃがんで、それを拾った。暗がりで、字は見えなかった。
彼女が録音機の画面を俺の方へ向けて、照らしてくれた。ほんの一瞬だけ。
紙に書いてあったのは「ちゃんとごはん食べるこ」。
最後の『と』は、紙の端で切れていた。
アカバネの冷蔵庫に貼ってあった紙だった。
妻が、冷蔵庫ごとソウルに運んできた紙だった。
4年間、その冷蔵庫に貼ってあった。そして今日、ドアの隙間から出てきた。
「それ、返して。25日後に。」
ドアの内側から、妻が言った。
「うん。」
俺はその紙を、覆面の内側、額のところに挟んだ。クマの顔のすぐ後ろに。
* * *
帰りの車の中は静かだった。
ラーメンは助手席で眠っていた。
サングラスは後部座席の反対側の端で、窓に頭を預けていた。
午前3時。魔王軍の夜襲の時間。
俺は起きていた。
覆面を外して、膝の上に置いた。
クマの顔に、鼻血が乾いてこびりついていた。
ラーメンに新しいのを、買ってやらないといけないなと思った。
これは後の話だが、3日後、局長が出張から戻った。
管轄の警察署に送る公文の決裁欄。三つの枠すべてに、判が押された。
妻の棟の前を、パトカーが1日に4回、回り始めた。
公文の表題は「宗教団体関連 陳情者身辺保護協力要請」だった。
理由欄には、彼女が書いた一行があった。
「陳情者は夫の帰りを待っている。」
局長は、その理由を直せとは言わなかった。
白い服の者たちは、もう来なかった。
代わりに、1週間後のニュースにあの子供が出た。
海外支部の巡回に出発すると言った。
空港で、子供は袖をまくり上げて手を振った。カメラに向かって、手のひらを広げて。
高速道路の明かりが、車内を通り過ぎていった。
彼女はハンドルを握り、前だけを見ていた。
バックミラーに、彼女の目が映った。
「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか。」
彼女が言った。彼女の方から先に許可を求めるのは、珍しいことだった。
「どうぞ。」
「奥様がドアを開けなかったのは。」
バックミラーの中の彼女の目が、俺を見た。
「あなたのお願いのせいではありません。」
俺はその理由を尋ねた。彼女は答えなかった。
高速道路の明かりが、また車内を通り過ぎていった。
彼女の手が、ハンドルを少し強く握った。
* * *
扉一枚を隔てた二人は、同じ音を聞いていた。
センサー灯が消える音。




