第41話 妻の家
覆面には、くまの絵が描いてあった。
ラーメンの冬用バラクラバだった。目の部分だけが開いた毛糸の覆面で、額のところに黄色いくまの顔が刺繍してある。スキー場で買ったものだと、ラーメンは言った。施設にある覆面は、それ一つだけだった。管理局には帰還者の外部移動申請書の様式はあっても、覆面はなかった。
「これ、かぶれば呪われませんか」
と、ラーメンが聞いた。
「目は見えてる」
「じゃあ、なんでかぶるんですか」
「心の準備」
サングラスが笑いをこらえた。彼女は笑わなかった。彼女は運転席に座って、ナビに住所を打ち込んでいた。十一か月間、俺に見せなかった住所だった。俺は後部座席から、その住所を見ないように窓の外を見た。それでもナビの音声は聞こえた。区の名、洞の名、マンションの名。十一か月守られた秘密が、機械の声で、三言で解けた。
帰還して三百四十日目の夜十時。車はソウルへ向かった。ソウルに着く前に、日付が変わった。三百四十一日目。
* * *
車の中で、彼女が規則を言った。
「一つ、奥さんの前には出ません」
「分かっています」
「二つ、他の人と同じ空間で目を合わせません。エレベーター、階段、廊下」
「分かっています」
「三つ、時間を使ったら、何秒だったか私に報告します」
「録音機、持ってるじゃないですか」
「録音機は私のポケットにあります。あなたが私より先へ行くと、測れません」
彼女は運転しながら、バックミラーで俺を見た。バックミラーは鏡だ。鏡でなら、普通に見える。十一か月の間、彼女が俺を見るときに一番楽な角度がバックミラーだったと、俺はその日、初めて知った。
休憩所で、ラーメンがくるみ饅頭を買った。一袋を破って、後部座席へ差し出した。頭は回さず、腕だけを後ろへ伸ばした。十一か月の間、配膳口に食器を押し込んでいた腕だった。俺はくるみ饅頭を一つ取った。温かかった。
「おじさん、奥さんに会ったら、なんて言うんですか」
「会わない。今日は」
「でも。いつかは」
俺は答えられなかった。十一か月の間、その問いを何百回も考えた。すみませんと言おうか。会いたかったと言おうか。四年三か月、どこにいたのか説明しようか。魔王を倒したと。仲間四人を埋めたと。それから帰ってきたら、一年の間、仇のように見られたと。どの文も、その欄には収まらなかった。
「飯、食ったかって聞く」
俺が言うと、ラーメンは少し黙ってから言った。
「それ、いいですね」
後部座席の反対の端にくっつくように座っていたサングラスが、鼻をすすった。彼女は移動の間ずっと、窓の外ばかり見ていた。ハンドルを握ったままの彼女は、何も言わなかった。バックミラーの中の彼女の目が、少しの間だけ俺を見て、それから道路に戻った。
「四つ目」
彼女は少しの間、言葉を止めた。
「戻ってきます。私と一緒に」
* * *
アパートは古い団地だった。
15階建ての棟が12棟。正門の警備室には明かりがついていた。
警備員はいすに寄りかかってテレビを見ながら、うたた寝をしていた。テレビでは囲碁の中継をやっていた。
俺たちはその前を通った。警備員は起きなかった。
囲碁は人を眠らせるのに、秘密の訓練と同じくらい効いた。
妻の棟は、団地の一番奥だった。
棟の入口のガラスドアの前に、白い服を着た人間が二人立っていた。
彼女が車を停めて、助手席のラーメンに言った。
「ラーメンはここで待機。サングラスは正門の警備室の前に」
「はい」
「二人とも、何もしないでください。写真も撮らないでください」
「はい」
彼女が車を降りた。
俺も降りた。くまのマスクを被ったまま。
白い服の二人が俺たちを見た。正確には、彼女を見た。
俺は頭を下げて、彼女の後ろにぴったり張りついていた。
彼女が身分証を出した。管理局の身分証だった。
白い服の二人は身分証を見て、道を譲った。
身分証に何が書いてあったのかは、俺には見えなかった。あの二人は、たぶんその機関の名前を初めて見たのだろう。
初めて見る機関の名前ほど、人はよく道を譲る。
* * *
エレベーターの前に紙が貼ってあった。
エレベーター定期点検中。ご不便をおかけして申し訳ありません。
— 管理事務所
妻の手紙を思い出した。エレベーターの点検がある、と書いてあった。数週間前の手紙だ。
点検は、まだ終わっていなかった。
この国の点検は、理由の欄みたいに、いつも一行で、いつも長い。
階段で上がった。妻の家は9階だった。
階段ごとにセンサー灯があった。一階上がるたびに、灯りが点いて、10秒ほどで消えた。
彼女が前で、俺が後ろ。彼女の足音と、俺の足音。
俺は、あっちの魔王城の階段を思い出さないように、段数を数えなかった。代わりに、センサー灯が点く回数を数えた。
7階で彼女が止まった。手を挙げた。俺も止まった。
上から音がした。ドン。ドン。
ドアを叩く音。いや、叩いているのではなかった。
何か重いもので、ドアを打つ音だった。
* * *
9階の廊下は、センサー灯が点いていた。
階段の端から、首だけ出して覗いてみた。
廊下の突き当たり、玄関のドアの前。土だけが入った植木鉢。取っ手に掛かったビニール袋。
写真の中の、あのドアだった。
その前に、白い服が三人立っていた。
一人はドアの横に張りついて、何かをつぶやいていた。祈りのようだった。
一人はスマホで、その光景を撮っていた。
そしてもう一人は、消火器を持っていた。廊下の壁に掛かっていた、赤い消火器。
そいつは、消火器の底でドアロックを打ち下ろしていた。
ドン。
ドアロックのカバーにヒビが入った。
ドアの内側から音がした。人が後ずさる音。何かが倒れる音。
そして、声。
「やめてください!警察を呼びました!」
妻の声だった。
4年3か月。いや、11年。いや、そのふたつを足した時間のあいだに——俺はあの声を、映像通話で一度だけ聞いた。
スピーカー越しの声だった。
今のは、ドア一枚越しの声だった。
ドア一枚は、スピーカーより薄かった。
消火器を持った白い服が、もう一度、腕を上げた。
* * *
俺は階段から飛び出した。
考えるより、体が先だった。あっちで11年かけて、体に刻んだものだ。
3歩で、廊下の中ほどまで出た。
消火器を持った白い服が、音に振り返った。
俺と、目が合った。
そいつの息が止まった。消火器が宙で止まった。
そして、打ち下ろす方向を変えた。ドアではなく、俺へ。
自分の人生でいちばん怖いものに向かって、全力で。
横で、スマホを持った白い服が悲鳴を上げた。祈っていた白い服は、ドアに背を張りつけて、へたり込んだ。
三人とも、俺を見た。裸眼で。9階の廊下で。
そして、ドアの内側で、妻がその悲鳴を聞いた。
「何ですか?どうしたんですか?」
ドアノブが回る音がした。妻がドアを開けようとしていた。
俺は、いちばん小さな音を探した。
センサー灯のタイマー。廊下の天井の小さな機械が、10秒を数える音。
カチ。
その音を掴んだ。そして、後ろへ引いた。
力の限り。
* * *
世界が、逆さまに流れた。
消火器が俺の側から落ちて、またドアの方へ戻っていった。白い服の首が回った。俺を見る前へ。俺の足が後ろへ下がった。三歩。階段の端へ。ドアノブが逆に回った。妻の「何ですか?」が、逆さまにドアの内側へ吸い込まれていった。
1秒、2秒、3秒。
鼻の奥が熱くなった。
4秒。
左目の奥がずきずきした。左の眉の上の傷痕がつっぱった。
5秒。
俺は、離した。
* * *
俺は、もう一度、階段の端に立っていた。廊下では、白い服が三人、ドアの前にいた。消火器がまた上へ上がっていった。5秒前とまったく同じ光景だった。
今度は、飛び出さなかった。
俺は、階段の踊り場の壁に付いた小さな箱を見た。さっき上がってくるときに見たものだ。センサー灯のブレーカー。管理事務所の職員用。蓋には「無断操作禁止」と書いてあった。
俺は蓋を開け、9階のスイッチを下ろした。
廊下が真っ暗になった。
消火器はドアを打つ代わりに、空を切った。白い服が体勢を崩してよろめいた。スマホを持った白い服が、フラッシュを点けようと画面をまさぐった。暗闇の中で、彼らは互いを見られなかった。俺も彼らを見られなかった。彼らも俺を見られなかった。
裸眼で見られなければ、呪いは何でもない。
彼女が俺の横を通り過ぎ、廊下へ出た。暗闇の中で、彼女の声が聞こえた。落ち着いていた。11か月のあいだ、白い部屋で聞いていた声だった。
「国家移住管理局です。器物損壊の現行犯です。消火器を下ろしてください。」
消火器が床に落ちる音がした。白い服の三人が、暗闇の中を階段の反対側へ走っていく音がした。彼らは非常階段へ逃げた。センサー灯の消えた9階を通り過ぎ、センサー灯の点いた8階へ。下の階で明かりが一つずつ点き、遠ざかっていった。
廊下には、暗闇と、俺と、彼女と、ドア一枚だけが残った。
* * *
鼻血が出た。左の鼻孔から。
訓練で4.6秒を巻き戻した日より、多かった。俺はクマの覆面の内側で、それを拭った。ラーメンの覆面が赤くなった。
彼女が闇の中で録音機を取り出した。画面の光が、彼女の顔を下から照らした。
「5秒です。」
彼女が小さく言った。
「最大値です。」
俺は答えなかった。ドアを見ていた。暗闇の中でも、ドアは見えた。ドアの隙間から、奥の居間の明かりが漏れていた。細い黄色い線。その線の向こうに、妻がいた。
ドアの内側で足音がした。ドアの方へ近づいてくる足音だった。スリッパだった。妻はいつもかかとを引きずって歩いた。赤羽根の家の板の間でも、そうだった。
足音は、ドアのすぐ内側で止まった。
「どなたですか。」
妻が聞いた。
俺は答えられなかった。
声を出せば、妻はドアを開ける。ドアを開ければ、妻は俺を見る。廊下は暗い。だが居間の明かりが、ドアの隙間から溢れてくる。その明かりの中で、妻は自分の人生でいちばん恐ろしいものを見ることになる。25日。あと25日だけ。
俺は口を閉じた。クマの覆面の中で歯を食いしばった。六番目がX印を踏みながら歯を食いしばっていた、あのときのように。
ドアの内側が静かになった。
しばらくして、妻の声がまた聞こえた。さっきより小さかった。ドアにぴったりと口を寄せて言うようだった。ドア一枚分の厚さだけを隔てて。
「……あなた?」
* * *
そのドアは薄かった。あの夜の、二人にとっては。
我々は、その4.5センチメートルを隔てて立つ二人を、同じページに広げて並べた。そのページをめくらないまま、とても長いあいだ。




