第40話 侵入
白い服を着た人たちが、有刺鉄線の前に折りたたみ椅子を広げて座っていた。
十二人だった。椅子は十三脚。真ん中の一脚だけが空いていた。
人々は水筒から何かを注いで飲んでいた。湯気が立っていた。朝の空気が冷たいせいで、湯気は長く残った。誰が見ても、山へ湧き水を汲みに来た老人会の集まりのようだった。白い司祭服でなければ。
俺はその光景を、白い部屋のモニターで見ていた。外郭監視カメラ4番。画面の隅に時刻が映っている。午前6時42分。帰還して340日目。
「いつからいたんですか」
「明け方4時からです」
彼女が言った。寝間着の上にジャンパーを羽織り、髪が片側に押しつぶされていた。明け方5時にラーメンが起こしたのだという。ラーメンは今、モニターの横でカップ麺の代わりに水筒を抱えていた。向こうの人たちを見て、それに倣って沸かしてきたらしい。汁物禁止は俺の食器にだけ適用されている。
「通報はしましたか」
「しました」
「警察は何と言っていますか」
「宗教行事に見える、と。私有地ではなく国有林の境界なので、椅子を広げて座っているだけでは措置できない、と」
「あそこ、軍施設の秘密訓練をやると書いて貼っておいたじゃないですか」
「貼ってあります」
彼女がモニターを指した。有刺鉄線の支柱に、ラミネート加工された案内板が貼られている。軍施設訓練区域。立入禁止。11か月の間、この施設を守ってきた標準文言だった。牛一頭を残して村を空にした文言。子牛の名になった文言。
白い服の男が一人、その案内板の前で写真を撮っていた。記念写真のようだった。
* * *
6時50分、空いていた椅子に誰かが座った。
子供だった。白い司祭服に、手の甲まで覆う袖。大人の司祭が一人、子供を抱き上げて椅子に座らせた。子供の足は地面に届かない。
子供は袖をまくり上げ、水筒の蓋に注がれたものをひと口飲んだ。そして、カメラ4番をまっすぐに見た。
カメラを知っている目だった。どこにあり、どの角度で撮っているのか。子供はカメラを見たまま手を上げ、手のひらを広げてこちらに向けた。
ミサで司祭たちが「あの方」を指すときの、あの仕草だった。六番目の手記で百回は読んだ仕草。
「俺を呼んでいるんです」
俺が言った。
「わかっています」
「出なければなりません」
「いけません」
「あの人たち、俺が出なければ帰りませんよ。75年待った人です。椅子に座って待つのが、あの人の専門です」
彼女は答えなかった。モニターの中の子供を見た。子供もまた、カメラを通して彼女を見ているようだった。やがて、彼女が先に目を逸らした。
「有刺鉄線の内側、10メートルまでです」
彼女が言った。
「私も一緒に行きます。ラーメンはここで録音機を預かってください」
ラーメンは水筒を置いて、録音機を両手で受け取った。聖剣を受け取る騎士のように。
* * *
有刺鉄線までは200メートルだった。
11か月ぶりに、施設の建物の外へ出た。正確には、初めてではない。ビデオ接見のときは装備室まで行ったし、子牛の写真を見た日には、中庭で日差しを浴びたこともあった。だが、有刺鉄線のところまで歩いたのは初めてだった。伸びすぎた草が足首をかすめた。あっちの草より柔らかかった。
彼女は俺の左側、二歩後ろを歩いた。正面でも横でもない位置だった。11か月のあいだ彼女が座っていたテーブルの角の角度を、そのまま歩みに置き換えたみたいだった。
有刺鉄線の手前10メートルで止まった。
白い服を着た12人が、一斉に立ち上がった。椅子の脚が乾いた草を引っかく音が、12回鳴った。そして、彼らは俺を見た。
12人のうち10人が息を止めた。
水筒のふたが地面に落ちた。誰かが後ずさりし、折りたたみ椅子に引っかかって倒れた。誰かが両手を合わせた。誰かが泣き始めた。肉眼だった。有刺鉄線はガラスじゃない。あの人たちは今、自分の人生でいちばん怖いものを見ていた。
老司祭の二人も息を止めた。子供の椅子の両脇に立っていた二人だ。けれど二人は、息を止めたまま、先に深く頭を下げた。
そして、子供。
子供は椅子に座ったまま、俺を見た。脚を揺らしていた。地面に届かない脚を前後に。子供の息は止まらなかった。子供の顔は変わらなかった。子供は俺を見て、とてもゆっくり笑った。抜けた前歯の隙間が見えた。
その笑い方を、俺はどこで見たのか知っていた。
11か月前の白い部屋。扉が開いて、灰色の髪の女が入ってきた。彼女は俺を見ても息を止めなかった。四日間で、初めてのことだった。
俺は顔を背けて、彼女を見なかった。見たら、何かを訊いてしまいそうだった。
* * *
「75年、待った。」
子供が言った。老人の声だった。
正確には、9歳の喉から出る老人の抑揚だった。高く細い声が、ゆっくりと、重く言った。
「そして、さらに3年近く待った。六番目がああして去ってからは」
「その人の名前を、知っていますか」
俺は訊いた。
「『あの方』と呼んでいた」
子供が言った。
「あの方が、私から老いを持っていった。あのときは贈り物だと思った。10歳ほど若くなったときは嬉しかった。20歳ほど若くなったときは感謝した。それからは……」
子供は自分の手を見下ろした。袖からは手が半分しか出ていなかった。小さな手だった。
「それからは、毎朝、ドアの枠に線を刻んでいる」
「俺に、何を求めているんですか」
「分かっていて訊くんだな」
子供は脚を止めた。
「我々の神になれ。あの方のように。いや、あの方よりも、よく。あの方は最初、我々を拒んだ。だから遅れた。お前は遅れるな。私はもう、遅れる時間がない」
「嫌だと言ったら?」
子供は答えなかった。代わりに、隣に立つ老司祭へ手を差し出した。
老司祭が、子供の手に何かを握らせた。子供はそれを有刺鉄線の間から差し出した。手が小さくて、有刺鉄線の隙間を簡単に通り抜けた。
写真だった。モノクロのコピー。アパートの廊下。玄関のドア。土だけが入った植木鉢。ドアノブに掛かったビニール袋。
50日前、面会要請書に添付されていた写真と同じ角度だった。
ただ、今回の写真には人が写っていた。玄関のドアの前で、ゴミ袋を持って出てくる女の後ろ姿。
肩幅が狭かった。耳の下まで届く短い髪だった。ゴミ袋を持つ手が、袋よりも小さかった。
俺は、その後ろ姿を知っている。
4年3か月なのか、11年なのか、分からない時間のあいだ、一日も忘れたことのない後ろ姿だった。
* * *
指先が、音を探した。
草葉の擦れる音、水筒から湯気の漏れる音、誰かが泣く音、有刺鉄線が風に震える音。俺はその音を、全部聞いた。
つかめば、止まる。
止まれば、あの有刺鉄線を越えられる。あの子供の首まで、あと三歩だ。
11か月前、アカバネのリビングで頭のなかで4回計算した動線が、今、5回目に描かれた。
俺は、つかまなかった。
鎖骨のあざが痛んだ。ラーメンのゴムナイフ。反射抑制——成功。
背後で、彼女が一歩近づく音がした。二歩後ろから、一歩後ろへ。
彼女の手が、俺の肘のあたりまで来て、止まった。触れなかった。許されていないことだから。
「お帰りください」
彼女が言った。
子供が笑った。今度は、老人のように笑わなかった。九歳のように笑った。
「あの女は、相変わらず震えているな」
彼女は答えなかった。
俺は背を向けた。200メートル歩いて、建物へ戻った。
背後で、椅子を畳む音が13回鳴った。いや、12回だった。子供は椅子を畳まなかった。老司祭が子供を抱き上げ、別の司祭が椅子を畳んだ。
建物の扉の前で、子供が最後に叫んだ。老人の声で。
「お前の妻は、今夜ひとりだ」
* * *
白い部屋に戻ると、ラーメンが録音機を突き出した。
画面は空だった。SYNC ERRORがない。俺が止まらなかった証拠だった。
ラーメンは、その空の画面を何かの勲章みたいに持っていた。
「おじさん、止まらなかったんですね」
「ああ」
「僕だったら、止まってました」
「お前は止まれないだろ」
「だからですよ。止まれるなら、止まってたって言ってるんです」
彼女は、もう受話器を手にしていた。管轄の警察署だった。
俺は、彼女が話すのを聞いた。保護要請、身辺の脅威、宗教団体。
相手が何かを尋ね、彼女が答えた。
「要請機関は、国家移住管理局特殊課です」
相手がまた何かを尋ねた。彼女は少し黙って、それから答えた。
「公文書は、今、起案中です」
通話が終わった。彼女が受話器を置いた。
「公文書が必要だそうです」
「じゃあ、送ってください」
「起案して、課長決裁、局長決裁を受けなければなりません。決裁欄が三つあります」
「今夜までに間に合いますか」
「局長は本日、海外出張中です」
ラーメンが水筒を落とした。今度は、中にスープが入っていた。床にこぼれた。誰も拭かなかった。
俺は彼女を見た。彼女は今回も、俺の左肩の向こうを見ていた。でも今日は、そこに何もないと、俺たちは二人とも知っていた。
「俺が行きます」
「呪い期間です。残り25日です」
「分かっています。妻の前には出ません」
「奥さんのアパートには隣人がいます。警備員もいます。エレベーターには人が乗ります」
「分かっています」
「その人たちが、あなたを見たら……」
「だから、一緒に来てほしいんです」
彼女は、俺の顔をまっすぐ見た。斜めにではなく。
11か月のあいだに、何度かあったことだ。今回は、長く見ていた。
彼女は答えず、引き出しを開けた。書類を一枚、取り出した。
帰還者外部移動申請書。決裁欄は、一つだけだった。室長専決。
彼女は、その一つの欄に、自分の判を押した。
* * *
あの子供は、有刺鉄線の向こうの男を見て笑った。75年と、さらに3年近くを待った笑みだった。
我々は、その笑みが何を計算していたのかを知っている。ただ、その計算がなぜいつも一つずつずれるのかは、我々にも分からなかった。




