第39話 訓練
ラーメンが目を閉じて俺に飛びかかってきた。
正確には、目を閉じたままゴムナイフを振り回した。
白い部屋のテーブルを壁際に押しやって空けたスペースでのことだった。
ラーメンは膝と肘にプロテクターを着け、ゴムナイフを両手で握り、目をぎゅっと閉じたまま俺の方へ歩いてきた。足取りはひどく慎重だった。地雷原を歩く人間みたいだった。
「おじさん、どこにいますか?」
「それを教えたら訓練にならないだろ。」
「じゃあ、せめて音だけでも出してください。」
俺は咳払いをした。
ラーメンは音のした方へゴムナイフを振り下ろした。
俺はそこにいなかった。ゴムナイフがテーブルの角を打った。ゴン、と鈍い音がした。
ラーメンはテーブルに「すみません」と謝った。
訓練を組んだのは面談官だった。名前は帰還者能力統制訓練(週3回)。
目的は測定表のいちばん上に印刷されていた。反射的な使用を抑制し、意図的な使用の精度を高める。
簡単に言えば、誰かにいきなり飛びかかられても時間を止めない練習。そして止めるときは、望んだ分だけ正確に止める練習。
志願したのはラーメンだった。正確には、ラーメンだけが志願した。
他の職員たちは、この部屋に入ると今でも息を止める。
ラーメンは10か月の間、この部屋に食器を運んでいた。そのうち、息の止め方を忘れた。代わりに、目を閉じることを覚えた。
「なんで目を閉じるんだ?」
初日に、俺はそう聞いた。
「目を開けたままやると、僕が本当に刺しちゃいそうなので。」
ラーメンは正直だった。
裸眼で俺を見ると、ラーメンは今でも『お』で始まる何かを見る。お父さん。
9か月ほど前、ラーメンが自分から打ち明けた。酒を飲むと殴っていたお父さん。
その顔をした人間が目の前にいれば、ゴムナイフが本物のナイフになる。
だからラーメンは目を閉じる。お父さんを見ないために。
* * *
訓練が2週目に入ってからは、巻き戻しの練習をした。
最初に巻き戻しをしたのは、帰還70日目だった。監査官が椅子を持ち上げたとき、1.8秒。
その後、何度かやった。2秒、2.5秒。今日は、それより長くやってみろと言われた。
「何秒まで可能ですか。」
彼女が聞いた。録音機をテーブルの端に置いて。
「やったことはありません。」
「やったことがないのですか。できないのですか。」
10か月前にも、彼女はまったく同じことを聞いた。あのとき、俺は答えられなかった。今度は答えられた。
「やったことがないんです。」
ラーメンが目を閉じて、ゴムナイフを振った。ゴムナイフが俺の肩を打った。その瞬間、俺は一番小さな音を探した。ラーメンのプロテクターについたベルクロが、かすかに剥がれる音。その音をつかんで、後ろへ引いた。
世界が逆さまに流れた。
ゴムナイフが俺の肩から離れて、上へ戻っていった。ラーメンの腕が後ろへ折れ曲がった。ラーメンの足が後ずさった。一歩、二歩。ラーメンの口が「すみません」を逆さまに言った。その言葉がどんな音になるのか、俺は聞いたが、書き留められない。逆さまになった音は、文字にならない。
3秒。
俺は離した。ラーメンがまた前へ歩いてきた。今度は、ゴムナイフが俺の肩を打つ前に、俺が一歩横へ避けた。ゴムナイフが虚空を切った。
「あれ? 当たったのに。」
ラーメンが目を閉じたまま言った。
「さっき、確かに当たったのに。」
「当たってない。」
「当たったのに……。」
ラーメンは自分の手首を見下ろした。目を閉じているから、見えはしないはずなのに。巻き戻された3秒を、ラーメンは覚えていない。なのに、体は何かを覚えているようだった。手首が打たれた感触を。痛むのは体で、知るのは魂だ。ラーメンの体は知っていて、ラーメンの魂は知らなかった。
録音機が点滅した。彼女は画面を見た。今度は、隠さなかった。
「3.2秒です。」
* * *
訓練には逆方向もあった。止まらない練習だ。
それは巻き戻しより難しかった。あっちで11年かけて体に刻んだ反射だった。何かが飛んでくれば、止まる。考えるより先に、指先が音を探す。その反射を、断ち切らなければならなかった。
彼女が命じた方法は簡単だった。
ラーメンが予告なく目を開く。それだけだった。
* * *
3週目の火曜日、ラーメンがゴムナイフを持って近づいてきて、本当に目を開いた。
予告はなかった。ラーメン本人にも予告がなかったようだった。まぶたがひとりでに開いたように見えた。
ラーメンの息が止まった。ゴムナイフを握った手に筋が浮いた。ラーメンの目が赤くなった。10か月前、わかめスープをひっくり返した日と同じ顔だった。七歳児が叱られる直前にする顔。
俺の指先が音を探した。ラーメンのプロテクターのベルクロ。蛍光灯。上の階の換気口。俺はその音を全部聞いた。そして、つかまなかった。
ゴムナイフが俺の鎖骨を打った。痛かった。ゴムなのに痛かった。ラーメンが全力で打ったからだ。
「す、すみません! すみません!」
ラーメンはゴムナイフを投げて、また目を閉じた。両手で目を覆った。そのまま床にへたり込んだ。
「大丈夫だ。」
「おじさん、本当にお父さんみたいでした。 本当に。」
「分かってる。」
「でも、止めなかったですね。」
「ああ。」
録音機の画面には、何の数字も浮かばなかった。SYNC ERRORはなかった。
彼女はその空の画面をしばらく見つめてから、測定表にチェックを入れた。反射抑制:成功。そしてその横に付け足した。(鎖骨打撲、軽度)
その夜、鎖骨に痣ができた。俺はその痣が気に入った。こっちへ来て初めて、俺が避けなかったせいでできた傷だった。
* * *
次の週は4秒。その次の週は4.6秒。
5秒はやらなかった。4.6秒を巻き戻したあと、鼻血が出たからだ。ほんの少し、左の鼻の穴から。
彼女がティッシュを投げた。10か月前、クリップボードに書かれていたあの規定どおりに。ティッシュ提供(距離2m維持、投擲可)。
10か月目にして、初めてその規定が施行された。ティッシュは俺の胸に当たって床に落ちた。俺はそれを拾って、鼻に詰めた。
「今日はここまでにします。」
彼女が言った。
「まだできます。」
「分かっています。 だから、ここまでにします。」
その日、測定表の対象協力度の欄で、彼女は初めて「中」にチェックを入れた。横に小さな字で理由を書いた。(やめろと言ったのに、やめようとしない)
10か月のあいだ、俺はいつも「上」だった。水を注いで、署名をきちんとして、経緯書に汁を飲んでいた人間だと書いて。
「中」は初めてだった。
おかしなことに、それが気分よかった。協力しない人間になった気分だった。人間になった気分だった。
* * *
その月末の定期測定で、彼女が録音機の画面を見せてきた。
SYNC ERROR -00:00:01.60
1.6。10か月前は0.31だった。5倍になった。いや、5倍以上だ。
「増えましたね。」
「増えました。」
もう彼女は「正常範囲」とは言わない。感謝の日から。強制固定の疑い、という言葉が測定表の備考欄に印刷され始めた日から。
「1年経ったら、これも止まりますか。」
「分かりません。」
本当に分からない「分かりません」だった。
「六番目は止まりませんでした。」
彼女が付け足した。それは答えではなく、記録だった。
* * *
その週、とても良い知らせが一つ届いた。
ラーメンが配膳口の向こうから携帯の画面を差し出した。裸眼ではなく画面だから、大丈夫だった。俺も画面の中では普通だし、画面の中のものたちも俺を普通に見る。
画面の中には牛がいた。正確には牛が2頭。大きい牛が1頭、小さい牛が1頭。
「おじさん、覚えてますか。『訓練』が始まったとき、村の人たちはみんな避難させられたのに、牛が1頭だけ残ったの。」
10か月前、初めて時間を実演した日。半径10キロメートルの中に、人間が4人と牛が1頭。あの牛だ。
「あの牛が子牛を産んだんですって。昨日。村長さんが管理局の代表番号に写真を送ってきて。訓練のとき、牛を守ってくれてありがとうって。」
「俺たちが牛を守った?」
「いいえ。ただ置いてきただけですよ。でも村長さんはそう思ってるみたいです。」
俺は画面の中の子牛を長いこと見た。脚はまだおぼつかなかった。母牛が子牛を舐めていた。子牛は人間を怖がらないだろう。動物は俺たちを怖がらない。7件の事例で、動物が帰還者を怖がった記録はない。
「名前は決めたって?」
「はい。村長さんが『訓練』って名付けたそうです。」
俺は声を出して笑った。サングラスが、配膳口の向こうで一緒に笑った。管理局の嘘が一つ、子牛の名前になった。誰も何の訓練なのか言わないまま名前がついて、その名前が子牛になった。
その日の測定表の備考欄に、彼女は1行書いた。俺は逆さから読んだ。
対象、子牛の写真を見て笑う。
管理局は、俺が笑うことまで記録する。
* * *
妻の手紙が引き出しに積もった。
週に1通。もう40通近くになった。罫線のない便箋に、枠からあふれる字。どの封筒にも同じ消印。
俺はそれを日付順に整理しておいた。会社勤めの頃、書類を整理していた癖だ。日付順に読むと、妻の10か月が見えた。
最初は疑問符が多かった。
どこにいるの? どうして来られないの? 怪我はしてないの?
ビデオ通話のあと、疑問符は減った。代わりに、日常が増えた。
惣菜屋が店を閉めた。エレベーターの点検があった。植木鉢に、また何か植えてみようかと思う。
俺はその一文で笑った。土だけが残った植木鉢が、写真の中にあった。
その週に届いた手紙は短かった。
最近、家の前に変な人たちが立ってる。
白い服を着た人たち。最初は宗教の勧誘かと思ったけど、何も配らない。
ただ立ってる。私が出ていくと、じっと見てくるだけ。
昨日は、その人たちの中に子どもが1人いた。9歳くらい。その子が、うちのドアを長いこと見ていた。
大丈夫。鍵はちゃんとかけてる。
ごはんもちゃんと食べてる。あなたが食べろって言ったから。
俺はその手紙を持って、白い部屋へ行った。訓練の時間ではなかった。
ドアを叩いた。彼女が出てきた。俺は手紙を差し出した。
彼女はその手紙をもう読んでいた。検閲は彼女の仕事だった。
彼女は手紙を受け取らなかった。
「知っています。」
彼女が言った。
「3日前から知っています。」
* * *
あの子牛にとって、彼は最初からただの人間だった。
我々はその頁を開くたびに、少し羨ましい。
我々はあの村の本棚を開くたびに、あの牛を見る。
何も知らない生命が、これほど羨ましいことがあるだろうか。




