第37話 幼い最高司祭
モニターの中で、九歳の子どもが老人のように咳をした。
「エヘン。皆さん、救いは遅れて来るものです」
子どもは白い司祭服を着ていた。袖が手の甲を覆うほど長い。大人の服を詰めずにそのまま着ているようだった。子どもは演壇の後ろに立っていたが、演壇が子どもの顎の高さまであった。誰かが子どもの足元にリンゴ箱を置いたに違いない。カメラが少し下がるたび、箱の角が画面の端に引っかかった。
「我々は七十五年待ちました。これからも待てます。ただ、私は、そう長くは待てない体になってしまったのです」
子どもが笑った。歯が一本抜けていた。前歯だった。乳歯の抜けた跡だった。
画面が変わった。記者会見場のようだった。記者が一人、マイクを差し出した。
「代表、九歳というのは事実ですか?」
「事実です」
「では、なぜそのように話されるのですか?おじいさんのように」
子どもは答える前に袖をまくり上げた。袖はまたずり落ちた。子どもはそれを二度、三度とまくり上げ、やがて諦めた。
「若い人。年齢は体が食べるものではないのです。待つことが食べるのですよ」
記者たちが笑った。子どもは笑わなかった。画面の隅で、白い司祭服を着た大人の司祭が二人、子どもの後ろに立っていた。どちらも子どもよりずっと年老いていた。どちらも子どもに頭を下げていた。
画面の下に字幕が流れた。宗教団体『○○会』の新代表、九歳児童をめぐる論争…「精神的指導者にすぎない」と釈明。
「消してください」
面談官が言った。ラーメンがリモコンを押した。画面が消えた。消えた黒い画面に白い部屋が映った。テーブル、椅子二つ、斜めに座った彼女、そして俺。
帰還してから二百八十五日目だった。
* * *
俺は毎朝、時間を使う。
実験3日目に11秒を失ってから、身についた習慣だ。
半月前に分類変更通知書に署名してからは、一日も欠かさない。
強制固定の疑い。六番目と同じです。
俺は毎朝、歯ブラシをくわえたまま、洗面台の蛇口から落ちる水滴を捕まえる。
1秒、2秒。水滴が宙で止まる。
青い膜が洗面台の縁を覆う。そして、放す。
一日欠かすとどうなるかは、知っている。3日欠かしたことがある。
洗面台で歯ブラシを手に取った。気がつけば、ベッドに座っていた。何秒だったのかは、ラーメンのストップウォッチだけが知っていた。
それ以来、欠かさない。
歯磨きを終える前に、一日分の奇跡を終わらせる。
六番目は、毎日奇跡を見せなければならなかった。雨を連れて歩くという噂を作り、ワイヤーで雲から降り、数千人の頭の中に語りかけた。
俺は水滴を一つ、止める。
その程度で、まだ十分だった。まだ、だが。
彼女はこの習慣を測定表に記録する。毎日の自力使用有無:はい。実験のあとの改訂3版で生まれた欄だ。
管理局は、俺の奇跡にも欄を作った。
「あの子が、その最高司祭ですか?」
俺は訊いた。六番目の手記で何百回も読んだ名前だった。
75年、杖、胸ぐら。そして、六番目が彼から奪った老い。
「同じ人です」
彼女が言った。
「私たちが最後に確認したときは、15歳ほどに見えました。2年前です」
「まだ若くなり続けている、ということですか?」
「そのとおりです」
「六番目が死んだのに、ですか?」
「そのとおりです」
彼女は理由を言わなかった。
知らないのか、言わないのか、俺には区別がつかなかった。10か月近く一緒にいても、その二つの違いはまだわからない。
いや、あるいは、もうわかっているのかもしれない。彼女は知らないときは「わかりません」と言う。言わないときは、答えを短く切る。
「そのとおりです」
短く切られた答えだった。
* * *
三日後、管理局に書留が届いた。
ラーメンは配膳口ではなく、白い部屋の扉までそれを持ってきた。二人一組なので、革靴が後ろに立っていた。
ラーメンはもう息を止めない。俺を見ないからだ。手を見ていた視線は、近ごろ俺の左耳の隣の壁に移っている。
俺はいつの間にか、ラーメンに敬語をやめていた。ラーメンがそうしろと言ったのだ。あの壁に何もないことを、俺たち二人とも知っている。
十か月のあいだ、あの壁はラーメンの視線を受けて、少し擦れただろう。
「室長宛に来たんですけど……法律事務所のです」
封筒に貼られたステッカーに、法律事務所の名前が書いてあった。瑞草洞の住所だった。
彼女が封筒を開けた。書類が三枚出てきた。彼女は一枚目を読みかけて、少し止まった。
そしてそれをテーブルの上に置いた。俺のほうへは押してこなかったが、逆さまに読むことはできた。
この部屋で十か月を過ごして、俺は逆さまの文字を、正しい向きの文字と同じぐらいの速さで読めるようになっていた。
面会要請書
請求人:宗教団体○○会(代理人 法律事務所○○)
面会対象:当機関が保護中の帰還者1人(管理番号不明)
面会目的:下記のとおり
その下の欄。
請求理由(簡潔に記載)
欄は一行だった。この国の理由欄は、いつも一行だ。
その一行に、活字で二文字が印字されていた。
救済
俺は笑いを堪えられなかった。声が漏れた。ラーメンがびくっとした。革靴がラーメンの背中を叩いた。
「救済が理由ですか」
「法律事務所が書いたものです」
彼女が言った。
「時間当たりの報酬で書かれた二文字です」
「いくらの二文字ですか」
「わかりません」
今度の「わかりません」は、本当に知らないときの「わかりません」だった。
彼女は二枚目をめくった。面会希望日時、面会人数、同伴者。
同伴者の欄には「代表1人」と書いてあった。代表。9歳の代表。リンゴ箱を踏んで演壇に立つ代表。
「どうして分かるんですか。俺がここにいるって」
「あっちには、あなたを覚えている人がたくさんいます」
彼女はそれだけ言った。
* * *
彼女はその場で返戻書を書いた。返戻書にも様式があった。管理局は、断るのにも様式がある。
返戻事由――当該機関は、請求人が指す人員を保護していない。
「嘘ですね」
俺が言った。
「訂正します」
彼女はボールペンを止めずに言った。
「行政上の標準の文言です」
彼女は返戻書に判を押した。そしてラーメンに渡した。ラーメンが受け取って、革靴に渡した。革靴が受け取って、封筒に入れた。二人一組は、書類も二度の手を経る。
俺は、帰還して15日目に書いた入国事由書を思い出した。あのときは事実のままに書いて、返戻された。彼女が書いてくれた代筆案に署名した。海外長期滞在後の帰国。嘘ではない、と彼女は言った。広く見れば海外で、長く見れば滞在だった、と。
この国の書類は、嘘を広く、長くする。そしてその嘘のおかげで、俺はここに生きている。
* * *
ラーメンと革靴が出ていくと、彼女は三枚目を取り出した。一枚目と二枚目は俺のほうへ押し出したのに、三枚目は手のひらの下に置いた。10か月前、ラーメンの経緯書の陳述欄を覆っていた、あの手だった。
「それは、何ですか」
「添付資料です」
「俺と、関係がありますか」
彼女は答えなかった。代わりに、手のひらをゆっくり離した。彼女が俺に何かを見せると決めたときは、いつもこうしてゆっくり手を離した。決めたのではなく、手が滑ったように見えるように。
写真だった。白黒のコピー。
アパートの廊下だった。廊下の突き当たりに、玄関のドアがひとつ。ドアの横に小さな植木鉢が置いてあった。鉢には何も育っていなかった。土だけがあった。ドアノブに何かが引っかかっていた。ビニール袋だった。たぶん牛乳の配達か、おかず屋の配達か。
俺はあのドアを知らない。あの廊下を知らない。あのアパートがどこにあるのかも知らない。彼女は10か月、住所を見せなかったから。
なのに、植木鉢だけはわかった。
ごはんを食べて通うこと。あの書き置きを書いた人には、植物を枯らす才能があった。赤羽根の家のベランダにあった植木鉢3つは、俺たちが引っ越して3か月で土だけになった。あの人は、土だけになった鉢を捨てなかった。いつかまた植えると言っていた。あの鉢は最後まで、土だけを入れていた。
写真の中の鉢も、土だけを入れていた。
「妻の家ですか」
彼女は答えなかった。
それは「そうです」より短い答えだった。
* * *
その日の晩、俺は妻に返事を書いた。
手紙は週に一度届く。罫線のない便箋に、枠からはみ出す大きな字と、長く伸びる「す」の払い。
封筒の裏には、いつも同じ判が押してある。検閲済――国家移住管理局特殊課。
その判を見るたび、俺は思い出す。妻の字を、俺より先に読んだ誰かがいる。
その人も、「帰ってきます」の「す」の払いを見たはずだ。
返事も検閲を受ける。規定がある。
施設の場所を推し量れる言葉は書けない。日付の約束も書けない。監視の人数に触れることも書けない。
それと、彼女が付け足した規定がもうひとつ。妻を門の外に出させる文は書けない。
俺は書いた。
「植木鉢に水をやらないで。どうせ枯れる」
そして、消した。
植木鉢のことを知っているのは、写真を見たからだ。写真を見たということは、誰かがあのドアの前に立っていたということだ。
妻がそれを知れば、門の外に出てくる。規定違反だ。
書き直した。
「ごはん食べて通って」
罫線のない便箋なのに、俺はその一行を紙の真ん中に小さく書いた。マス目に合わせる癖は、マス目がなくても残る。
妻の字の隣に並べれば、俺の字はいつも半分ほどの大きさだった。
翌朝、ラーメンが検閲を終えた封筒を持ってきた。差し戻しの判が押してあった。理由欄に一行。
「『通って』は、外出を促す表現と解釈されるおそれあり」
俺は「通って」を消して、こう書き直した。
「ごはん食べて」
その一言だけが通った。
管理局は、妻がごはんを食べることまでは許した。
* * *
9歳の子どもは言った。「救いは遅れて来るものだ」と。
遅れて来る側が自分だということを、彼はまだ数えてみたことがない。




