第36話 縫合
分類変更通知書は1枚だった。
配膳口ではなく、白い部屋のテーブルの上に置かれていた。俺が入る前に、面談官が置いていったものだ。
一番上に「帰還者管理分類変更通知書」と印刷されていた。その下に欄が3つ。
変更前分類:自然転移(観察対象)
変更後分類:(空欄)
対象確認署名:(空欄)
変更後分類の欄は空だった。対象確認署名の欄も空だった。
俺は通知書を持ち上げて裏面を見た。裏面も空だった。
「何に変わるのか、書いてないんですけど」
「測定が終わったら書きます」
面談官は、テーブルの端に腰かけながら言った。
「じゃあ、署名はいつするんですか」
「書いてからです。何に分類されるかをご覧になってから、署名してください。白紙に署名しろとは言いません」
「あっちの王宮ではやりました」
「ここは王宮ではありません」
彼女は録音機を置いた。赤いランプが点いた。
その横に、クリップボード。測定表の一番下に、対象協力度の欄が見えた。
測定表の様式が変わっていた。右上の隅に小さな文字で「改訂3版」と印刷されていた。先週までは改訂2版だった。
改訂3版には、欄が1つ増えていた。毎日の自力使用有無:□ はい □ いいえ。
実験以降、俺が毎日時間を使うようになると、様式は俺の後を追うように変わった。この施設の書類は、いつも俺より半歩遅れて、しかし必ずついてきた。
俺は「はい」にチェックを入れた。言われてもいないのに、チェックを入れた。
彼女はそれを見て、対象協力度の欄にあらかじめ「上」を付けた。まだ測定もしていないのに。
* * *
上の階の観測室から、アルミホイルを剥がす音がした。キンパだった。
ラーメンは、経緯書に書いたとおり、観測室ではキンパしか食べなかった。3か月目だった。
最近は、ラーメンの2人1組の相棒もキンパを食べているそうだ。2人で同じ店のキンパを食べているそうだ。
その店がどこなのかは、検閲の対象ではなかった。
俺は一番小さな音を探した。今日はキンパではなかった。
ラーメンの相棒がキンパを噛む音は、ラーメンより小さかった。初めて掴む音だった。俺はその音を掴んだ。
世界が青く染まった。
今回は、何も見なかった。彼女のポケットも、薬ケースも、下唇も。
毎日数秒ずつ時間を使うようになって、2か月になった。測定日の時間は、もう特別じゃなかった。
朝の洗顔のように使った。奇跡のようにではなく、洗顔のように。
解いた。
* * *
彼女は録音機の画面を見ていた。長いこと見ていた。
それから、画面を俺のほうへ回した。
監査の日以来、彼女が画面をこっちへ向けたことは一度もなかった。数字を口に出して教えてくれたことはある。0.95。画面を見せてくれたのは、200日ぶりだった。
SYNC ERROR -00:00:01.04
1秒を超えていた。
俺はその数字を見た。マイナス1.04。俺の周りの一尺が、この部屋全体を1秒以上、後ろへ引っ張ったという意味だ。
1秒。
あっちで魔王の最後の一撃を避けたとき、俺は1秒を10回巻き戻した。あのとき、それは奇跡だった。
今は、測定値だった。
「どういう意味ですか」
「ご存じのはずです」
彼女は言った。
そしてボールペンを取ると、分類変更通知書の空欄を埋め始めた。ゆっくりと、枠の中に合わせて。
変更後の分類:強制固定の疑い(KR-06 同類型)
彼女は通知書を俺のほうへ滑らせた。それから、口でも言った。
書類に書いたことを、わざわざ口に出して繰り返す人ではなかったのに。
「強制固定の疑い。六番目と同じです」
* * *
六番目と同じ。
211枚を全部読んだ。彼が何だったのかは知っている。
去りゆく魂を、誰かが掴んで、別の本に縫い付けた。しわでやっと引っかかっていた。毎日、奇跡を使わなければならなかった。使わなければ、滑り落ちた。
そして、あの体はもともと彼のものではなかった。
最後の一点だけは、俺とは違うと思っていた。
俺の顔は、こっちで流れた4年分だけ老けた。妻の字を知っている。冷蔵庫のメモを知っている。「す」の払いを長く伸ばす癖を知っている。
ところが、六番目の母親も、その足を知っていた。毎日揉んでいたのだから。
知っているということは、何も証明しない。
赤羽根の家の玄関で、靴を脱いだ瞬間。その次が、あっちだった。その間がなかった。
実験3日目の11秒が、なかったのと同じように。
俺はその間を、瞬間移動だと思っていた。今は、その間に何があったのか分からない。
玄関で俺が倒れたのか。去り始めていたのか。誰かが掴んだのか。
* * *
「一つ、聞いてもいいですか」
「それが質問です」
彼女は9か月前と、まったく同じように答えた。俺は笑わなかった。
「では、俺はこっちの人間ですか。あっちの人間ですか」
彼女は答える前に、ボールペンを置いた。それから、俺の目を見た。斜めに座ったままでは、なかった。椅子を回して、正面から。
「分かりません」
彼女が言った。
「赤羽根で消えたのは、あなたの体です。それは確実です。戻ってきたのも、あなたの体です。指紋、歯、左の眉の上の傷跡まで、警察の記録と同じです。ですが、その体が4年のあいだどこにあったのか、その中に今、誰がいるのかは分かりません。あなたがあっちから来た人間なのか、あっちへ行って戻ってきたこっちの人間なのか、それともどちらでもないのか。私は、分かりません」
「保留ですか」
「不明です」
「じゃあ、誰が知っているんですか」
「それも分かりません。ただ、あの子。5歳のあの子なら、知っていたかもしれません。あの子は、六番目の元の本を知っていたので。あの子の行方は……」
「不明」
「不明です」
彼女はその二つを、きちんと言い分けていた。半年のあいだ、ずっとそうだった。だから俺は、彼女の言葉を信じた。
* * *
「1年後に正常に戻ったら、ですね」
と、俺は言った。12日目に、彼女がドアノブを握ったまま言った言葉だった。彼女は覚えていた。顔を見れば分かった。
「俺は、正常にはなれないんですね。1年経っても」
「異常現象という正式名称がありますが、あなたのおっしゃる呪いというものは、理論上は、1年で解けると考えています。それは数値とは関係ありません」
「では、妻のところには行けますか」
彼女は答えなかった。代わりにクリップボードを取って、測定表のいちばん下の欄にチェックした。対象協力度。上。括弧の中に、短く書き添えた。
(分類変更受容)
俺は、受け入れるとはまだ言っていなかった。お役所の分類は、いつだって当人より先に決まる。それでも、今回は彼女が間違っていなかった。俺はボールペンを手に取り、通知書の対象確認署名欄に署名した。『八番目』。欄は狭かった。
* * *
夕食のトレイは、ラーメンが持ってきた。
配膳は2人1組。ドアの前には革靴が立っていた。
かかとの低い革靴。ラーメンがお見合いをしたという、その相手だった。
ラーメンはトレイを置いて、すぐには出て行かなかった。俺の手を見て、ためらっていた。
「おじさん、分類が変わったんですって」
「噂が早いですね」
「観測室のホワイトボードに貼ってありました。KR-08の隣に、赤いマグネット。もともとは青いマグネットだったんですけど」
「赤いマグネットは、何なんですか」
ラーメンは、少し迷った。
「あのホワイトボードで、赤いマグネットは、おじさんの分がひとつだけなんです。前はもうひとつあったって。僕が来る前に。KR-06のところに」
ドアの前の革靴が、小さく咳払いをした。
ラーメンは口を閉じた。それから、また開いた。
「でもおじさん、強制固定って何なんですか。研修の資料には、その言葉、なかったんです。室長に聞いても、保留だって言うんです」
「俺も、正確には知りません」
「おじさんも、ですか」
「俺が見る限り、縫われてるんです。誰かに」
ラーメンは、その言葉をしばらく考える顔になった。それから俺の手を見て、言った。
「じゃあおじさんは、縫い糸みたいなものなんですか」
ドアの前の革靴が、今度は大きく咳払いをした。
ラーメンは慌てて頭を下げて、出て行った。
俺はトレイの前で、長いこと笑った。笑って、やがて笑いが止まった。
縫い糸。ラーメンは、何も知らずに言った言葉だった。
* * *
その夜、俺は妻の手紙を、最初から読み直した。
木曜日ごとに届いた手紙。30通を超えていた。
検閲済のスタンプが、まっすぐなもの、傾いたもの、半分だけ掛かったもの。
罫線のない便箋。マス目のない紙の上から、裏面まで溢れていった文字。
プデチゲの黒い線。冷蔵庫のメモ。ごはん。
いちばん新しい手紙には、俺の誕生日の話があった。あと1か月ほどだった。
妻はケーキを選んでいると書いていた。1年が経つ前だから、一緒に食べることはできないけれど、画面越しでもろうそくの火を一緒に消そう、と。
ろうそくを何本挿せばいいのか分からない、とも書いてあった。39本なのか、46本なのか。こっちの年齢なのか、俺が生きてきた年齢なのか。
46。消えたときは34で、あっちで11年、帰ってきてから1年近く。
妻はその計算を、独りでやった。返事の片隅に、俺が検閲を通した数字がひとつ。『11』。それにしがみついて。枠の外へ溢れる字で、ろうそくの本数を悩みながら。
俺は手紙を折らなかった。折り目が字を横切るのが嫌だった。開いたまま、枕元に置いた。
* * *
縫合。
あっちで、老司祭に脇腹の傷を縫ってもらったことがある。
ワイバーンの爪だった。
司祭は針を火であぶり、糸を通しながら言った。
「裂けたところを縫うのを、縫合という」
「縫ったところは、元の肉より固くなる」
「その代わり、二度と元には戻らない」
「縫い糸が抜けても、跡は残る」
俺は毎日、時間を使う。
使わなければ、滑り落ちてしまうから。
毎朝ひと針ずつ、自分をこっち側に縫いつけているようなものだ。
縫ったところは、固い。その代わり、元には戻らない。
元がどこだったのかも、分からないのに。
* * *
その夜、眠る前に、俺はもう一度、時間を使った。
数秒。測定日だったが、もう一度だけ。
ベッドの枕元の壁掛け時計の秒針の音を掴んで、青ざめた部屋で息をした。
妻の手紙が、枕元で止まっていた。枠の外にあふれた字まで、止まっていた。
その字を、長いこと見た。それから、置いた。
秒針が、また刻み始めた。
今日は、一秒も失わなかった。
* * *
我々は、去りゆく魂を見ると、針を取った。
糸の端を魂に通し、別の本の頁に当てて、一針ずつ縫いつけた。
それが強制固定だ。
彼らが奇跡と呼んだものは、我々が残した縫い目だった。
彼は今、毎朝、その縫い目を自分で縫い直している。
我々が始めた縫いごとを、我々なしで。




