第35話 死亡報告書
手記を読み終えた日、俺は閲覧台帳に最後の署名をした。
閲覧台帳は分厚かった。帰還して12日目から今日まで、閲覧のたびに一行ずつ。
閲覧日時、閲覧文書、閲覧枚数、閲覧者署名、返却確認。
閲覧者署名の欄には「八番」が三十回近く並んでいた。署名欄は最初から最後まで狭かった。「目」まで入ったことは、一度もなかった。
最後の行の閲覧枚数の欄に、俺は「206~211」と書いた。
その隣の返却確認の欄に、面談官が印を押した。印は少し傾いていた。
彼女が押す印は、いつもまっすぐだったのに。
「終わりです。」
茶色のファイルを閉じながら、彼女が言った。
「211枚が全部ですか。」
「あの方が書いたのは、それで全部です。」
彼女は茶色のファイルを脇に押しやり、別のファイルを取り出した。薄かった。表紙は白かった。管理番号と、単語が一つだけ書かれていた。
KR-06 — 死亡報告書
「あの方が書けなかった部分です。」
* * *
報告書は四枚だった。
一枚目は身元情報だった。管理番号、推定年齢、住所、職業。
職業の欄には「無職(宗教団体所属)」とあった。その隣の括弧の中に、誰かがボールペンで書き足してあった。
(元物流センター勤務)
その括弧を書いたのが面談官だと、俺は筆跡で分かった。
「この括弧、室長が書きましたよね。」
彼女は答えなかった。代わりに、少し間を置いてから言った。
「無職とだけ書くと、あの方が一日に2万歩ずつ歩いていたことが、どこにも残りません。」
彼女はその言葉を口にしてから、自分が言ったことに驚いた顔をした。書類には残さない言葉を、口にだけ残した顔だった。
二枚目は事件の概要だった。
発生日時:(2年前)11月○日 午後2時10分頃。
発生場所:ソウル○○区にある葬儀場の裏門の路地。
事件の経緯:対象者は、前日に営まれた知人(インターネット媒体の記者、30代男性)の母の葬儀に弔問した。翌日午後、葬儀場の裏門で当該記者と対面。記者が所持していた果物ナイフで、対象者の腹部を一度刺した。対象者は現場で意識を失った。病院搬送中に死亡。
二枚目の下のほうに、分類欄が二つあった。
死因分類:□自然 □事故 □他殺 □その他(能力関連)
「他殺」にチェックが入っていた。だが、「その他(能力関連)」にもチェックを入れて消した跡があった。修正液が白く乾いていた。
死亡時の能力消失の有無:□消失 □未消失 □確認不可
「確認不可」だった。
死んだ人間に能力が残っているかを確認する方法はない。それでも、様式にはその欄があった。誰かがいつか、それを確認できると信じて作った欄だった。
俺は「翌日午後」で止まった。
211枚目の最後の行。
「明日は記者さんのお母さんの葬儀だそうです。行ってみようと思います。」
彼は行った。葬儀に行き、その翌日、また行った。
葬儀が終わった翌日に、なぜまた行ったのか。報告書に、その理由はなかった。
報告書は、理由を書くための文書ではなかった。
* * *
211枚目の手記と、報告書のあいだには、一日がある。
その一日のあいだに、彼は何をしていたのだろう。
葬儀場で記者に会ったのだろうか。記者の母親の遺影の前で、拝んだのだろうか。それとも、ただ後ろの列に立っていて、そのまま出てきたのだろうか。
帽子を深くかぶり、人々が気づいて、子どもを抱いて寄って来ないように。
手記にはない。報告書にもない。その一日は、どんな書類にも残らなかった。
人の最後の一日は、たいていそういうものだ。
* * *
3章は、陳述の要約だった。
加害者の陳述、目撃者の陳述、救急隊員の陳述。
加害者の陳述は短かった。
「母は、あの人たちのせいで亡くなった。奇跡費を返すために働いていて、倒れた。」
「あの人が本物でも偽物でも、関係なかった。あの人の顔が入った額縁が、母の部屋にあった。」
「葬儀に、あの人が来た。母の遺影の前で、拝んだ。それが、耐えられなかった。」
その下に、もう一行あった。
「刺したあと、あの人が俺の手を握った。そして、言った。」
陳述は、そこで次の行に移っていた。引用符の中に、一文。
「私は最後に、あなたの幸せのために祈ります。」
* * *
俺はその一文を、声に出して読まなかった。
読めなかった。
私は最後に、あなたの幸せのために祈ります。
嘲ろうとすれば祝福になって出てしまい、断ろうとすれば平安を祈ってしまう、そういう人だった。
だから最後のミサでは、口に出して言った。耳は変えられないから。
この一文は、どちらだったのか。口に出した言葉だったのか、頭の中に送った言葉だったのか。
口に出した言葉なら、本物だった。そのころの彼は、嘘がつけなかったから。
頭の中に送った言葉なら、もともとどんな言葉だったのか、誰にも分からない。
「口に出して言ったんですか」
俺は訊いた。面談官は首を横に振った。
「分かりません。加害者は、耳で聞いたと言っています。ですが……」
彼女は4章を開き、俺のほうへ押し出した。
* * *
4章は『特異事項』だった。
目撃者の名簿があった。
葬儀場の職員が2人、別の式場の弔問客が6人、裏門前のコンビニ店員が1人、通りがかりの配達員が1人。そして、その下に供述の要約。
目撃者10人全員が、対象者が倒れた直後に『声を聞いた』と供述していた。対象者までの距離は2メートルから40メートル。
対象者は口を動かさなかった――そう供述した目撃者は4人。
その下に表があった。目撃者ごとに、彼らが聞いたという文章が書かれていた。
葬儀場の職員1:「大丈夫ですよ。」
葬儀場の職員2:「泣かないでください。」
弔問客1:「お母さんのそばへ行きなさい。」
弔問客2:「ごめん。」
弔問客3:「ありがとうございました。」
弔問客4:(供述拒否)
弔問客5:「お母さん。」
弔問客6:「平安でいてください。」
コンビニ店員:「ちゃんとごはん食べてください。」
配達員:「ゆっくりでいいですよ。」
俺は、コンビニ店員の欄で息が止まった。
ちゃんとごはん食べてください。
* * *
偶然だ。
「ちゃんとごはん食べて」なんて言葉は、誰だって言う。
母親が言い、妻が言い、コンビニ店員だって一日に十回は聞いているだろう。
六番目が最期に送った何かが、その店員の頭の中で、その店員が一番よく耳にしていた優しい言葉に置き換わっただけだ。
冷蔵庫に貼ってあった妻のメモとは、何の関係もない。
俺はそう考えた。そう考えるのに、ひどく時間がかかった。
その間、俺は0.95秒を二度、失った。面談官はそれを見て、何も言わなかった。
* * *
「10人が、10通りの言葉を聞きました。」
面談官が言った。
「あの方が何を送ったのか、私たちには分かりません。それぞれが、自分が一番聞きたかった言葉として聞こえたようです。」
「供述を拒否した弔問客4には、後から個別に面談しました。その方は、『帰ってくる』という言葉を聞いたと言っていました。5年前にご主人が失踪したそうです。」
俺は顔を上げた。彼女は俺の目を見ていなかった。俺の左肩の向こうを見ていた。
「その方のご主人は、帰ってきたんですか。」
「それは、私たちの管轄ではありません。」
彼女が言った。そして、付け加えた。
「私たちの管轄だったのなら、私たちの名簿に載っていたはずです。載っていません。」
* * *
報告書を閉じた。4枚。
彼の211枚の後ろに添えられた、4枚。
彼は211枚を書きながら、最初からいなかった人間にならないようにしていた。
報告書は、彼がいたことを4枚で証明していた。
書類は、全部あった。
俺は白いファイルを彼女に返そうとして、手を止めた。
「一つだけ。閲覧台帳じゃなくて、搬出確認書。」
「何を搬出されますか。」
「4枚です。特記事項。コピーで。」
彼女は少しの間、俺を見た。それから、ファイルから搬出確認書の様式を取り出した。
半年前に妻の不同意事由書を搬出したときと、同じ様式だった。
事由の欄は、今回も一行だった。
俺は事由欄に、こう書いた。彼が最後に言った言葉だから。
欄に、ぴったり収まった。
返納予定日の欄には、何も書かなかった。
彼女はそれを見て、ボールペンを手に取った。そして、そのまま判を押した。
白い部屋を出ると、廊下にラーメンが立っていた。
一人だった。二人一組の規則違反だった。
ラーメンは、アルミホイルに包んだキンパを一本、俺の手の方へ差し出した。
目は、相変わらず俺の手を見ていた。
「観測室で食べようとしてたんですけど。おじさん、今日お昼食べてないじゃないですか。」
「経緯書は書かないんですか。対象空間の外での飲食物の受け渡し。」
「廊下は対象空間じゃないです。規程、僕が調べたんです。」
ラーメンは、それを調べたことを自慢しているような顔だった。
俺はキンパを受け取った。
たくあんが二本入っていた。ラーメンはたくあんが好きじゃない。だから、自分の分まで入れたのだ。
「おじさん、今日、二回止まりましたよね。報告書を見てるとき。」
「分かっています。」
「記録は、してません。」
ラーメンはそれだけ言って、背を向けた。
スニーカーが廊下の突き当たりに消えるまで、俺はキンパを持ったまま立っていた。
* * *
その夜、俺は妻の不同意理由書の写しと、死亡報告書4枚の写しを、枕元に並べて置いた。
妻の字で書いてあった。
「夫は帰ってきます。」
最後の「す」の払いが、長く伸びている。妻の癖だった。
そして、十の文。
大丈夫。泣かないで。ごめん。ありがとう。お母さん。安らかに。ちゃんとご飯を食べて。ゆっくり行って。帰ってくる。
そして、供述拒否が一つあった席。
彼は、最期に何を送ったのだろう。
十人がそれぞれ、いちばん聞きたかった言葉に置き換えて聞くことのできる何か。
言葉ではなく、意味。
俺はその意味が何だったのか、長いこと考えた。考えているうちに、眠った。
午前3時に、目が覚めた。
その日は、何も失くさなかった。
測定日ではなかったけれど、寝る前に数秒、時間を使ったからだ。
もう毎日、そうしなければならなかった。
目を閉じ直す前に、報告書4枚のいちばん下の行をもう一度見た。
担当者備考欄。面談官の字だった。
「死亡直後、半径内の複数の者が同一の文を聞いたと供述。文の内容は不一致。」
同一の文。内容は不一致。
書類は、その矛盾を一行に収めていた。欄が狭いから。
* * *
彼が最期に送ったものを、人々はそれぞれ違って聞いた。我々は、その供述書を並べて広げておいた。
十人は、それを十の文に縫い合わせて聞いた。我々がいつもやっていることを、彼らは初めてやってみたのだ。




