第33話 実験
実験計画書は、七枚だった。
俺が書いたものじゃない。
俺がやると言ったのは、一文だけだった。
「三日間、時間を使いません」
その一文が、面談官の机を経て、七枚になって戻ってきた。
帰還者能力未使用時の異常症状観察実験計画書。
一枚目は表紙だった。二枚目は実験目的。三枚目は実験方法。四枚目は観察項目。
五枚目は危険性評価だった。危険性評価の欄には、チェックボックスがあった。
対象消失の可能性:□あり □なし □判断不可
チェックが入っていたのは、『判断不可』だった。その横に、面談官の字で短く書き添えてあった。(前例あり)
六枚目は実験中止基準。七枚目は署名欄だった。実験責任者、実験対象、観察記録員。
実験責任者の欄には、面談官の判子が押してあった。
観察記録員の欄には、ラーメンの判子が押してあった。ラーメンの判子は、半分ほど枠からはみ出していた。
俺は実験対象の欄に、『八番』まで署名した。署名欄は、今回も狭かった。
* * *
面談官は、最後まで反対した。
「三日は長いです」
「今だって、計測のない日には使っていません。六日間、使わなかったこともあります」
「それは、週に一度は使っているということです。今回は、計測まで飛ばします」
「だからこそ、分かるんじゃないですか。使わなければ、どうなるのか」
彼女は、危険性評価のページを指で押した。『前例あり』と書いた場所を。
「その前例は、二度と起きてほしくないんです」
「あの子のこと、ですか」
彼女は答えなかった。代わりに、実験中止基準のページをめくり、一行を指した。
連続消失時間が10秒を超えた場合、即時中止。
「10秒です。超えたら、すぐに使ってください。私が隣にいなくても」
「それは、実験の失敗じゃないんですか」
「それは実験の成功です。知るべきことを知れたのですから」
* * *
1日目。
ラーメンは観測室ではなく、白い部屋の隅に座った。椅子が一脚と、クリップボード。ストップウォッチが二つ。片方は手に持ち、もう片方は首から下げていた。
ラーメンは俺の手を見ながら座っていた。手だけ見ていればあまり怖くない、というラーメンの研究は、もう2か月続いていた。
「おじさん、いつもどおりにしていてください。僕は、いない人です」
ラーメンが言った。いない人という言葉が、この施設でどれほど重い言葉か、ラーメンは知らなかった。俺はただ、うなずいた。
午前に2回。午後に3回。夜に1回。
ラーメンはそのたびにストップウォッチを押した。意識が戻ると、ラーメンが数字を読み上げてくれた。
「0.94。0.96。0.95」
いつもどおりだった。1日目はいつもどおりだった。
ラーメンの記録用紙には6行が書かれた。いちばん下に、ラーメンが小さな字で付け足した。特記事項なし。対象、昼食の食べ残しなし。
* * *
2日目の昼、俺は飯を食っている途中で消えた。
気がつくと、スプーンが口の前で止まっていた。スプーンの上の米粒が乾いていた。ラーメンはストップウォッチを握ったまま、椅子から半分立ち上がっていた。
「3秒です」
ラーメンの声が小さかった。
「3秒20」
3秒。スプーンを口に運ぶあいだに、3秒がなかった。そのあいだ、俺はどこにいたのか。記憶がない。夢も、暗闇も、何もない。フィルムを切って貼り直したみたいに、前と後ろしかない。
その日の午後、さらに4回あった。2秒、3秒、4秒、3秒。
ラーメンの記録用紙がびっしりになった。ラーメンはだんだん口数が減った。しまいには数字を読み上げず、記録用紙に書くだけになった。
夕方、ラーメンが誤って俺の目を見た。
息が止まった。ラーメンは慌てて頭を下げた。そして下げたまま言った。
「おじさんが止まっているときって、モニターで見るときと違います。直接見ると。ただ止まっているんじゃなくて……何て言えばいいんだろう。薄くなるんです」
「薄くなるっていうのか」
「はい。後ろの壁が、おじさんの向こうに少し見える気がします。勘違いかもしれないですけど」
ラーメンはその言葉を記録用紙に書かなかった。俺はそれがありがたかった。
その日は木曜日だった。夕食のトレイの上に、封筒が載っていた。検閲済の印は、今度はまっすぐだった。
俺はベッドに座って手紙を読んだ。ラーメンは隅でストップウォッチを握っていた。
1行目は天気の話だった。ソウルに初雪が降ったと。2行目は仕事の話で、黒い線が1本引いてあった。3行目を読み始めた。
気がつくと、俺は5行目を見ていた。
4行目がなかった。目で読んだ記憶も、頭に残った文もない。
ラーメンが小さく言った。
「2秒40」
俺は4行目に戻って、読み直した。
あなたがいないあいだに、あなたの誕生日を4回、ひとりで祝ったよ。今度は一緒にやろう。
俺はその行を3回読んだ。失くさないように。3回目を読むとき、ラーメンがストップウォッチを置いた。記録することがなかった。
* * *
今度は一緒にやろう。
俺の誕生日は4か月後だった。いや、もう3か月を少し切っている。帰還から1年が満ちる日の、2か月前だった。
妻は、それを知って書いたのだろうか。
画面の中で、俺は1年だと言った。妻は待つと言った。4年も待ったのに。
だが、妻が待つ1年と、俺が失っている秒は、別々の時計で進む。
妻の時計は、1日に1回進む。俺の時計は、使わなければ、数秒ずつ遅れる。
1年後、その二つの時計が同じ時刻を指すのかどうか。俺は初めて、自信がなかった。
だからその行を3回読んだ。失った秒のあいだに、その行がこぼれ落ちないように。
* * *
対象協力度:□上 □中 □下
その夜、ラーメンの記録用紙のいちばん下にも、その欄があった。実験の記録用紙に、なぜ協力度の欄があるのかは分からない。たぶん、様式をコピーしたときに、そのまま付いてきたのだろう。
ラーメンは『上』にチェックを入れて、括弧の中に書いた。
(消えることに協力的)
俺はその一文を見て、しばらく笑った。笑っているあいだに、1秒を失った。ラーメンは、それも書いた。
* * *
3日目のことは、よく覚えていない。
正確に言えば、記憶がある時間より、記憶がない時間のほうが長く感じられた。
実際は違った。ラーメンの記録用紙によれば、その日、俺が消えたのは9回で、合わせて1分に少し足りなかった。1日は8万6400秒ある。1分なんて、何でもない。
なのに、その1分のせいで、1日がつながらなかった。
朝、洗面台の前に立った。歯ブラシを手に取った。
気がつくと、俺はベッドに座っていた。洗面台からベッドまで、5歩。その5歩がなかった。
歯ブラシは手になかった。あとで洗面台の上で見つけた。歯磨き粉は、まだ絞られていなかった。
昼に、面談官が来た。彼女はラーメンの隣に立った。実験の責任者だったのに、3日間ずっと来なくて、その日が初めてだった。
俺は彼女に何か言おうとして、口を開いた。
気がつくと、俺は口を閉じていた。何を言おうとしたのか、覚えていなかった。
彼女は俺を見ていた。斜めからではなく、正面から。手はポケットの中に入っていた。薬のケースを握っていたのだろう。
「何秒でしたか」
俺はラーメンに聞いた。ラーメンは答えなかった。ストップウォッチを握った手が震えていた。面談官が代わりに言った。
「11秒です」
10秒超過。実験中止の基準。
「使ってください」
彼女が言った。
俺はあの瞬間を、長く覚えている気がする。いや、あの瞬間の直前を。
11秒のあいだ、俺はどこにもいなかった。
あっちに初めて落ちたあの瞬間も、そうだったのだろうか。赤羽根の家の玄関で靴を脱ごうとして、気がついたらあっちにいた。そのあいだがなかった。
俺はそれを、ただの瞬間移動だと思っていた。神の加護だと。
11秒が消えている今、そのあいだもなかったのではなく、俺が覚えていないだけなのかもしれない。そう思ったのは初めてだった。
* * *
俺は、一番小さな音を探した。
ラーメンのストップウォッチだった。手に握ったほうではなく、首から下げたほう。秒を数える、とても小さな電子音。
掴んだ。
世界が青く染まった。だが、今度は違った。青がいつもより濃かった。縁だけでなく、すべてが少しずつ青かった。
そして、温かかった。濡れた服を脱いで、乾いた布団の中に入ったときのように。3日のあいだ滑り続けていた何かが、元の場所に戻る感じだった。しわが、俺をもう一度掴んだ。
俺は何も触らなかった。ただ立っていた。息をした。そのひと掴みぶんの時間を感じた。
放した。
ラーメンがストップウォッチを押した。
そして翌朝までの18時間、ラーメンの記録用紙には何も書かれなかった。俺は一度も消えなかった。
4日目の朝、ラーメンは記録用紙の一番下にこう書いた。能力使用後、症状消失。対象、朝食の食べ残しなし。
* * *
実験終了報告書は2枚だった。計画書は7枚あったのに。
面談官は白い部屋のテーブルの端に座り、ラーメンの記録用紙をめくった。1日目が6行、2日目が5行と数字、3日目が9行。彼女は3日目のページで長く止まった。11秒と書かれた行で。
「結論は何ですか」
俺が訊いた。
「使わなければ滑ります。使えば、くっつきます」
「それは最初から分かっていたことじゃないですか」
「最初から分かっていました。確認したんです」
彼女は記録用紙を閉じた。閉じる手が遅かった。
「じゃあ、これから俺は毎日使わないといけないんですか」
「あなたは毎日使わなければなりません。測定の日でなくても。1日に1回、数秒でも」
「奇跡みたいに」
彼女は答えなかった。代わりに、実験記録用紙をクリップボードから外して、ファイルに挟んだ。ファイルの表紙に、手書きの文字が見えた。KR-08。
そしてその下に、以前はなかった一行。
分類:検討中
彼女が立ち上がりながら言った。
「六番目も、最初は3日持ちました」
* * *
3日目の11秒のあいだ、彼がどこにいたのかを我々は知っている。どこにもいなかった。それが正確な答えだ。
我々は、その11秒のページをめくってみた。何も書かれていなかった。




