第32話 三つの選択
管理番号 KR-06 添付文書 1
199~205枚
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三度目にあの子に会ったのは、公園でした。
あの子の家の近くにある、アパート団地の公園です。平日の午後4時だったので、他の子どもたちがたくさんいました。私は帽子を目深にかぶって行きました。
そのころ、私の顔は売れすぎていて、帽子をかぶっていないと、公園の母親たちが子どもを抱えて私のところへ来て、頭に手を置いてくださいと頼むのでした。
私はそのたびに、手を置きました。断る言葉を考えたら、その言葉がとんでもない祝福に変わって外へ出てしまいそうで、怖かったからです。
一度は、本当にそういうことがありました。スーパーの前で、あるおじさんが私の写真を撮ろうとしていました。
私は心の中で『撮らないでください』と思ったのですが、強く思いつめすぎたようです。おじさんは携帯電話を下ろすと、私に頭を下げて、「今日も一日、平安でありますように」と言って去って行きました。
周りの人たちが拍手をしました。次の日、コミュニティの掲示板に『あの方がスーパーで祝福を授けられた』という書き込みが載りました。閲覧数が一万を超えたそうです。
私はそれ以来、スーパーには行きません。
あの子は車椅子で来ました。
「歩けるじゃないですか」
「もったいないんです」
あの子が言いました。車椅子の車輪を手で転がしながら。
「歩くのは、能力ですることなんです。私はもともと、この体では歩けません。あの日、放送局では、あなたの前だったので使いました。今日は取っておきます。話すことがたくさんありますから」
それから、ブランコの横に車椅子を停めました。ブランコに乗りたい、という顔をしていました。
でも、乗りませんでした。ブランコに乗るには、立ち上がらないといけないからです。
運転手さんは、公園のベンチに座っていました。隣には、あの子の母が座っていました。
二人は魔法瓶にコーヒーを入れて持ってきて、分け合って飲んでいました。そのころ、二人は週末ごとに会っていると聞きました。
運転手さんは、私がその話を出すと、笑顔で話題を変えました。私は、あの方が自分のことで嘘をつくのを、初めて見ました。とても下手でした。
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俺は笑った。それから、ラーメンのことを思い出した。
ラーメンは先週、同僚のエージェントとお見合いをしたと言っていた。二人一組のパートナーだった。配膳口の前で毎日一歩ずつ離れて立っていて、仲良くなったらしい。汁物禁止の規定が恋を作った。俺はその話を、配膳口越しに聞いた。スニーカーと革靴が、いつもより半歩だけ近くに立っていた。
人はどこにいても相手を探す。カルトのベンチでも、帰還者収容施設の配膳口の前でも。
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あの子が言いました。
「あなたは、二つのうちの一つを選ばないといけません」
「二つ、ですか」
「一つはですね、絶え間なく奇跡を見せることです。毎日、今よりも大きく。雨を呼んで、人の頭の中に言葉を入れて、病気の人を治して。そうすれば、あなたはここに繋がり続けられます。しわがあなたを掴んでくれますから。その代わり、あなたは神になります。本当に。人々があなたを神と呼んで、あなたはそれを否定できなくなります。神は休んではいけないんですから」
あの子は、車椅子の肘掛けを指先でとんとんと叩きました。
「もう一つは、転がっていく雪だるまを止めることです」
「雪だるま、ですか」
「今あなたの周りで転がっているもの、全部です。団体、司祭たち、信者たち、献金、あなたの顔が入った額縁、あの方の靴下。あなたが作ったものでなくても、もうあなたの名前で転がっています。それを止めるんです。止めれば、あなたは奇跡をあまり使わなくなります。あまり使わなければ……」
あの子が言葉を止めました。
「滑りますよね」
私が代わりに言いました。あの子がうなずきました。
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絶え間なく奇跡を見せて神になるのか。転がる雪だるまを止めるのか。
俺にも、その二つがあるのだろうか。
俺が神になることはない。白い部屋の中では、誰も俺を神とは呼ばない。対象、八番目、KR-08。ラーメンはおじさんと呼ぶ。ところが、毎週、測定がある。測定の日には、俺は時間を使う。測定がない日には使わない。そして、使わない日ごとに、0.95秒ずつ滑っていく。
管理局の測定が、俺を掴んでくれているのだ。週に一度の奇跡。それを知っている人間が、この施設に何人いるだろうか。
「三つ目は?」
俺は訊いた。二つだと言われたけれど、三つ目があることは分かっていた。何年も、一人で考えてきたことだから。
あの子は、俺をまっすぐ見た。
「三つ目は、選ばないでください」
「何なのかも、言ってないじゃないですか」
「分かってるじゃないですか。私が、それを止めに来たんです」
あの子は、車椅子を少し前へ進めた。俺の膝の前まで。
「私たち、別の世界まで来て、死ぬためにこんな苦労をしたんじゃないんです。あちらで死にかけていたところを捕まえられて、ここまで滑ってきて、私は5分遅れて、10年待ちました。それなのに、ここで死ぬんですか? それは計算に入れないでください。死ぬのは、抜きです」
俺は答えなかった。
ブランコが、空のまま揺れていた。さっき、誰かが乗って降りたブランコだった。
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死ぬのは、抜き。
魔王城の百二十二番目の階段の上で、俺は死ぬつもりだった。
仲間四人を埋めて、一人だけ残ったとき、魔王を倒せば自分も一緒に倒れる、そう思っていた。
老司祭は、その前の晩、俺に言った。
死ぬつもりで戦う者は、死ぬ場所を探しているうちに、戦いを逃す、と。
生きるつもりで戦え、と。そうすれば、1秒を10回、巻き戻せる、と。
俺は、生きるつもりで戦った。
そして、生きた。
そして、戻ってきた。
戻ってきた場所で、最初に聞いた音は、10歳の子の悲鳴だった。
それでも、俺は三つ目を選ばなかった。妻の字があったからだ。
六番目には、そんな字が、あったのだろうか。
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「最初から、神だというのは嘘でした」
あの子が言った。
「司祭たちが作ったんです。あなたが作ったんじゃないんです。だから、無理やり神のふりをしないでください。仮面を外せばいいんです。ただ、私たちの人生を生きればいいんです。私はこの体で、あなたはその体で」
「その体、ですか」
「はい。その体で」
「もともと、持ち主がいた体です」
「知ってます。その話は、この前、あなたが先に言い出したじゃないですか」
あの子は、五歳みたいに口をとがらせた。それから、また五歳じゃないみたいに言った。
「道ばたの蟻を踏んだくらいで、一生泣いてはいられないんです。その蟻には、すみませんけど」
俺は、その言葉が嫌だった。あの子のことが、初めて嫌になった。
母さんの息子は、蟻じゃない。母さんが毎日揉んでやった足の持ち主だ。
ところが、あの子も、それを知っていた。俺が嫌がっているということを。
あの子は、その言葉を言ってから、しばらくブランコだけを見ていた。
それから、とても小さな声で言った。
「私も、その言葉は嫌いです。でも、そうでも思わないと、もたないんです」
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道ばたの蟻。
俺は手記を置いた。あっちで魔王軍を斬っていた日々が浮かんだ。数千人。
俺は彼らを蟻だとは思わなかった。敵だと思っていた。
敵は蟻より楽だ。理由があるから。
赤羽根の家のリビングで、俺はあの家族を四回殺した。頭の中で。
あのとき、俺は彼らを何だと思っていたんだろう。
敵だと思っていたなら、俺は実行していただろう。
蟻だと思っていたなら、たぶん踏んでいただろう。
俺は、彼らを人間だと思った。だから膝をついて、椅子をくらった。
それが、俺があっちから持ち帰ってきた唯一のもののような気がした。時間を除いて。
* * *
「仮面の話ですが」
俺は言った。
「外せばいいって、言いましたよね」
「はい」
「外れないんです」
あの子が俺を見た。
「何年も着けてました。最初は、司祭たちが着けてくれたんです。それからは、自分で着けるようになりました。毎朝、鏡の前で」
「それがある日、外そうとしたら、外れなくて。顔に張りついてました。無理に剥がしたら、顔ごと落ちそうなんです」
俺は自分の頬に触った。
俺の頬だ。この体の持ち主の頬でもある。
「仮面を外せば、私は死にます。神じゃないと言えば、奇跡をあまり使わなくなって。使わなくなれば、滑っていくんです。仮面を外さなければ、神として生きていくことになる。それが、私の二択です」
あの子は長いこと何も言わなかった。
それから、車椅子の車輪を手で一度だけ回した。ほんの少し、後ろへ。
「計算違いです。私が5分だけ早く来ていれば、仮面が張りつく前だったはずなんです」
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別れるとき、あの子が訊いた。
「あの人はどうするんですか。最高司祭です。ずっと若くなってるじゃないですか。あなたが連れてなきゃいけないんじゃないですか」
「掴まえられません」
俺は言った。
「あの人は、私が掴んでいるんじゃありません。私が放したんです。老いを。もう一度、掴み直すことはできません」
あの子は、頷いた。
それから、俺に手を差し出した。握手をしよう、と。
五歳児が。
「ありがとう。来てくれて」
俺は言った。あの子は笑った。
「私たちは、私たちの人生を生きます。無理に神のふりをしないで」
俺はその手を握った。冷たかった。そして、放した。
あの子の母がベンチから立ち上がり、車椅子の取っ手を握った。運転手さんは魔法瓶のふたを閉めながら、あの子に飴をひとつ握らせてくれた。あの子は飴を受け取ると、「ありがとうございます、おじさん」と言って、母が見ていないすきに俺にウインクした。それから運転手さんを顎で示して、親指を立てた。五歳児が。
運転手さんは、それを見ていなかった。あの子の母が車椅子を押していく後ろ姿だけを見ていた。いつも笑っている顔だったのに、そのときは少し違う笑みだった。司祭だった頃には、一度も見たことのない笑みだった。
その夜、ホテルでこの章を書きながら、俺は思った。
あの子は、俺が二択だと言ったときから、俺の答えを知っていたんだろう。だから、三つ目だけを止めに来たんだ。
お礼を言った。それから、別れた。俺はもう、どちらを選ぶか分かっていた。
* * *
あの日、公園で空のブランコが揺れた理由を、我々は知っている。風だった。それ以上は何でもなかった。
我々が広げた盤の上で、意味のないことはたいてい本当に意味がない。だから人々は、そこに意味を縫い付ける。




