第30話 計算違い
管理番号 KR-06 添付文書 1
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二日後、あの子がホテルに来ました。
お母さんの手を握って来ました。歩いて。
ロビーで、記者が何人かあの子に気づいて、後をつけてきました。
あの子は振り返って、記者たちに手を振りました。
記者たちは、そのまま止まりました。シャッターも押しませんでした。
あの子は、後で私にこう言いました。
「少し使いました。もったいないです。」
お母さんは、ホテルのカフェに残りました。あの子の母のことです。
運転手さんが、お母さんの向かいに座って、一緒にケーキを召し上がっていました。お二人はその日が初対面でしたが、後で見ると、お互いの電話番号を交換されていました。
二人とも、私のせいで人生がおかしくなった人たちなので、話したいことがたくさんあったそうです。
あの子は、私の部屋のソファに座るなり、ルームサービスのメニューを開きました。
「これ、頼んでもいいですか?」
お子様セットでした。とんかつ、フライドポテト、オレンジジュース、小さなプリン。
私は、頼んでいいよ、と言いました。
あの子は電話を取って、自分で注文しました。五歳の声で、とても丁寧に。
「1204号室です。お子様セットを一つお願いします。プリンは冷えた状態でお願いします。」
それから電話を切って、私を見ました。
「さて、それでは宇宙の話から始めましょうか。」
* * *
俺は笑った。
上の階のラーメンに聞かれるといけないので、今回も声は出さなかった。
宇宙の話をする前に、まずプリンの温度を気にする五歳。
あっちの大魔法使いもそうだった。王の前で世界の滅亡を予言する前に、茶が冷めたと言って、新しいのを持ってこいと命じた。王は文句ひとつ言わず、新しい茶を出した。
本当に怖い話をする人は、いつも些細なことから片づける。自分の話が終わったら、その些細なものは残らないかもしれないと、知っているかのように。
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あの子が言ったことを、できるだけそのまま書いておきます。
私が全部理解できたのかは、わかりません。
それでも、そのまま書いておけば、あとで誰かが理解できるかもしれないので。
「神というものは、いません。少なくとも、司祭たちが言うような神は。悪魔もいません。」
あの子が言いました。
「人が神と呼んでいるもの、悪魔と呼んでいるもの、聖人や魔女と呼んでいるもの。そのほとんどは、ただ、別のところから越えてきた人です。」
「別のところ、ですか。」
「別の世界です。ここに似ていて、少し違うところ。たくさんあります。本棚みたいに、並んで挿してあります。」
あの子は両手のひらを立てて、並べてぴったりくっつけました。本を二冊並べるみたいに。
「ときどき、一冊の本から別の本へ、人が滑っていきます。雷や稲妻みたいに。珍しいことですけど、おかしなことじゃありません。自然なことなんです。」
「じゃあ、私も……。」
「越えてくると、副作用ができます。本を抜いて挿し替えると、表紙に少ししわが寄るでしょう。そのしわが、能力になるんです。」
「宙に浮いたり、花を咲かせたり、人の夢に入ったり、人の頭の中に言葉を入れたり。」
あの子は、私を指さしました。
私は、息を止めました。
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俺は手記を閉じた。
本を抜いて挿し替えると、表紙にしわが寄る。そのしわが、能力になる。
あちら側の老司祭は、それを神の加護と呼んだ。俺は頷いた。太陽がなぜ昇るのかを問わないかのように。
今の俺は、問うていた。あちら側へ越えたとき、俺の表紙には何がしわになったのか。
あちらの言葉を、最初から聞き取れたこと。それから、三つ。言葉、火と治癒、そして時間。
こちら側へ来て、二つは伸びた。火も、治癒も出ない。時間だけが残った。
なぜ、時間だけが残ったのか。
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「普通は、そのしわが伸びます。」
あの子は言葉を続けました。
「使えば使うほど、減っていきます。1年ぐらい経つと、ほとんど伸びます。そのあとは、ただ普通に暮らせます。」
「越えてきた人のほとんどは、そうやって暮らして、いなくなります。誰も知りません。本人も、あとで忘れてしまいます。若いときに、ちょっと変なことがあったっけ、って。」
「私は、減りませんでした。むしろ……。」
「知ってます。あなたは、大きくなったんです。だから、私が来ました。」
ルームサービスが来ました。あの子は話をやめて、とんかつを切りました。包丁さばきがおぼつかなかったので、私が切ってあげました。
あの子はフライドポテトを一つ食べ、プリンが冷えているかをスプーンで確かめて、満足した顔で、また言いました。
「去りゆく魂を、無理に引き止めて越えさせると、逆になるんです。」
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「去りゆく魂、ですか」
「死にかけている人です。元の本から、魂が抜けかけている人。それを途中で捕まえて、別の本に挿すと、魂がその本にちゃんとくっつかないんです。元の本に戻ろうとします。でも元の本では、もう抜けかけているから、戻るところがないんです」
あの子はプリンをスプーンですくいました。
「だから、しわが大きくなるんです。しわでやっとくっついているだけですから。しわを使えばくっついていて、使わなければ滑ります。毎日、使わないといけません。毎日、奇跡を見せないといけません。止まったら、魂が滑り落ちて……」
「死ぬんですか」
「消えるんです」
あの子はスプーンを置きました。
「元の本にも戻れなくて、ここにもいない。最初からいなかったみたいに」
私は、あの人のことを思い出しました。
室外機の上にしゃがみ込んでいた、背の高い人。消される、と言った人。最初からいなかったことになる、と言った人。
あの人が言っていたのは、司祭たちの話でした。あの子が言っているのは、私の話でした。
同じ言葉でした。
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毎日、使わなければならない。使わなければ、滑り落ちる。
俺は、ベッドの枕元に寝かせてある壁時計を見た。備品第2014-117号。秒針が刻んでいた。
今日は何回、滑り落ちただろう。定期測定のない日だった。時間を使わなかった。歯ブラシを手に取って1回、配膳口の前で1回。0.05秒ずつ。
六番目は、この話を5歳の子どもから聞いた。俺は、六番目の手書きでそれを読んでいる。二人の間には5年があり、彼と俺の間にも、さらに何年かある。それでも、話は冷めていなかった。プリンのように。
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それから、あの子は私の足の話をしました。
「あなたは、元の本で交通事故に遭いました」
私は、何も言えませんでした。
「足を失ったんです。片方を。それから昏睡状態に陥って、魂が離れはじめました。そのとき捕まえられて、ここへ来たんです」
「じゃあ、私の足は……」
「元の本の足が痛いんです。なくなった足が。体はここにあるのに、魂はまだ、あちらの足を覚えているんです。だから、ここの病院では何も出ないんです。ここの足は、どこも悪くないんですから」
病院では、幻肢痛という言葉を使うそうです。ない手足が痛む、と。
でも、私は手足が全部ありました。だから誰も、その言葉を思い浮かべられませんでした。あのときは私も知りませんでした。ただ泣いていました。
5か所の病院で何も出なかったことも、健康状態が上位10パーセントだったことも、全部本当のことでした。この体は健康でした。痛んでいたのは、私じゃなくて、あちらにある私の足でした。
「集会の3日前、半日だけ、痛みませんでした」
私が言いました。あの子がうなずきました。
「その日、あちらであなたの体が動いたんだと思います。足の指とか」
その言葉を聞いて、母を思い出しました。
母は、毎日、私の足を揉んでくれました。70を超えた手で。母の手が触れると、少しだけ楽になりました。本当に。
私は、それが母の手だからだと思っていました。
でも、母が揉んでくれた足は、母の息子の足でした。痛かったのは、私の脚のほうでした。
母は、なんでもない足を揉みながら、その足の持ち主ではなく、その足に入り込んでいる私を、なだめていたんです。母は、それを知りません。これからも、知らないままでしょう。
母の息子は、どこにいるのでしょう。この体に元からいた人です。私は、そのことを何年も避けて生きてきました。あの日、初めて、逃げる場所がありませんでした。
* * *
俺は手記を置いて、自分の足を見た。痛くなかった。
俺は、あっちで脚を失ったことはない。こっちで交通事故に遭ったこともない。赤羽根の家の玄関で靴を脱いでいたら、気がついたときには、あっちだった。それが俺の記憶だ。
鏡の中の俺の顔は、こっちで過ぎた4年分だけ老けている。俺の体は、こっちの体だ。だとしたら、俺は六番目とは違う。俺は、殻を借りたんじゃない。
そう思った。それなのに、その考えを掴んでいる手は、歯ブラシを握ったときみたいに、ときどき止まった。
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先に書いておくと、その日の夕方、子供を見送りにロビーへ降りると、運転手さんとあの子の母が、まだカフェにいた。
ケーキの皿が4枚、積んであった。
運転手さんは笑顔で立ち上がった。口の端に、生クリームがついていた。
あの子の母が、それをハンカチで拭いてあげていた。
子供がそれを見て、俺に囁いた。
「あれは、計算に入っていませんでした」
それは、また後の話だ。ソファに戻る。
「じゃあ、あんたは誰なんだ」
俺は子供に訊いた。
子供は、プリンのカップの底をスプーンでこすっていた。最後の一口まで。
「私は、あなたと一緒に逃げた者です。同じ本からです」
「一緒に?」
「本当なら、一緒に着くはずでした。同じ場所に、同じ時間に。でも、私が計算を少し間違えました」
子供は初めて、五歳らしく口をとがらせた。
「5分、遅れました。あっちで、私が5分遅く死にました。その5分が、こっちでは10年になりました。あなたが先に来て、三十いくつになるまで、私はまだ生まれていませんでした。だから、生まれたとたんに、あなたを探しました。もったいないものを使い切って」
「なんで、俺を探した」
「警告するためです。あなたがあまりにたくさん、使い切ってしまう前に。でも、遅かった。これも計算違いです」
子供は空のプリンのカップを置いて、俺を見た。長いこと、見た。
そのとき、俺は訊いた。子供が来る前から、何年もひとりで考えていた質問だった。
「じゃあ、俺は――この体に元からいた人間を、殺したのか」
子供は答えなかった。しばらく経ってから、これだけ言った。
「その話は、あなたが先に出しました」
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「計算違い」という言葉を、我々はあの子から初めて聞いた。我々は計算をしない。広げて眺めるだけだ。
ところが、その5分がなぜ生まれたのかは、広げたどの頁にも書かれていなかった。




