第29話 失われた秒
手紙は毎週木曜日に来た。
配膳口の蓋が開いて食器が入ってくると、その上に封筒が載っていた。封筒はもう開けられていた。開けられた跡には透明テープが貼られ、その上から赤い判が押してあった。
検閲済 ── 国家移住管理局特殊課
判はいつも少し傾いていた。押す人間が毎回違うらしかった。ある週は封筒の裏の真ん中にきちんと押され、ある週は角に半分ほどかかっていた。半分かかっていた週は、たぶんラーメンが押したのだろう。
便箋には罫線がなかった。妻は罫線のある便箋を使わない。罫線があると息が詰まると、付き合っていた頃にそう言っていた。罫線がなければ、越える線もない。
それでも字は紙の端まで届いた。毎回、最後の行は紙の下の角で折り返して、裏面へ続いていた。
* * *
検閲は妙な場所を消していた。
最初の週の手紙には、黒い線が三か所あった。一つはアパートの棟と号室。それは理解できた。一つは妻の勤め先の名前。それも理解できた。最後の一つは、文の真ん中だった。
昨日の晩、■■■■■を煮たんだけど、あなたを思い出して、半分は捨てた。
俺はその黒い線を長いこと眺めた。四文字、あるいは五文字。
妻が煮るものの中で、俺を思い出すきっかけになりそうなものといえば、キムチチゲだ。キムチチゲは五文字。なぜキムチチゲを消したのか。
翌日、白い部屋で面談官に聞いた。
「キムチチゲは機密事項ですか。」
「訂正いたします。キムチチゲではありませんでした。」
「じゃあ、何だったんですか。」
「プデチゲでした。奥さまが、その店の名前も併せて書かれていました。その店がアパートの商店街にあるため、位置が特定されます。」
俺は黒い線をもう一度思い出した。五文字。
『○○プデチゲ』。店の名前を消しているうちに、検閲担当は『プデチゲ』まで一緒に消してしまったのだ。
妻がプデチゲを煮たという事実は国家の安全保障とは無関係だったが、黒い線は一度引いてしまえば、もう戻せない。
俺は4年の間、妻がプデチゲを煮られることを知らなかった。一緒に暮らしていた頃、妻はプデチゲを買って食べていた。一人残された4年の間に、煮方を覚えたのだ。
俺を思い出して、半分は捨てるくせに。
久しぶりに現れた黒い線だった。妻はもう検閲を学んでいたのに、プデチゲの前で、一度だけ油断したのだ。
2週目の手紙には、黒い線がまた一本もなかった。代わりに、こう書いてあった。
冷蔵庫のメモ、通話が終わって家に帰ってから、また貼り直したよ。今、家の冷蔵庫に貼ってある。あなたが画面で見た、あれ。
画面で見た。妻が鞄から取り出して見せてくれた、あの黄色い紙だ。
『ちゃんとごはん食べるこ』。
最後の『と』が、紙の端で切れていた。
3週目の手紙は短かった。紙一枚の半分。最後の行は今回も紙の下の角で折り返していて、裏面にはひと言だけがあった。
ごはん。
食べてろという意味なのか、食べたかという意味なのか、ただの「ごはん」という意味なのか。
俺はその一言を、三日間考えた。
* * *
おかしなことは、4週目あたりから始まった。
朝、洗面台の前に立っていた。歯ブラシに歯磨き粉を絞って、口に入れて、磨き始めた。そして我に返ったとき、俺は歯ブラシをくわえたまま立っていた。泡が顎に伝っていた。
手が止まっていた。磨いていた手が。
どれくらい止まっていたのか、分からない。ほんの一瞬だった気がする。瞬き一回分の。
だが、その一瞬の前と後がつながらなかった。歯ブラシが奥歯のほうにあった記憶はあるのに、我に返ったときには前歯にあった。その間の歯磨きが、なかった。
あっちで、こういう例を見たことがある。長く飢えた兵士が、行軍の途中で立ったまま眠りに落ちる。歩きながら、少しの間だけ死ぬ。兵士たちはそれを「足が眠る」と呼んでいた。
俺は寝不足ではなかった。明け方3時に目を覚ますのを除けば、よく眠れていた。飯もよく食べていた。汁物は、相変わらず禁止だったが。
その日はそのまま流した。泡をすすいで、歯を最後まで磨いた。
* * *
2日後、白い部屋で同じことがあった。
面談官が書類をめくっていた。俺は、彼女がめくる書類を見ていた。3枚目をめくるところを見た。そして気がついたとき、彼女は5枚目をめくっていた。
4枚目がなかった。
「今のは、何枚目でしたか」
俺が訊いた。彼女が顔を上げた。
「5枚目です。どうかされましたか」
「4枚目は」
「めくりました。たった今」
彼女は少しの間、俺を見た。斜めに座ったまま、俺の左肩の向こうではなく、俺の目を。
そしてまた、書類に頭を下げた。5枚目の隅に何かを書いた。俺には、それが何なのか見えなかった。
* * *
ラーメンが先に口を開いた。
その頃、ラーメンは配膳口ではなく、ドアを開けて入ってくるようになっていた。2人1組の規定は、そのままだった。ラーメンがトレイを持ち、もう一人の職員がドアの前に立った。
ラーメンは相変わらず、俺の目を見なかった。代わりに、俺の手を見た。手だけを見ていれば、そこまで怖くないのだと言った。効果があるかどうかは、ラーメンにも分からないと言った。
ラーメンなりの研究だった。
その日、ラーメンはトレイを置きかけて、手を止めた。
「おじさん」
「はい」
「おじさん、ときどき止まってますよ」
俺はスプーンを持ったまま、ラーメンを見た。ラーメンは、俺の手を見ていた。
「どういうことですか」
「モニターで見るとですね。観測室で。おじさんがときどき、1秒くらい、そのまま止まるんです。映像が途切れたみたいに。最初は機材の問題だと思ったんです。フレームドロップ。だから装備交換申請書も出しました。3回も」
「交換されたんですか」
「いいえ。却下されました。機材は問題ないって。別の画面に映してみたら、おじさんだけ止まってて、後ろの時計は進み続けてたんです」
ラーメンは、少し黙った。
「室長に報告しました。でも、室長はもうご存じでした」
* * *
対象協力度:□上 □中 □下
その週の測定表にも、その欄はあった。面談官は「上」にチェックを入れた。その横の、括弧の中に短く書き添えた。今度は「水を注ぐ」ではなかった。
(異常症状、自発申告)
俺は、申告したことなど一度もなかった。4枚目がどこへ行ったのかと訊いただけだ。
彼女は、その質問を申告に分類した。役所の分類は、いつでも当事者より速い。
* * *
その週の定期測定。
俺は、いちばん小さな音を探した。
上の階で、ラーメンがキンパの銀紙を折り畳む音。
その音を、掴んだ。世界が、青く染まった。
水は注がなかった。何にも触らなかった。
彼女のポケットには、薬ケースがあった。今度の薬ケースは、ラベルの色が違った。薬が変わったのだ。
解いた。
彼女は録音機の画面を見た。画面は俺のほうへは向けなかった。代わりに、今度は言った。
「マイナス0.95です」
俺は彼女を見た。彼女が、訊かれるより先に数字を教えてくれたのは、初めてだった。
監査の日までは、いつも「正常範囲です」だった。監査の日に、俺が巻き戻した秒を彼女が口に出したのは、ただの一度だけだった。
「増えましたか」
「増えました」
彼女はクリップボードに数字を書いた。マイナス0.95。ペン先が、紙を少し突き破った。
妻が不同意理由書にチェックを入れていた手のように。
「なぜ、今日は教えてくれるんですか」
「あなたが、もう気づき始めていたからです」
彼女は書類ファイルを閉じた。
「4枚目のことです。それは、あなたが失くしたものです」
* * *
その日の晩、俺は時計を申請した。
部屋に時計はなかった。白い部屋にも、なかった。
帰還者に時間感覚を与えないのが原則なのか。それとも、誰も思いつかなかっただけなのか。俺には分からない。
面談官に言ったら、用紙を一枚渡された。
備品貸与申請書。品名、数量、使用目的、貸与期間。
使用目的の欄は、やはり一行しかなかった。
俺は「秒針確認」と書いた。貸与期間の欄には「不明」と書いた。
「不明」を見た面談官は、ボールペンを手に取った。
——直さなかった。そのまま、決裁欄に判を押した。
2時間後、配膳口から時計が届いた。
プラスチックの壁時計だった。裏には管理番号のシールが貼ってある。備品第2014-117号。
秒針はあった。音が、大きかった。
俺が申請書に「腕時計」と書かなかったからだ。品名の欄には、ただ「時計」と書いた。
俺はその壁時計を、ベッドの上に寝かせた。
壁に掛ける釘がなかった。ねじ穴は四つあったが、そこに掛ける気にはならなかった。
ベッドに座って、寝かせたままの壁時計の秒針を見た。
チク、タク。チク、タク。チク、タク。
しばらく、見ていた。秒針は普通に回っている。何も起こらない。
俺が勝手に気を張りすぎているだけだ。そう思おうとした、その瞬間だった。
チク、タク。チク、タク。
そして、秒針が目盛りをひとつ飛ばした。
いや。飛ばしたのは、秒針じゃない。
俺だ。
二つの目盛りの間のどこかで、俺はいなくなっていた。気がついたときには、秒針はもう次の目盛りの上にあった。
俺は時計を膝の前へ引き寄せて、もう一度見た。
今度は数を数えた。声に出して。秒針と一緒に。
ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。
いつつを数えようとして、秒針はもう六の上にあった。
口を閉じた。手が震えていた。
数を数えていた自分の声が、どこで途切れたかを測った。
秒針が過ぎていった目盛りの間。ひとつ分に、少し足りない長さ。
今日、俺は何度こうなっただろう。
歯ブラシ。四枚目の紙。ラーメンが見ていたモニターの停止。
そのたびに失った時間は、どれほどだったのか。
俺は時計を、もう一度ベッドの枕元に寝かせた。そして、分かった。
今日、俺が失った時間は、毎回きっかり0.95秒だった。
* * *
彼が0.95秒を失った瞬間の一つ一つを、我々は並べて広げておいた。
歯ブラシを手にしたまま立っていた、あの朝も。
我々はいつも、結果しか知らなかった。




