第28話 対面
管理番号 KR-06 添付文書 1
183〜190枚
* * *
専用機に乗りました。
教団に専用機があることを、その日、初めて知りました。司祭たちは「宣教用航空機」と呼んでいました。宣教用航空機の座席は革張りで、肘掛けには金色の円盤が刻まれていました。
乗務員がシャンパンを注いでくれました。私は酒が飲めないので、アップルジュースを頼みました。アップルジュースはありませんでした。宣教用航空機には、シャンパンしかありませんでした。
運転手さんも一緒に乗っていました。飛行機は運転できないので、ただ私の隣の席に座っていました。離陸のとき、その人が私の手の甲を、そっと一度叩いてくれました。いつも笑っている顔なのに、その日は笑みが少し薄かったです。
「あの子を、なぜ見に行くのですか。」
「分かりません。行かなくてはいけない気がします。」
「予感ですか。」
「予感というより。誰かに呼ばれている気がします。とても小さな声で。」
出発前、空港のラウンジに、最高司祭がお見送りに出てきました。ほとんど20歳の顔でした。数年前までは杖をついていた人です。肌は張っていて、髪は黒かったです。声だけが、年老いたままでした。
信者たちはあの方を見ると、「第一使徒が若さを取り戻した」と言って手を合わせました。若い信者たちの間では、あの方の写真のほうが、私の写真よりよく売れるそうです。
最高司祭は、ラウンジのソファに座ったまま、私を見ずに言いました。
「子ども一人を見に行くのに専用機を飛ばすのは、無駄だ。だが、それだけカメラが来るなら、元は取れる。」
そう言って、手鏡を取り出し、自分の顔を見ました。最近のあの方は、よく手鏡を見ていました。見るたびに、少しずつ表情が変わりました。嬉しそうな顔から、ほんの少しずつ、おかしい、という顔へ。
あの方は、まだ知りませんでした。若くなっているのではない、ということを。私だけが知っていました。私がしたことだからです。
* * *
宣教用航空機には、シャンパンしかなかった。
俺は笑って、あっちの王の馬車を思い出した。
王の馬車には、ワインしかなかった。水をくれと言ったら、侍従長に叱られた。勇者が水を飲めば、民は王宮に水がないと思うのだ、と。
その日、俺はワインを水のように飲んで、馬車の外に吐いた。民たちはそれを見て、勇者が魔王の毒を吐き出した、と拍手した。
高い身分の乗り物には、いつも飲み物がひとつしかない。水がない。
* * *
運転手さんは、それ以上は聞きませんでした。あのころの私は、嘘がつけませんでした。その人も、それを知っていました。だから、私が分からないと言えば、本当に分からないということでした。
* * *
俺は手記を膝の上に置いた。
誰かに呼ばれているようだ。とても小さな声で。
9日前、画面の中の妻は「じゃあ、待ってる」と言った。大きな声で。通話時間の制限が終わる30秒前に。その声は、まだ耳に残っている。小さくなかった。
でも、それからは、明け方の3時に目を覚ますたびに、ときどき別の音が聞こえる。部屋でいちばん小さな音よりも、もっと小さな音。つかまえようとすると、消える。
まだ誰にも言っていない。
* * *
空港から放送局の建物までは、車で行きました。窓の外に、カメラが見えました。とてもたくさんありました。記者たちが建物の前に群がっていました。あの子のインタビューが放送されてから、全国の放送局がみんな来たそうです。夢が「あの方」に会うことだという5歳の子と、あの方。
司祭さんたちは、これを「ファン管理」と呼んでいました。あの方は、ときどきイベントをなさらないといけないのだそうです。
私は、イベントではありませんでした。それでも、司祭さんたちはそう呼びました。
建物のロビーは、スタジオのようにしつらえてありました。照明が10個ほど、カメラが5台。後ろの壁には、横断幕が掛かっていました。「奇跡の出会い」。誰がいつ横断幕をあつらえたのか、分かりません。あの子がテレビに初めて出たのは、4日前だったのに。横断幕の下の隅には、印刷所の名前が入っていました。当日製作可能。
ロビーの真ん中に、車いすがありました。
* * *
あの子は車いすに座っていました。
本当に小さかったです。五歳。脚には毛布が掛けられていました。毛布の下から見える足は、とても細かったです。歩いたことのない足でした。顔は、テレビで見たときよりも白かったです。目だけが大きかったです。
隣にあの子の母が立っていました。あの子の母は泣き続けていました。うれしいのか怖いのか、わからない顔で。
私がロビーに入ると、フラッシュが焚かれました。数十個が一度に。目の前が白くなりました。足が痛みました。その日の朝、白い錠剤を4錠飲みました。いつもは2錠です。それでも痛みました。
そのとき、あの子が立ち上がりました。
* * *
俺はその一文を二度読んだ。
「そのとき、あの子が立ち上がりました。」
歩いたことのない足で。毛布は床に落ちたのだろう。あの子の母は悲鳴を上げたのだろう。カメラ5台がその瞬間をとらえたのだろう。
そして、おそらく翌朝、すべての新聞の1面に同じ見出しが載ったのだろう。
「あの方が手を振ると、歩けなかった子どもが立ち上がった」
俺は次の一文を、もう知っている気がした。そして、そのとおりだった。
* * *
私は何もしていません。
本当です。手を振りもしませんでした。考えもしませんでした。ただ、フラッシュのせいで目を細めて立っていました。
あの子は車いすから立ち上がり、毛布を踏んで、一歩、二歩と私のほうへ歩いてきました。足取りはたどたどしかったです。初めて歩く人の足でした。それなのに、転びませんでした。代役の兄弟は七番目のエックスで転んだのに、この子は転びませんでした。
ロビーが静かになりました。フラッシュも止まりました。記者たちは、シャッターを押すのを忘れていました。
あの子は私の前に立ちました。背は、私の腰にも届きませんでした。あの子は顔を上げて私を見ました。そして言いました。ロビーにいる全員に聞こえるように、はっきりと。
「はじめまして。空にいらっしゃるはずの方に、本物の征服者がいまようやくお目にかかります。」
五歳の声でした。なのに、語彙は五歳のものではありませんでした。
その瞬間、フラッシュがまた焚かれました。さっきより、ずっと多く。記者たちが叫びました。質問が20ほど、一度に飛んできました。末端の兄弟たちが腕を広げて記者たちを遮りました。誰かがあの子の母を支えました。あの子の母は、へたり込んでいました。
その騒ぎの中で、あの子が私の手を握りました。小さな手でした。冷たかったです。
「静かなところへ行きましょう。話したいことがたくさんあります。」
* * *
本物の征服者。
俺はメモ帳を取り出した。会社勤めをしていた頃の癖だ。質問には番号を振る。
征服者。何を征服したというのか。
番号を振る前に、少し考えて、消した。この質問は、面談官に聞くことじゃなかった。彼女も知らないだろう。知っていても、言わないだろう。保留。
代わりに、別のことを書いた。
6. あの子は今、どこにいるのか。
* * *
放送局の待合室でした。ソファが二つと、鏡が一つ。それから、ペットボトルの水が何本か。
運転手さんが扉の前に立っていました。司祭の方々が入ってこようとすると、運転手さんは笑顔で止めました。
「あの方は、ただいまお祈り中でいらっしゃいます。」
あの方は、お祈り中ではありませんでした。それでもその頃、運転手さんは私の代わりに嘘をついてくださいました。私には、できないからです。
あの子はソファにどさりと座りました。脚を揺らしました。たった今、初めて歩いた脚でした。
「脚、大丈夫ですか?」
私が尋ねました。あの子は笑いました。
「もともと大丈夫でした。使っていなかっただけです。使うと、もったいないので。」
「もったいない、ですか?」
「力は、節約しないといけません。私はあなたを探すのに、使いすぎました。公式に発見され、放送に出て、あなたの目に留まるために。歩く分まで使う余裕がありませんでした。」
私は、何の話かわかりませんでした。
あの子はペットボトルのふたを開けようとして、開けられませんでした。手の力は五歳児のものでした。私が開けてあげると、あの子はありがとうと言って、ごくごくと飲みました。その姿だけを見れば、ただの五歳でした。
それから、あの子はペットボトルを置いて私を見ました。その目は、五歳ではありませんでした。
* * *
「その足、まだ痛いですか?」
あの子が訊きました。私は、何も答えられませんでした。
私の足が痛いことを、母も知りません。団体でも、知っているのは数人だけです。ミサのとき、私はいつもまっすぐに歩いていました。白い錠剤を飲んで。
「どうして、わかるんですか?」
「私も痛かったからです。私は頭が痛かった。生まれてからの数年、ずっと。今は痛くありません。あなたを見つけたので。」
あの子はソファに背を預けました。足が床に届かないので、宙に揺れていました。
私はその日の夜、ホテルでこの章を書いています。あの子がそのあとに話したことは、次の章から書きます。長すぎますし、まだ全部は信じられないからです。
ただ、その日の待合室であの子が言ったことの中に、私が何年も前からひとりで考えていた言葉が、一つありました。私がその言葉を口にすると、あの子には通じました。私が誰にも言ったことのない言葉でした。
痛いのは体がすることで、知るのは魂がすることだそうです。でも、私はどちらも自分のものではない気がします。
私がそう言うと、あの子はうなずきました。
「そのとおりです。どちらもあなたのものではありません。だから、痛いんです。」
* * *
手記の190枚目は、そこで終わっていた。
帰還して12日目。面談官が灰色のファイルを開いて、その一文を読んでくれた。感情のない声だった。書類を読み上げるように。
今日は131日目だ。その間に、俺はあの一文を何度もひとりでつぶやいた。
あのときは、その一文がどこから来たのか分からなかった。あっちの老司祭と、こっちの物流センターの作業員が同じことを言った、ということだけは知っていた。
今は、ひとつだけ分かっている。
六番目は、あの言葉を誰からも聞いていない。五歳の子どもが、あの言葉を聞いて分かった。
「どっちもあなたのものじゃないんです。だから、痛いんですよ。」
俺は自分の足を見下ろした。痛くなかった。それが幸運なのかどうか、初めて確信が持てなかった。
* * *
我々は、あの待合室のペットボトルを覚えている。誰が栓を開けてやり、誰が飲んだかまでも。
あの日、二人が交わした言葉は、我々の本棚にはない。我々はいつも、答えだけを知っていた。




