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第27話 ビデオ通話

判は、医務室から戻った次の週に押された。


俺はその場面を見ていない。ある朝、配膳口からトレーが入ってきた。トレーの上には、バナナ牛乳の代わりに、一枚の要請書が載っていた。


ラーメンが入れたものだった。配膳口の向こうで、ラーメンのスニーカーが跳ねていた。その場で跳びはねていた。


決裁欄は三つあった。担当、検討、承認。


三つとも埋まっていた。


承認欄の判は、他の二つより小さかった。名前は彫られていなくて、「室長」の二文字だけだった。


判は傾いていなかった。とてもまっすぐに押されていた。誰かが長く迷ってから、一度で押した。


判の下に、ボールペンで小さく一行書いてあった。


通話15分・延長不可。


「おじさん! 決まりました! 決まったんですってば!」


配膳口の向こうで、ラーメンが叫んだ。革靴がラーメンのスニーカーをこつんと小突いた。今度は、その革靴も一緒に跳ねていた。


* * *


通話の日取りは、それから3週間後に決まった。


その3週間、俺はマニュアルの18ページを覚え直した。第二章の禁止事項、23個。付録Aの予想質問、14個。それから、15番の空欄。


面談官は、その空欄を最後まで埋めなかった。


通話の前日の夜、ラーメンが白い部屋に来た。目を閉じたまま。手には、マイクロファイバーの布とスプレー。


テーブルの上のスタンドに差してあるタブレットを、手探りで探し当てた。スプレーをシュッ、シュッと吹きかけて、画面を拭き始めた。


「何をしてるんです。」


「画面を拭いてるんです。明日、奥さんがこの画面の向こうからおじさんを見るじゃないですか。汚れてたら、だめじゃないですか。」


ラーメンは目を閉じたまま画面を拭いた。上から下へ。一度拭いて、スプレーを吹きかけて、また拭いた。画面は鏡みたいに光った。画面が消えていたので、俺の顔が映っていた。


「これ、本来は僕の仕事じゃないんです。」


ラーメンが言った。


「白い部屋の鏡も、僕が拭いてるんですよ。毎朝。おじさんが寝てる間に。指紋が一つでもあると、室長が拭き直せって言うんです。鏡の向こうから見るのに、汚れがあると、おじさんがちゃんと見えないからって。」


俺は、白い部屋の片側の壁を見た。指紋ひとつない鏡。誰が毎日拭いているのか、気になっていた鏡。


「あの鏡、ラーメンが拭いてたんですか。」


「4か月目です。僕が初めて来たときから。」


ラーメンはタブレットの画面を最後にもう一度拭いて、スプレーのふたを閉じた。目を閉じたまま、扉の方へ手探りで進んでいった。


「鏡は、拭き方があるんです。上から下へ。一方向にだけ。往復すると、汚れが広がるんです。室長が教えてくれました。」


扉が閉まった。俺は、消えた画面の中の自分の顔を、長いこと見ていた。


* * *


鏡の拭き方。


六番目は、毎日拭かれる鏡だった。毎朝、誰かが彼の顔にクリームを塗った。あの方の顔は、輝いていなければならなかったから。


俺は、鏡の前に座っている人間だった。


鏡の向こうの人間たちが俺を安全に見られるように、ラーメンは毎朝その鏡を拭いていた。4か月間。俺を裸眼で見ることすらできない人間が、俺がちゃんと見えるように。


上から下へ。一方向にだけ。往復すれば、汚れは広がる。


俺はあっちで、11年の間、行ったり来たりしていた。村と戦場、英雄と虐殺者の間を。汚れは広がっただろう。


その汚れは、誰が拭いてくれるのか。


* * *


通話当日、午後2時。


この通話には、三人いた。俺と、面談官と、それから上の階の観測室にいるラーメン。ラーメンは画面の外でストップウォッチを握っていた。15分。


面談官は俺の隣、画面の外の椅子に座った。タブレットのカメラに映らない位置だった。


「禁止事項、覚えていますか。」


「23個です。」


「15分になったら、私が切ります。延長はありません。」


「分かってます。」


「それから。」


彼女は少し止まった。


「15番の質問が出ても、お答えにならなくても構いません。」


俺は彼女を見た。彼女は画面を見ていた。


「答えなかったら、どうなるんですか。」


「奥さまが、お答えになります。」


ラーメンがスピーカー越しに言った。


「接続します。」


タブレットの画面が黒くなって、呼び出し音が鳴った。一度。二度。


三度目の音で、画面が明るくなった。


* * *


妻がいた。


画面の中の妻は、白い壁の前に座っていた。管理局が指定した場所だった。警察署の相談室だと聞いた。窓も額縁もない白い壁。妻の背後には、何もなかった。


妻は、髪が短くなっていた。4年前は肩の下まであったのに、今は耳の下だった。顔はやせていた。眼鏡をかけていた。4年前はコンタクトだった。眼鏡のフレームは、妻の顔に比べて少し大きかった。


妻は、マスより大きな字を書く人で、顔より大きな眼鏡をかける人だった。


妻が、俺を見た。


俺はその瞬間を、帰ってきた日から待っていた。赤羽の居間で、アイスを持った子どもが息を止めた瞬間から。ラーメンがテーザー銃を抜いた瞬間から。監査官が椅子を持ち上げた瞬間から。


妻が俺を見る瞬間、妻も息を止めるだろうか。


妻は、息を止めなかった。


妻の口が、少し開いた。そして、閉じた。目が大きく開いて、ゆっくりと細くなった。眼鏡の奥で、目尻が濡れるのが見えた。妻は泣くまいとしていた。息を一度、飲み込んだ。怒ったときに、文の真ん中で飲み込む、あの息だった。でも、今回は、怒っているからではなかった。


「ひげ。」


妻が言った。最初の一言だった。


付録Aの予想質問1番は、「生きてた?」だった。妻は、マニュアルを読んでいない。


「ひげ、剃りなよ。」


* * *


俺は笑った。笑いが噴き出した。声が出た。


画面の外で、面談官の息が少し揺れた。上の階のスピーカーから、ラーメンが鼻をすする音が聞こえた。ラーメンは、マイクを切るのを忘れていた。


「剃刀がなくてな。ここは刃物類が禁止なんだ。」


「刃物類?」


「禁止事項だから、これ以上は言えない。」


妻が笑った。泣きながら笑った。眼鏡を外して、手の甲で目を拭った。また眼鏡をかけた。眼鏡が傾いていた。


「そのままだね。」


「何が。」


「顔。そのままだよ。4年前と。ううん、少し老けた。やせたし。でも、そのまま。」


画面の向こうの妻が見ている顔。そのままの顔。鏡の向こうでラーメンが見ていた、平凡なおじさん。画面の向こうで、ラーメンが笑いかけた、ただのおじさん。


妻が見ているのは、その顔だった。呪いが剥がれ落ちた顔。


それが本当の俺なのか、俺にはまだ分からない。それでも、妻がそのままと言った。妻は嘘をつけない人間だ。俺より、ずっと。


* * *


後から考えてみると、あの15分の間に、俺は禁止事項を四つ破っていた。


施設の特徴に言及することの禁止(刃物類の件)。


帰還前にいた世界について描写することの禁止(妻がどこにいたのかと聞いたとき、俺は「遠く」としか言わなかった。それでも面談官は、それも描写だと言った)。


施設職員に言及することの禁止(ラーメンが鼻をすする音が聞こえて、妻が「隣に誰かいるの?」と聞いた。俺は「ラーメン」と答えた。妻はそれが人の名前だとは思わず、夕飯のメニューだと思った)。


そして、最後のひとつ。


最後のひとつは、禁止事項の一覧には載っていなかった。だから、破ったのかどうかも、分からない。


* * *


「冷蔵庫。」


妻が言った。10分ほど過ぎた頃だった。


「手紙に書いてたでしょ。冷蔵庫、持ってきたって。」


「うん。」


「それが、まだ貼ってあるんだ。」


妻が画面の外へ手を伸ばした。鞄を探る音がした。そして、手に持った何かを、画面の前に差し出した。


紙だった。黄ばんだ紙。角は擦り切れて、丸くなっていた。テープの跡が四か所。冷蔵庫から剥がしてきたものだった。


ちゃんとごはん食べるこ


紙の端で、「と」の字が切れていた。


東京へ発つ日、空港で妻が俺の手に握らせた紙。赤羽の冷蔵庫に貼ってあった紙。


「引っ越すとき、これ、剥がそうとしたら破れそうだったの。だから、冷蔵庫ごと持ってきた。引っ越し屋さんが、冷蔵庫を一つ運ぶのに、10万ウォン多く取ったよ。」


「10万ウォン。」


「うん。この紙一枚に、10万ウォン。」


俺は画面の中の紙を見た。妻の字。マスのない紙の上で、わがままに大きくなった字。紙が妻の言葉を載せきれなくて、切れてしまった最後の一文字。


「ごはん、ちゃんと食べてた?」


妻が聞いた。


俺は、あっちでの11年を思った。飢えた日のほうが、食べた日より多かった。魔王城の前の半年は、野ねずみを焼いて食った。こっちへ来てからは、汁物のないトレーを食っている。


「うん。ちゃんと食べてた。」


嘘だった。俺は嘘をつける。六番目とは違って。


妻は、それが嘘だと分かっていた。妻の顔に、全部書いてあった。それでも妻は、うなずいた。


* * *


画面の外で、ラーメンが小さく言った。


「13分です。」


妻にも、その声が聞こえた。妻は息を一度飲み込んだ。そして、聞いた。付録Aの14番と、ほとんど同じ質問だった。妻はマニュアルを読んでいないのに、マニュアルの順番どおりに聞いた。人が4年待つと、聞くことは決まってくるらしい。


「どうして、来られないの?」


俺は推奨の回答を知っていた。1年後に話そう。七番目のときに作った文章だ。


「1年。」


俺は、それだけを言った。「話そう」は付けなかった。それを付けたら、七番目の文章になるから。


「1年だけ。」


妻は長いこと、俺を見た。画面の向こうから。息を止めずに。


そして、15番が来た。マニュアルの空欄。面談官が埋められなかった欄。七番目のときにも、埋められなかった欄。


「じゃあ……。」


妻が口を開いた。


俺は、妻が「じゃあ、私が行く」と言うものだと思っていた。だから、その次に言う言葉を選んでいた。約束でも、拒絶でもない言葉。そんな言葉は、この世にない。


「じゃあ、待ってる。」


妻が言った。


「4年も待ったんだから。」


* * *


画面の外で、面談官が動いた。椅子が床をこする音が、ごく小さく鳴った。彼女は立ちかけて、また座ったようだった。


ラーメンが言った。


「15分です。」


「切らないと。」


俺が言った。


「分かってる。さっきの人に聞いた。警察署で。15分だって。延長はないって。」


妻は、切れる前に、もう一度紙を画面の前に差し出した。


ちゃんとごはん食べるこ。


そして、画面が消えた。


黒い画面に、俺の顔が映った。ラーメンが昨夜拭いた画面。上から下へ、一方向にだけ。汚れはなかった。


俺は、泣いた。


わかめスープがしょっぱくて流した涙とは、違っていた。あのときは、声が出なかった。今度は、声が出た。白い部屋で声を上げて泣いたのは、初めてだった。あっちでも、声を上げて泣いたことは、一度もなかった。仲間を四人、埋めたときも。声を出せば魔王軍に聞かれると、教えられていたから。


面談官は、顔を背けなかった。


彼女は画面の外の椅子に座ったまま、俺を見ていた。斜め越しではなく、まっすぐに。上の階のスピーカーは、静かだった。ラーメンが、今度こそマイクを切った。あるいは、ラーメンも泣いていて、音が聞こえなかったのか。


彼女のクリップボードには、「対象協力度」という欄があった。彼女はその日、その欄に何もチェックしなかった。代わりに、欄の横の余白に、ボールペンで小さく書いた。後に、その測定表を見た。


(15番 ― 奥さまが回答)


* * *


はじめに、布があった。最初の手が下絵を描き、我々に針を分け与えて去った。


我々はひと針ずつ縫った。腕がいいほど、布は引っ張られて傾いた。傾いたほうへ人々が滑り、我々はその場所をまた縫った。


その日、画面ひとつを挟んで向かい合って座った二人は、我々が、それぞれ違う年に、別々に傾けてしまった二枚の布だった。


誰も、その二枚を突き合わせて縫えとは言わなかった。それなのにあの日、ひと針が、ひとりでに縫い合わされた。


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