第25話 接触
空欄を、お前は読んだことがあるか。
お前たちはそれを空欄と呼ぶ。我々は、まだ返事の来ていない問いと呼ぶ。
* * *
決裁欄の空欄は、1か月のあいだ、空いたままだった。
俺はその要請書を、枕元に立てかけておいた。毎朝、目を覚ますと、まず空欄を見た。
担当、検討、そして空欄。承認。その下に印刷された二文字。室長。
その間に、妻からさらに手紙が3通届いた。1週間に1通ずつ。
どの封筒にも、同じ赤い判が斜めに押してあった。検閲済――国家移住管理局特殊課。
黒塗りは、回ごとに減っていった。最初の手紙は7か所。2通目は5か所、3通目は3か所。4通目の手紙には、黒塗りが一つもなかった。
妻は、居場所を書かなくなったのだ。
検閲されると知ってから、妻は検閲されるようなことを外して書いた。
代わりに書いたのは、別のことだった。今日の昼に食べたもの。会社であったこと。うちの冷蔵庫の扉が、最近よく閉まらないこと。ベランダの空いた植木鉢に、何を植えてみようかと思っていること。
何の花かは、書かなかった。花の名前で土地が割り出せると思ったのだろう。
妻は、管理局の規程を覚えていった。俺より早く。
どの手紙も、最後の行は同じだった。
顔だけ見せて。
* * *
4通目を読み終えてから、俺はラーメンに聞いた。配膳口の向こうに向かって。
「検閲は誰がするんですか。」
「室長です。本来は記録保管室の主務官がやるんですけど、おじさんの手紙は、室長が直接やってます。」
「どうしてですか。」
ラーメンは答えなかった。代わりに、配膳口の向こうから、バナナ牛乳をもう1本押し込んできた。
今日は本来、白い牛乳の番だった。ラーメンは、その規程を破った。
彼女は毎週、妻の手紙を読んでいる。黒いペンを持って。
黒塗りが減っていくのを、彼女も見たはずだ。妻が規程を覚えていくのを。そして、最後の行を。毎週。
* * *
その日は、定期測定の日だった。
白い部屋。テーブル。録音機。クリップボード。
彼女はいつものように入ってきて、いつものようにテーブルの角に斜めに腰をかけた。いつもと違うことは、一つだけだった。
薬入れを、出さなかった。
「今日は、薬を飲まないんですか。」
「朝、飲みました。」
「何錠ですか。」
彼女は答えなかった。録音機のスイッチを入れた。
「始めましょう。」
俺は、一番小さな音を探した。録音機の電子音。上の階でラーメンがキンパの銀紙を剥がす音。そして、彼女の息の音。
今日は、彼女の息が一番小さかった。小さすぎて、不安になった。
その音は掴まなかった。代わりに、録音機の音を掴んだ。
時間が止まり、そして、ほどけた。いつもと同じだった。何も追わず、何も触らなかった。
彼女は録音機の画面を見た。そして、クリップボードに何かを書きつけようとして、ペンを持ち上げた。
ペンが落ちた。
最初は、ペンが落ちただけだと思った。
ペンがテーブルの上を転がって床に落ちるまでの間、彼女の手はペンを掴もうとも動かなかった。手は、テーブルの上に置かれたまま。
そして、彼女の上体がゆっくりと横に傾いだ。
椅子からずり落ちようとしていた。
彼女の頭が、テーブルの角に向かって傾いていく。鉄のテーブル。角は尖っていた。
俺は、一番小さな音を探した。彼女の息の音。今度は、その音を掴んだ。
世界が、青く染まった。
* * *
止まった世界の中で、彼女はテーブルの角の上、手のひら一つ分の高さに浮いていた。額は角のほうを向き、目は半分閉じたまま。
俺は立ち上がった。そして、止まった。
許されていない。
初日から、彼女は俺に何も許していない。
俺は彼女の唇に滲んだ血を拭かなかった。彼女の薬入れに触らなかった。彼女のポケットから落ちた薬入れの蓋を、押し戻さなかった。
それが、俺が守ってきたたった一つの規則だった。止まった世界で、彼女が許していないことはしない。
この規則は、彼女が決めたものではない。俺が決めた。だから、余計に破りにくい。
他人が決めた規則は、破れば他人のせいになる。自分で決めた規則は、破れば自分になる。
俺は、彼女の額とテーブルの角との間の、手のひら一つ分を見た。
そして、手を伸ばした。
* * *
止まった世界で人に触れれば、俺の手が触れた手のひら一つ分だけ、時間が流れる。
彼女の肩に触れた瞬間、手のひらの下に彼女の体温を感じた。その手のひら一つ分だけが、生きていた。残りは、青く固まっていた。
俺は彼女の肩と頭を支えて、椅子に座り直らせた。頭が後ろに反らないように、背もたれに預ける。彼女の手を膝の上に載せた。落ちたペンを拾って、テーブルに置いた。
そして、自分の椅子に戻った。
座らなかった。彼女の隣に立った。
息の音を、手放した。
* * *
時間が流れた。
彼女の体が椅子の背もたれにもたれたまま、小さく揺れた。目が開いた。焦点がなかった。何度か瞬いて、焦点が戻った。彼女はテーブルを見て、ペンを見て、きちんと揃えられた自分の両手を見て、最後に、隣に立っている俺を見た。
「……。」
彼女は状況を理解した。数秒もかからなかった。七度の失敗の中で生き残った人間の速さだった。
「許可しませんでした」
彼女が言った。声が掠れていた。怒った声ではなかった。事実を口にする声だった。書類を読むように。
「分かっています」
「あなたは私の体に触れました。止まった時間の中で」
「テーブルの角に頭を打ちつけそうでした」
「それでも、許可しませんでした」
「分かっています」
彼女は俺を見た。まっすぐに。斜めではなく。きちんと揃えられた両手が、震え始めた。さっきは震えていなかった手だった。さっきは、震える力もなかったのだ。
沈黙が長かった。録音機の赤いランプが点滅した。測定はまだ終わっていない。録音機はこのすべてを録音していた。
「……ありがとうございます」
彼女が言った。とても小さく。録音機に入ったかどうか分からないほどに。
そして彼女の目が、再び閉じた。
* * *
許可しませんでした。そして、ありがとうございます。
二つの文の間に、数秒があった。俺はその数秒を止めもしなければ、巻き戻しもしなかった。ただ流した。その数秒の間、彼女は何を考えたのだろう。
おそらく彼女にも規則があったのだろう。他人が決めたものではなく、自分で決めた。帰還者にありがとうと言わない。あるいは、帰還者に借りを作らない。その規則を、彼女も数秒の間だけ握りしめて、それから手放した。
俺たちは同じ日に、それぞれの規則を一つずつ破った。
あっち側で老司祭が倒れたとき、俺は彼を背負って三日歩いた。彼は背負われたまま、ずっとぶつぶつ言っていた。勇者が年寄りを背負えば格が落ちる、と。
三日目の夜、彼は俺の背中でありがとうと言った。そして翌朝、またぶつぶつ言い始めた。ありがとうの言葉は、一日に一度で十分だ、と。
彼女のありがとうも、おそらく一日に一度なのだろう。今日の分は、もう聞いた。
* * *
俺はドアを叩いた。内側から。白い部屋のドアは、内側からは開かない。
「ラーメン! 室長が倒れた!」
上の階で何かが落ちる音がした。キンパだろう。
階段を駆け下りてくるスニーカーの音。そして、ドアの外で止まる音。
「あ、あの、おじさん。ドアを開けたら、僕がおじさんを見ちゃうんですけど」
「目を閉じて入れ」
「はい?」
「目を閉じて入れって言ってる。室長を医務室に運ばないといけない」
沈黙。そして、ドアが開いた。
ラーメンは目をぎゅっと閉じていた。両手を前に突き出して、手探りで入ってきた。ドアの枠に肩をぶつけた。テーブルの脚にすねをぶつけた。「いたっ」と小さくうめいた。それでも目を開けなかった。
「左に二歩。いや、そこじゃなくて俺の左。そっちは壁だ」
「おじさんの左は僕の右じゃないですか!」
「じゃあ右に二歩」
ラーメンは右に二歩進んで、彼女の椅子にたどり着いた。彼女の腕を探った。俺は反対側の腕を掴んだ。俺たちは彼女を両側から支えて起こした。彼女は意識が半分ほどあった。足を少しずつ動かした。
廊下に出るまで5分かかった。ラーメンはドアの枠にもう一度ぶつかった。廊下では消火器にぶつかった。医務室に着くまでに、ラーメンは11回ぶつかった。俺は数えた。そして一度も目を開けなかった。
「なんで目を開けないんですか。俺は室長の反対側にいるんで、見えないはずですが」
「見えちゃうかもしれないんで」
ラーメンは目を閉じたまま言った。
「僕、もうおじさんのこと、画面で見られるじゃないですか。あの顔、知ってますから。本物の顔を知ってますから、この目で、それ以外のものを見たくないんです」
* * *
医務室のベッドに彼女を寝かせた。
ラーメンは医務室のドアの前に、壁に額を付けて立っていた。まだ目を閉じたまま。
当直の医務官を呼びに行かないといけないのに、目を閉じたままでは廊下を歩けない。俺は医務室の中の内線電話を探して、医務官を呼んだ。壁に電話番号表が貼ってあった。一番下の欄に「帰還者使用禁止」と書いてあった。俺はその欄を指で隠して、番号を押した。
医務官が来るまでの間、俺はベッドのそばに立っていた。彼女の顔は白かった。唇の内側のかさぶたが、また切れていた。
彼女が半分ほど目を開けた。焦点の合わない目が天井を向いていた。唇が動いた。
「あなたは……」
声はほとんど聞こえなかった。俺は身を屈めた。彼女の顔から手のひら一つ分ほどのところまで。
「あなたは……呪いのせいじゃなく……」
彼女の目が閉じた。文はそこで途切れた。
廊下から医務官の革靴の音が近づいてきた。そして、ラーメンの声。
「医務官さん、目を閉じて入ってください! いや、そのまま、入ったら中に帰還者の方がいるんで!」
俺は彼女の顔から体を離した。
呪いのせいじゃなく。その次に何が来うるか、考えてみた。呪いのせいじゃなく怖い。呪いのせいじゃなくすまない。呪いのせいじゃなく憎い。
何ひとつ確かではなかった。彼女がまた目を覚ましたら、あの文を覚えているだろうか。覚えていたとしても、最後まで話してくれるだろうか。
録音機は白い部屋のテーブルの上で、まだ回っているはずだ。測定は終わっていない。
その日、彼女の測定表の「対象協力度」の欄は、空欄だった。
* * *
彼女が結び切れなかった文を、我々は結んでやらない。それは彼女の章だ。
だが、彼女がその日なぜそこで止まったのかは、我々にも分からない。




