第21話 ビデオ通話要請書
書式は思ったより分厚かった。
帰還者外部通信要請書(映像)。表紙が一枚、本文が四枚、添付書類の目録が一枚。本文の最初のページには、欄が十二あった。
通話の相手、相手との関係、通話の目的、想定所要時間、通話の手段、通話の場所、立会人、録画の有無、危険要因、危険緩和策、相手の事前同意の有無、備考。
「危険要因は何と書けばいいんですか」
「ご自身がお考えの危険要因を書いていただければ結構です」
面談官が言った。白い部屋、テーブルの角、斜め向かい。彼女の前には、ボールペンではなく赤いペンが置かれていた。俺が書いた端から直すという意味だった。
俺は危険要因の欄に、こう書いた。妻が泣く可能性がある。
彼女は赤いペンを取って、置いた。
「それは危険要因ではありません」
「俺にとっては危険要因です」
「管理局の基準の危険要因を書いていただく必要があります」
「管理局の基準って、何なんです」
彼女はファイルから紙を一枚抜き出した。外部通信危険評価基準表。危険要因が番号を付けて並んでいた。
一番、対象の位置の露呈。二番、施設の位置の露呈。三番、対象の直接訪問の試み。四番、報道への露出。五番、帰還者の情緒不安定による能力の誤発動。六番はなかった。
彼女はその基準表には、六番を入れなかったらしい。
「三番と五番が核心です」
「俺は一番と二番は該当しません。妻の住所を知らないし、こっちの住所も知らないので」
「だから三番と五番が核心なんです」
* * *
俺がこの要請書を初めて取り出したのは、十日ほど前だった。
手紙を受け取った翌日だった。「顔を見せて」。その五文字を読んでから、一晩じゅう考えた。明け方三時に起きて、床に寝そべって、ベッドの下の「見るな」を見ながら考えた。そして朝、面談官に言った。
「画面越しなら、普通に見えるって言いましたよね」
彼女はそのとき、答えなかった。三日後にこの書式を持ってきた。
そして今、七日目。俺はこの書式を書いている。一日に一欄ずつ。彼女は一日に一欄ずつ、赤ペンで直す。
昨日直された欄は「相手との関係」だった。俺は「妻」と書いた。彼女は赤ペンで「配偶者(法律婚)」と直した。その下に小さく、「失踪期間中の婚姻関係維持を確認」と書き添えた。
俺はその小さな字を、長いこと見た。婚姻関係の維持を確認。四年間、妻は離婚届を出さなかった。管理局はそれを確認していた。確認しておいて、俺には言わなかった。
「これは、いつ確認したんですか」
「初日です」
「なぜ言わなかったんです」
「聞かれなかったので」
その言葉が正しいのが、嫌だった。
* * *
婚姻関係の維持。
会社に通っていたころ、人事から毎年書類を受け取った。家族関係の変動事項。俺は毎年「変動なし」にチェックを入れた。
妻も会社で、同じ書類を受け取っただろうか。夫が失踪。変動ありか、なし か。
四年間、妻は毎年「なし」にチェックを入れたのかもしれない。その欄の隣に一行だけの理由欄があったなら、妻はまた、欄からはみ出すように書いただろう。
* * *
危険評価の会議は、白い部屋ではなく上の階で開かれた。俺は出席できなかった。代わりに、その結果を聞いた。
「管理局の判断は、こうです」
彼女が言った。上の階から下りてきた彼女の手には、議事録があった。表紙にコーヒーの染みがあった。会議が長かったらしい。
「画面の中のあなたを見れば、奥さまは必ず直接来ようとなさいます。それが三番です。今は、あなたが生きているという一通の文字だけです。顔を見れば、確信が生まれます。確信が生まれた人は、止められません」
「妻は俺の頼みを聞いてくれます。一年だけ待ってくれ、と」
「四年待った人に、さらに一年待てとおっしゃるんですか」
俺は答えられなかった。
「それに五番。奥さまの顔を見た瞬間にあなたが動揺すれば、能力が誤発動する恐れがあります。測定記録を見る限り、あなたの数値はまだ安定していません」
彼女は「正常範囲ではあるが、まだ安定していない」と言った。後ろに付いた言葉は、初めてだった。俺はその違いを理解した。彼女も、俺が理解したことを分かっていた。
「で、管理局の意見は反対なんですか」
「条件付き承認です」
「条件は」
「二つです。統制力の実演。それから、通話マニュアルの習得」
「じゃあ、室長の意見は」
彼女は議事録を閉じた。
「私は反対しました」
* * *
通話マニュアルは十八ページだった。
帰還者外部映像通話マニュアル。一章、通話前の準備。二章、通話中の禁止事項。三章、非常時の対応。四章、通話後の措置。付録A、想定質問と推奨回答。
二章の禁止事項は、二十三項目あった。
施設の位置をほのめかす言葉の禁止。窓の外の景色を映すことの禁止。施設職員の名前を口にすることの禁止。帰還前に滞在していた世界について具体的に描写することの禁止。能力の実演の禁止。通話の相手に訪問を約束する言葉の禁止。通話の相手の訪問を断る言葉も、禁止。
「訪問を約束するな、断るな、と」
「約束すれば三番になります。断れば、奥さまがご自分で探して来られます。それも三番です」
「じゃあ、何と言えばいいんです」
彼女は付録Aを開いた。想定質問十四番。「いつ来られるの」。推奨回答、「一年後に話そう」。
「これ、誰が作ったんですか」
「七番目のときに作りました」
俺はマニュアルを閉じた。七番目も、この十八ページを暗記したのだろう。一年後に話そう。そして、彼は一年を持ちこたえられなかった。
* * *
一年後に話そう。
七番目は、誰と通話しようとしたのだろう。その人は、あの推奨回答を聞いただろうか。聞いたなら、一年を待っただろうか。
その人は今も、待っているのかもしれない。七番目は刑務所にいる。一年が過ぎた。話す日が来た。なのに彼は、もうその人の前に立てない。呪いが解けていても。
マニュアルの付録Aには、その次の質問がなかった。一年後に何の話をするのかは、誰も書いていなかった。
* * *
技術リハーサルは、二日後にあった。
白い部屋のテーブルの上に、タブレットがスタンドに差し込まれていた。画面がついていた。画面の中に、ラーメンがいた。
ラーメンは上の階の観測室にいた。観測室の別のタブレットの前に座り、ヘッドセットをつけて、画面越しに俺を見ていた。リハーサルで、ラーメンは妻役だった。
「あ、あ、聞こえますか」
ラーメンが言った。画面の中のラーメンは、まっすぐに俺を見ていた。ラーメンは鏡越しに毎日俺を見ていた。けれど、こうして顔を突き合わせて笑ったのは初めてだった。画面越しだから、できることだった。呪いは画面を越えられない。
「聞こえます」
「向かい合って話すと、変な感じです。おじさん、ただのおじさんですね」
「どういう意味だ」
「ただ……おじさんです」
ラーメンが笑った。初めて。口を開けて、前歯が全部見えるように。カップ麺の汁をこぼしたときに、低く悪態をついた声と同じ声だった。なのに、笑うとまるで別人のようだった。
「リハーサルです。台本どおりに」
面談官が横で言った。ラーメンは空咳をして、手に持った紙を見た。付録Aだった。ラーメンは、妻役の台詞を読み始めた。
「あ、あなた。生きてたの?」
ラーメンは「あなた」で、声が裏返った。二十五、六の男が「あなた」と声に出して読むのは、思ったより難しいことらしい。
「台本に、そう書いてあるんですか」
「想定質問の一番です。室長が書いたんです」
俺は面談官を見た。彼女はタブレットの画面だけを見ていた。
「ああ。生きてたよ」
俺は答えた。推奨回答のとおりだった。ラーメンが、次の行を読んだ。
「なぜ、なぜ来られないの」
「一年後に話そう」
「じゃあ、私が行く」
「……」
推奨回答のない質問だった。付録Aの十五番。空欄だった。俺は、その空欄の前で止まった。
「そこで止まってはいけません」
面談官が言った。
「じゃあ、何と言うんです。約束も拒否もするなと言ったのは、そっちでしょう」
「だから、十五番が空欄なんです」
彼女は、その空欄を埋めなかった。七番目のときも、埋められなかったのだろう。
* * *
画面の中のラーメンは笑った。同じ人間が、同じ部屋ではテーザー銃を抜いた。
鏡越しでは普通のおじさん。画面越しでは笑みがこぼれるおじさん。裸眼の前では、「あ」で始まる何か。
ラーメンが打ち明けた、その「あ」。お父さん。酒に酔って、ドアを開けて入ってきた人。画面が、そのお父さんを消してくれた。画面が、俺からそのお父さんを剥がしてくれた。
妻が画面越しに見る人も、そうやって剥がされた俺なのだろう。それが本当の俺なのかは、分からない。ただ、妻が見たいと言った顔は、そちらなのだろう。
* * *
統制力の実演は、翌日だった。
方法は単純だった。面談官が紙コップをテーブルの端に置いた。コップには水が半分ほど入っていた。彼女が指でコップを押した。コップが、テーブルの端から落ちた。
俺は、最も小さな音をつかまえた。コップがテーブルの角を離れる音。
止まった世界の中で、コップはテーブルの下、手のひら一つ分の高さに浮いていた。水が、コップの縁から舌のように半分ほど外へ出て、固まっていた。
俺はコップを受け止めて、テーブルの上に戻した。水は、俺の手のひら一つ分の中でだけ揺れた。こぼれ出た水の舌を手のひらで押して、コップの中に戻した。ぬるかった。
再び、流れた。コップはテーブルの上にあった。水は、一滴もこぼれていなかった。
「統制力の実演、完了です」
面談官が言った。そして、クリップボードの「対象協力度」にチェックを入れた。「上」。その横に、小さく書いた。(水をこぼさず)
水を注いでも上。水をこぼさなくても上。管理局は、俺が水にまつわることをするとき、最も協力的だと判断しているらしい。
* * *
四日後、要請書が戻ってきた。
表紙の右上に、決裁欄があった。三つの欄。担当、審査、承認。
担当の欄には、印が押されていた。名前の代わりに「特殊課」という文字が彫られた角印。審査の欄にも印があった。丸い印で、上の階の誰かのもの。
承認の欄は、空だった。
承認の欄の下に、印刷された職名が見えた。室長。
俺は要請書を持って、白い部屋に座っていた。彼女は来なかった。その日の午後は、ずっと来なかった。配膳口から夕食が入ってきたとき、ラーメンが配膳口に向かって、小さく言った。
「室長は今日、外出です。薬局です」
俺は、空欄を見下ろした。欄は、印一つが収まる大きさだった。妻なら、その欄からはみ出すように何かを書いただろう。彼女はその欄に、何も入れなかった。
* * *
決裁欄の空白を、我々は長いこと見た。その欄が埋まる未来も、埋まらない未来も、我々の前には一緒に開かれていた。
我々はいつも、どちらも見ていた。だから、どちらが彼女のものなのか、分からなかった。




