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第20話 鏡

管理番号KR-06 添付文書1

131〜145枚。


* * *


リムジンのボンネットの先に、金色の円盤がついているんです。


車のメーカーのエンブレムを外して、その場所につけたんだそうです。円盤は屋根のてっぺんにあるのとそっくり同じ形で、大きさだけが手のひらくらいです。走っているときに風を受けると、円盤がほんの少しずつ回ります。高速道路ではけっこう速く回ります。運転手さんの話だと、最初は固定するつもりだったけれど、回っているほうが神秘的に見えるから、と司祭さまたちがそのままにさせたそうです。私には風車にしか見えません。


今日は地方で行事がありました。ある市長さんのお宅でした。市長さんのお母さまが具合を悪くされているそうです。私はお母さまのベッドの横に座って、手を握りました。お母さまは私の手を握って泣きました。そして、雨が降りました。窓の外で。みんな、私が呼んだ雨だと言いました。奇跡だと言いました。


雨は最近、私が外に出る日にはいつも降ります。予報になかった雨です。偶然でしょう。司祭さまたちは「偶然」という言葉がいちばん嫌いです。私は空に向かって何も考えていません。本当です。足が痛くて、そんな余裕はありません。


お母さまの病気が治ったかどうかは知りません。雨は降りました。


* * *


俺はベッドの枕元にファイルを置いた。


雨を呼ぶ。晴れた日にも。加平で足を引きずっていた人間が、集会の日に望まない祝福をあふれさせていた人間が、今では人々が自分を「雨を呼ぶ人」と呼んでいる、と書いている。そのあいだに何か月かが過ぎている。手記の日付はとびとびだ。書く気力のある日だけ、書いたのだろう。


俺は〇・六秒だ。面談官が「正常範囲」と言う数字。その言葉を何度聞いたか、もう数えていない。その数字が雨を呼ぶようになるまで、何か月かかるのだろう。そんな計算をしている自分が嫌だった。だから、次の一枚をめくった。


* * *


帰り道、運転手さんに話しかけました。


運転手さんは、もともと通訳をしていた司祭さまです。あのフランス人に頬を叩かれた方です。別の支部に異動になったと聞いていたのですが、本当は司祭服を脱いで、信徒になったんだそうです。集会の日、二階のいちばん後ろの列で泣いていた方です。今は私の車を運転しています。運転手さんいわく、運転免許は司祭の資格より古いんだそうです。司祭の資格は返したけれど、運転免許はまだ有効なんだそうです。そう話しながら、運転手さんは笑いました。


運転手さんはいつも笑っています。運転しながらも笑っていて、信号待ちのあいだも笑っています。最初はそれが怖かったです。教団の人たちはみんな笑っていますから。でも運転手さんの笑顔は違いました。運転手さんは、ひとりでいるときも笑っているんです。ルームミラーでこっそり見ました。誰も見ていないのに笑っていました。あれは、見せるための笑顔じゃありません。


「運転手さん」


「はい、どうぞ」


「もう、私のこと司祭さまって呼ばないんですか?」


「あの日と同じことを申し上げます。私はただの運転手でございます」


「違います。運転手さんは、私に残っている数少ない人のひとりです」


運転手さんは笑いました。ルームミラーの中で。でも、目は笑っていませんでした。信号が変わりました。車が走り出しました。ボンネットの先で、円盤がまた回りはじめました。


* * *


残っている数少ない人。


俺には何人残っているだろう。面談官。ラーメン。妻。三人だ。そのうち二人は俺をまっすぐ見られない。一人は、手紙の黒い欄の向こうにいる。


向こうでは、仲間が四人いた。四人とも埋めた。埋めるたびに、残った人数を数えた。三人、二人、一人。最後は、俺ひとりで魔王城の階段をのぼった。百二十二段。


数を数える癖は、そのときについた。階段も、仲間も、残った人も。こっちでは三人だ。三人は、向こうで最後に数えた数より多い。それが慰めになるのかどうかは、わからない。


* * *


その夜、高速道路のサービスエリアに寄りました。


運転手さんがトイレに行っているあいだ、私はひとりで車にいました。サービスエリアの駐車場の明かりが、車の窓から入ってきました。窓に、私の顔が映っていました。


久しぶりに自分の顔を見ました。宿舎には鏡がありますが、あまり見ません。見たら、みんなが言う「あのお方」がそこにいそうで。


窓の中の顔は、知らない人みたいでした。肉がつきました。物流センターに通っていたころは頬骨が出ていたのに、今は丸いです。肌もきれいになりました。毎日いいものを食べて、いいクリームを塗っていますから。教団では、あのお方の顔はいつも輝いていなければならないと言って、毎朝誰かが来て塗ってくれます。私はその人の名前も知りません。


窓の中の顔が、笑っていました。私は笑っていなかったのに。いえ、笑っていました。ミサのときの表情が顔に貼りついて、取れなくなっていました。口の端が少し上がっていました。それを下げようとしたのですが、うまくいきませんでした。


運転手さんが戻ってきました。手にくるみ饅頭の袋を持って。私の分だそうです。教団の人たちは、私がサービスエリアの食べ物を食べてはいけないと言います。あのお方がくるみ饅頭なんか食べたら、格が下がるそうです。運転手さんはそれを知っていて、買ってきてくれました。私はくるみ饅頭を食べました。格が下がる味でした。とてもおいしかったです。


* * *


車がまた走り出して、しばらくしてから私は言いました。どうしてそんなことを運転手さんに話したのかは、わかりません。くるみ饅頭のせいだったのかもしれません。


「運転手さん。私、最近おかしいんです」


「どんなふうに」


「私、鏡になったんです」


運転手さんは答えませんでした。待っていました。私は話しつづけました。


「私に会いに来る人たち、いるでしょう。手を握ってほしいっていう人たち。あの人たちは、私の中に自分が見たいものを見るんです。病気の人は治った自分を見て、お金持ちはもっと長生きする自分を見て、司祭さまたちは神さまを従えた自分を見ます。私は何もしません。ただそこに立って、あの人たちを映しているだけです」


「……」


「最初は怖かったです。鏡って、割れるでしょう。誰かが金槌で割るんじゃないかって。あの人たちが望むものを映さなかったら、あの人たちに割られるんじゃないかって。だから一生懸命映しました。もっと、はっきりと」


「……」


「でも、はっきり映せば映すほど、あの人たちは私を大事にしました。毎日磨いてくれました。本当にそうなんです。毎朝クリームを塗ってくれる人がいます。あのお方の顔は輝いていなきゃいけないって。私は、毎日磨かれる鏡なんです」


運転手さんがハンドルを握る手に力を込めたのが見えました。手の甲に血管が浮きました。


* * *


毎日磨かれる鏡。


白い部屋の壁の一面は、鏡だ。初日、俺はその鏡を見ないようにした。鏡の向こうにはラーメンがいて、ラーメンの同僚がいて、カップ麺のスープがあった。


あの鏡は、誰が拭いているのだろう。指紋ひとつなく、いつもきれいだった。誰かが毎日拭いている。俺が眠っているあいだに。


あの鏡は俺を映しているのだろうか。それとも、俺を見ている人たちを映しているのだろうか。鏡の向こうからは、俺は普通のおじさんに見えるという。だとすればあの鏡は、あの人たちに俺ではなく、自分たちが見たい安全な何かを映してやっていることになる。


六番目と俺は、同じ職業についていた。鏡。


* * *


「あの人たちは、なりたい自分の姿を私の中に見つけました。そして見つけたら、叶えました。本当に。病気が治った人もいるし、事業がうまくいった人もいるし、選挙に勝った人もいます。あのお方のおかげだそうです。私は何もしていないのに」


「それは、あの方々がなさったことです」


運転手さんが、初めて口を開きました。


「わかっています。でも、あの人たちはそれを知りません。私も言いません。言ったら鏡が割れますから。鏡が割れたら、母の生活費が止まりますから」


「……」


「私、刃物にもなれたんです」


私は言いました。これは、誰にも言ったことがありませんでした。日記にも書きませんでした。今、初めて書きます。


「今持っているものを半年前に持っていたら、私は刃物か鞭になっていたと思います。司祭さまたちを、みんな追い出していたと思います。何度も後悔しました。あのとき、これがあったらって。でも、あのときはなかったんです。あのときの私は、足の痛い物流センターの従業員でした。だから鏡になりました。鏡にしか、なれませんでした」


「それが、あなたの本当の選択ですか」


「私の選択です。臆病になる代わりに、生き残る選択です」


運転手さんはしばらく何も言いませんでした。高速道路の街灯がひとつずつ過ぎていきました。円盤が回っていました。


* * *


刃物にもなれた。


俺は刃物だった。11年間。向こうの王は、俺を聖剣と呼んだ。魔王の心臓を貫いて、刃が溶けてなくなったあの剣。今は管理局の引き出しに、柄だけが残っているあの剣。


刃物だった人間が帰ってきて、鏡になった。鏡だった人間は、刃物になれなかったことを後悔した。


どちらがましなのか、俺にはわからない。ただ、刃物は刃が溶ければ終わりだ。鏡は割れるまで磨かれつづける。割れないかぎり、終わりもしない。


* * *


宿舎の前に着いたときには、夜中の十二時を過ぎていました。運転手さんが車のドアを開けてくれました。私は降りようとして、止まりました。


「運転手さん」


「はい」


「私があの日から、できなくなったこと、何だかわかりますか?」


運転手さんが私を見ました。静かに。いつも笑っていた顔が、初めて笑っていませんでした。その顔が、運転手さんの本当の顔でした。私はそれを初めて見ました。


「私、もう嘘がつけないんです」


「……」


「ミサのとき、書いてもらった文章を読むでしょう。『苦しみは、あなたを見捨てないただひとりの友であるがゆえに』とか、そういうのです。それを読もうとして口を開くと、別の言葉が出てくるんです。頭の中で強く思うと、みんなの頭の中に届くでしょう。でも、嘘を強く思っても、嘘は届かないんです。本当のことが届くんです。私が本当に思っていることが」


「では、ミサのときはどうなさっているんです」


「口だけ動かすんです。録音しておいたのを流して。司祭さまたちがそうしろって。口パクです」


運転手さんが笑いました。今度は本当に笑いました。声を出して。夜中の十二時過ぎの、宿舎の前で。私も笑いました。足が痛かったのに。


あのお方は、口パクをしています。これが私の秘密です。


録音は、私が初めて教団に来た年にしたものだそうです。そのころの私の声は、今よりも細かったです。物流センターで叫んでいた声です。最近のミサでは、その昔の声がスピーカーから流れて、私はその前で口を合わせます。みんな、あのお方の声はいつも変わらない、と感動します。変わらないに決まっています。同じファイルなんですから。


ときどき、録音が飛びます。すると司祭さまのひとりが、舞台の裏で大きく咳をします。それが合図です。私はその咳に合わせてうつむいて、祈るふりをします。先週は咳が三回でした。私は三回うつむきました。信徒たちは、あのお方が三位一体を礼拝なさった、と言ったそうです。


* * *


あの夜、あの運転手が宿舎の前で笑った声を、我々は彼の最後のページまでめくって探した。


我々は、あの笑いが何だったのかを知らない。結果だけを知っている。


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