第19話 通報
「お答えできかねます」
スピーカーから、若い女の声が流れてきた。感じがよくて、きちんとしていて、何ひとつ入っていない声だった。
「そちらのお問い合わせは個人情報保護に関わる事項のため、当機関ではお答えできかねます。ほかにご用件がございましたら……」
「あの人が生きてるってことですか、違うんですか。警察からメッセージが来たんです。所在が確認されたって。そのメッセージを送ったのがここだって言われて、電話したんです」
別の声だった。少しかすれていた。早口でしゃべって、途中で息が詰まった。俺はその息が詰まる場所を知っている。腹が立つと、妻は文の真ん中で一度息をのむ。息をのんだあと、声が半音下がる。
「お答えできかねます」
声が半音、下がった。
「じゃあ、誰が答えてくれるんですか」
「そちらのお問い合わせは……」
レコーダーが止まった。面談官が、停止ボタンから指を離した。
白い部屋のテーブルの上に、レコーダーが置かれていた。定期測定で使うあのレコーダーではなかった。もっと小さくて、銀色だった。側面に「代表番号応対録音――保存期間3年」というラベルが貼ってあった。
「三日前の録音です」
彼女が言った。
「奥様が代表番号に電話をかけてこられたのは、これで十一回目です。警察署に三回、住民センターに二回行かれています。住民センターでは『入国記録訂正』という画面が表示されるだけで、何も教えられないと言われたそうです。警察署では、私たちの代表番号を案内しました」
「じゃあ結局、全部ここに来るんですね」
「全部ここに来ます。そして、ここで終わります」
* * *
所在確認通知。
数日前、入国事由書が受理された日に、彼女がその言葉を口にした。入国記録が登録されると、警察のシステムに自動で連携される。失踪届が出ている人間の記録が更新されると、届出人にメッセージが行く。「失踪届対象者の所在が確認されました」。それだけだ。どこで、どうやって、なぜ顔を見られないのかは書かれていない。
管理局はそのメッセージを止められなかった。止めるには連携解除申請書が処理されなければならず、申請書は決裁を受けなければならず、決裁の担当者は有給だった。メッセージは三秒で送られた。
「応対マニュアルがあります」
彼女がファイルから紙を一枚取り出した。ラミネートされていた。角がすり減って丸くなっていた。長いこと使われてきたものだった。
【代表番号応対マニュアル――帰還者関連の問い合わせ】
1.機関の所属および業務内容を明かさない。
2.対象者の生存を確認しない。
3.対象者の生存を否定しない。
4.「お答えできかねます」を繰り返す。
5.通話が15分を超えたら、丁重に終了する。
6.問い合わせ者が泣いた場合:2と3を守りつつ、待つ。
「6番は誰が書いたんです?」
「私です」
彼女はマニュアルをファイルに戻した。
「最初のマニュアルには、6番がありませんでした。問い合わせ者が泣いたら、5番を適用していました。15分に満たなくても。私が6番を入れました。だから今は、泣いている人の電話を切りません。ただ、何も言ってあげないだけです」
それがましなのか、もっとひどいのか、俺にはわからなかった。
* * *
その夜、俺は録音の中の妻の声を、頭の中で何度も再生した。
あの人が生きてるってことですか、違うんですか。
4年3か月のあいだ、妻はその質問を何度しただろう。警察に、友人に、誰もいないリビングに。そして、メッセージが一通来た。質問の半分にしか答えないメッセージが。生きている。その先は、ない。
いっそ何のメッセージも来なかったほうがよかったのだろうか。そう考えかけて、やめた。それは俺が選べることじゃなかった。妻のことだった。
* * *
配膳口から朝食が入ってきた。今日のメニューは、おにぎり二つとゆで卵、それにバナナ牛乳だった。汁物禁止が施行されてから、管理局の食堂は汁物の代わりに飲み物を替えて入れてくるようになった。豆乳、牛乳、いちご牛乳、バナナ牛乳。今日はバナナ牛乳の番だった。俺は飲み物の順番で曜日を数えていた。
配膳口の向こうに、ラーメンのスニーカーが見えた。隣にはいつもの革靴。
「おじさん」
ラーメンが配膳口に向かって小さく言った。お父さんの話を打ち明けた日から、ラーメンは俺を「おじさん」と呼ぶようになった。目は見られなかった。それでも、おじさんと呼んだ。
「奥さんから手紙が来たそうです。室長が午後に持ってきてくれるって。検閲が終わったら」
「検閲」
「普通、全部やるんです。僕も最初に来たとき、母が送ってくれたキムチの箱を検閲されました。キムチを全部ひっくり返して見てて。汁が半分こぼれました」
革靴がラーメンのスニーカーを小突いた。しゃべりすぎだ、という意味だった。配膳口のふたが閉じた。
キムチの箱の検閲。俺はおにぎりを食べながら、管理局の職員が手袋をはめてキムチをひと株ずつひっくり返す光景を想像した。帰還者がキムチの中に隠して送れるものなんて、何があるのだろう。いや、送ったのは帰還者じゃない、ラーメンの母親だ。その母親が送ったキムチをひっくり返した人間も、6番のような条項のないマニュアルを持っていたのだろう。
* * *
手紙は、午後四時に来た。
彼女が白い部屋のテーブルの上に封筒を置いた。手のひらで押して、俺のほうへ滑らせた。茶色のファイルを渡したときと、不同意事由書を渡したときと同じ動作だった。彼女は大事な紙を、いつもそうやって渡した。直接手に握らせることはしなかった。
封筒はもう開けられていた。開けた場所に透明なテープが貼ってあって、その上に赤いハンコが押されていた。
検閲済――国家移住管理局特殊課
ハンコは曲がっていた。誰かが急いで押したのだ。あるいは何枚も続けて押しているうちに、手首が疲れたのか。
「読む前に、お伝えしておきます」
彼女が言った。
「一部の文章は伏せてあります。住所、電話番号、それから位置を特定できる表現です。規定です」
「妻が何を書いたにしろ、俺宛ての手紙でしょう」
「わかっています」
彼女はそれだけ言って、テーブルの角に斜めに腰かけた。俺の左肩の向こうの、どこかを見ていた。
便箋を取り出した。
罫線のない便箋だった。妻は罫線のある紙が嫌いだった。線があると、線に合わせて書かなきゃいけない気がして息が詰まる、と言っていた。だからいつも白紙を使った。そして白紙の上で、字は好きなだけ大きくなった。
一行目が、紙の幅いっぱいを占めていた。
生きてるんだって?
次の行は少し小さかった。その次はまた大きくなった。妻の字は、気持ちの大きさのとおりに大きくなったり小さくなったりした。「す」の払いは相変わらず長く伸びて、次の字の下にもぐり込んでいた。
メッセージが来てから三日、眠れなかった。警察に行ったけど、誰も何も知らない。住民センターに行ったら、画面に「訂正」って文字がひとつ出てた。あなたが訂正されたんだって。人を訂正するって、どういうことなのかわからない。
次の行の半分が、黒いサインペンで消されていた。
今わたしは████████████に住んでる。あなたが覚えてるあの██████じゃなくて、████の近くに移ったの。ベランダから███が見える。
俺は黒い欄を長いこと見ていた。妻がどこに住んでいるのか、ベランダから何が見えるのか。山だろうか、川だろうか、学校だろうか。黒い欄の長さで字数を数えた。六マス、四マス、三マス。当てられなかった。妻の字は大きさがばらばらで、欄の長さが字数を教えてくれなかった。
「ここまで伏せる必要がありますか」
「規定です」
「ベランダから何が見えるかまで?」
「ベランダから見えるもので、場所を突き止めた帰還者がいました」
彼女は、それが誰だったのかは言わなかった。「帰還者」とだけ言った。
* * *
黒い欄は、七つあった。
俺はその七つの欄の上に、一本ずつ指を当ててみた。サインペンのインクが、紙の裏まで染みていた。裏返して明かりに透かしたら、もしかして下の字が見えるだろうか。そう考えて、やめた。彼女が見ていた。そしてそれは、彼女が許したことではなかった。
向こうで俺は、城の秘密の地図を盗むために、文書庫をひとつ丸ごと焼き払ったことがある。こっちの俺は、手紙一枚を明かりに透かすことすらできない。11年かけて学んだことと、四十日で学んだこと。どちらが俺を、より変えたのだろう。
* * *
手紙は続いていた。伏せられていない文章たち。
あなたの荷物、まだ捨ててない。スーツ二着、会社で使ってた鞄、靴三足。靴は捨てようかと思ったけど、あなたが帰ってきて裸足で歩いてたらどうしようと思って、捨てられなかった。
俺は笑った。声が出た。彼女は顔を向けないまま、目だけを一度まばたきさせた。
靴。俺は赤羽のあのリビングに、靴を履いたまま上がった。向こうの癖だった。靴を脱いだ瞬間に襲われたら、裸足で戦うはめになる。妻はそれを知らない。妻は、俺が裸足で帰ってくるんじゃないかと、靴を三足、4年間下駄箱にしまっておいたのだ。
お義母さんにはまだ言ってない。はっきりしたら言おうと思って。はっきりするってどういうことなのかわからないけど。メッセージ一通じゃ、はっきりしないでしょう。お義母さんにまた倒れられたら困るから。
それから、うちの冷蔵庫。あの家の冷蔵庫のこと。引っ越しのとき運んでくるのが大変だった。あそこに貼ってあったもの、覚えてる? 覚えてないよね。そういうこと覚えてない人だもんね。
覚えていた。ちゃんとごはん食べるこ。紙の端で「と」が切れていた、あのメモ。
妻は冷蔵庫を運んできたのだ。赤羽からソウルまで。あのメモのためなのか、ただもったいなかったからなのかは、書かれていなかった。
次の段落は、丸ごと消されていた。五行。黒い欄ではなく、黒い塊だった。
「これは何です」
「その段落は、奥様があなたを探しに行くと書かれた部分です。どこへ、どうやって探すのか。警察署で聞いた情報と、ご本人の推測が混ざっていました。一部は当たっていました」
「当たってたんですか」
「一部は。だから伏せました」
俺はその黒い塊を、手のひらで覆った。ラーメンの報告書の供述欄を、彼女が手のひらで覆ったあの日のように。覆えば見えない。覆わなくても見えない。それでも、覆った。
* * *
最後の行は、消されていなかった。
紙のいちばん下、余白がほとんどない場所に、妻はその行を書いていた。スペースが足りなくて、字が小さくなっていた。妻の字が小さくなるのを見たのは、初めてだった。欄のない紙でも、妻は今回ばかりは欄に合わせて書こうとしたように見えた。それとも、その言葉を大きく書く自信がなかったのか。
顔だけ見せて。
俺はその一行を読んで、手紙を置いた。
彼女はまだ、俺の左肩の向こうを見ていた。レコーダーは点いていなかった。測定もなかった。書類も何ひとつ書いていなかった。彼女はただ、そこに座っていた。6番の条項のように。2と3を守りながら待つ人間のように。
「顔だけ、ですか」
俺は言った。
「呪いは、肉眼で見るときだけ働くって言いましたよね。鏡やモニターだと普通に見えるって」
彼女が初めて、俺をまっすぐ見た。そして、俺が次に何を言うのかわかったという顔をした。その顔は、用意された文章を選んでいる顔ではなかった。用意された文章がないと気づいた顔だった。
* * *
あの手紙の黒い欄の下に何が書かれていたのか、我々は知っている。その文章が書かれる前から、我々は読んでいた。
ただ、あの黒い欄を塗った職員が、なぜ五行目でサインペンを一度止めたのかは、我々にもわからない。




