第18話 入国事由書(2)
二日間、彼女は白い部屋に来なかった。
トレイは配膳口から入ってきた。スニーカーと革靴が来た。ファイルは来なかった。閲覧台帳も来なかった。測定もなかった。この施設で書類が来ない二日間は、初めてだった。書類がないと、時間が妙な流れ方をした。署名することがないと、一日が長かった。
二日目の夕方、配膳口の向こうでスニーカーが言った。
「室長、有給取られたんです」
「有給?」
「はい。有給休暇の申請書を出されたそうです。理由欄に『私用のため』って書かれたとか。室長が有給を取るの、僕がここに来てから初めてです」
革靴がスニーカーを小突いた。ふたが閉じた。
私用のため。事由欄に収まる、いちばん短い言葉。受理される言葉。
* * *
三日目の朝、彼女が来た。
白い部屋の椅子に座っていた。斜めではなかった。初めて、テーブルの正面に座っていた。俺の椅子と向かい合う位置だった。初日以来、初めてのことだった。
モニターは片づけられていた。床のテープだけが残っていた。踏まないでください。ケーブルがないのにテープだけ残っていて、今となっては何を踏むなというのかわからないテープだった。
「座ってください」
俺は座った。彼女は薬のケースを出さなかった。テーブルの上で両手を重ねていた。
「訊いてください」
彼女が言った。
「七番目の方が、訊けと言ったことです。訊いてください。今日は答えます」
俺はメモ用紙を出さなかった。番号も振らなかった。番号を振るような質問ではなかった。
「誰を失くしたんですか」
* * *
「弟です」
彼女は、早すぎる答え方をしなかった。初めての、用意されていない文章だった。それでも声は震えていなかった。震えないようにするのに、二日かかったのだろう。
「七つ下でした。この仕事をすると言ったとき、止めました。止めたのに、来ました。姉さんがやってる仕事なら自分にもできる、と。新人研修を終えて、最初の配属がこの施設でした。私が頼んだわけではありません。でも、誰も信じませんでした」
彼女は重ねた手を見下ろした。
「七番目の方に報告書を読み上げたのは、私の判断でした。知る権利があるとおっしゃって、私もそのとおりだと思いました。十二枚読みました。読み終えるのに二十分かかりました」
「……」
「そのあと一か月、あの方は大丈夫そうに見えました。観測記録に特記事項はありませんでした。ベッドの下で何をしていたのか、誰も知りませんでした。一か月ほどして、別の施設に移すことになりました。この部屋は古すぎる、鏡もない部屋に置き続けるのは処遇の問題だ、と。私が決裁しました」
彼女が顔を上げた。
「移送車両に、弟が乗りました。新人だったので。テーザー銃を携帯して。研修で教わったとおり、対象と目を合わせないようにしていたはずです。でも、車の中は狭いんです」
彼女はそこで止まった。その次の文は言わなかった。七番目が黒く塗りつぶした場所を、彼女も塗りつぶした。
* * *
俺は何もしなかった。
手を伸ばさなかった。水を注がなかった。時間を止めなかった。彼女が許したことではなかった。そして彼女は今、何ひとつ許していなかった。ただ座っていた。向かい合って。
俺は六日目のことを考えた。
ラーメンがテーザー銃を向けた日。報告書二枚。いちばん下の欄、目撃対象の供述。最初の一文字「お」。彼女の手のひらが、その欄を覆った。これは、あなたが見る書類ではありません。
俺はそれを規則だと思っていた。七番目との約束だと思っていた。次の人には絶対に言わないでくれ、という。
でも、あの日彼女が覆ったのは、ラーメンの字ではなかった。彼女が覆ったのは、十二枚だった。彼女が二十分かけて声に出して読み上げた、十二枚。あの日、俺の前でも新人職員がテーザー銃を向けた。そして報告書を書いた。そして、いちばん下の欄があった。
彼女の手のひらは、あの欄を覆ったんじゃない。あの欄を読み上げようとする、自分の口をふさいだのだ。
「だから、薬を飲んでるんですか」
「だから、薬を飲んでいます」
彼女が言った。まったく同じ文で。偽りなく。
* * *
その日の午後、測定があった。
レコーダー、クリップボード、測定表。対象協力度の欄。上の階では、ラーメンがキンパを食べていなかった。ホイルの音がしなかった。代わりに、何の音もしなかった。いちばん小さな音を探すのが難しかった。
結局、俺が見つけたのは彼女の呼吸の音だった。ごく小さく、規則正しい。薬を飲んでいない日の、呼吸の音。
俺はその音をつかまえて、放した。
彼女がレコーダーの画面を見た。長いこと見ていた。そして、こちらに向けなかった。
「正常範囲です」
「何秒です?」
答えないだろうと思った。ところが今回は、クリップボードを俺のほうへ半分だけ向けた。測定値の欄が見えた。端正で小さな字。
-0.6
「正常範囲です」
彼女はもう一度言った。数字を見せながら。俺には、それが何を意味するのかわからなかった。0.31、見せてもらえなかった一回、そして0.6。俺の目には、増えていく数字だった。彼女の口からは、正常範囲だった。どちらかが嘘だ。でも今日、彼女は嘘をつかないと言った。
だとしたら、「正常範囲」という言葉に、俺の知らない意味があるのだ。
* * *
それからの数日は、静かだった。
測定の翌日、天井のスピーカーからラーメンの声がした。とても小さく。
「おじさん、接見の録画データですけど。室長が、消すなって」
「なぜです」
「記録だから、って。それと、えっと……」
ラーメンは少し言葉を選んだ。
「僕に、報告書をもう一枚書けって。接見機材運用の報告書です。でも、いちばん下の欄がない書式で渡されたんです。目撃対象の供述欄。あの欄がない書式が別にあるなんて、知りませんでした」
「もともとあったんですか」
「いえ。室長が今日作ったそうです。文書ファイルを開いて、欄を消して」
スピーカーが切れた。俺は、彼女が事務所のパソコンの前で表のいちばん下の行を選択し、削除キーを押す姿を思い浮かべた。端正で小さな動作で。一行きりの欄をひとつ消すのに、彼女は何年かかったのだろう。
その日の夕方、配膳口から入ってきたトレイには、豆乳が二パックあった。ひとつにマジックで「ラーメン」と書いてあった。間違って入ったのだ。俺はそのパックを配膳口の前に戻しておいた。翌朝、そこにメモがあった。ありがとうございます。それ、僕のでした。――ラーメン(二人一組規定に従い、革靴先輩確認済み)
そして、帰還40日目の朝。
配膳口からトレイが入ってきた。トレイの上に、書類が一枚載っていた。豆乳のパックに押さえられて。
入国事由書処理結果通知。
処理結果:受理。
受理。三枚の用紙と、二つの赤いハンコと、一度の署名の末に。海外長期滞在後の帰国。彼女の端正で小さな字が、受理された。
通知書の下に、処理内容が自動で印字されていた。
1.出入国記録登録完了。
2.関係機関連携処理完了。
3.失踪届対象者の所在確認に伴う通知:自動送信。
三行目を読んで、俺は息を止めた。
* * *
十分後、ドアが開いた。ノックなしで。彼女だった。彼女がドアをそんなふうに開けたのは初めてだった。手に、同じ通知書を持っていた。その後ろの廊下で、誰かが電話に向かって怒鳴っているのが聞こえた。連携解除申請書はどこへ行った。先週上げただろう。
「止めようとしたんです」
彼女が言った。息が上がっていた。
「入国記録が登録されると、警察の失踪届システムに自動で連携されます。届出人に所在確認の通知が行きます。それを止めるために、連携解除申請書を先週上げておきました。処理期限は三日です。でも、担当者が……」
「有給でしたか」
彼女が俺を見た。
「はい」
事由欄には「私用のため」と書いたのだろう。いちばん短くて、受理される言葉。
「解除申請書は、担当者の机の上にありました。決裁待ちのまま。入国事由書は別の部署なので、先に処理されたんです。順番が……」
彼女は文を最後まで言えなかった。この国の書類は、互いを待ってくれなかった。それぞれが一行の欄を埋め、それぞれがハンコをもらい、それぞれが送信した。
「いつ送られたんです」
「今日の明け方、4時12分です。ショートメッセージで」
明け方4時12分。妻はその時間、何をしていたのだろう。寝ていたのだろうか。携帯が鳴って、画面に知らない番号が出て、メッセージが一通。
失踪届対象者の所在が確認されました。
* * *
俺は通知書をテーブルに置いた。
入国事由書。その題をもう一度見た。入国事由。俺はその欄に魔王討伐後、帰宅と書いて、差し戻された。公務遂行終了に伴う帰宅と書いて、差し戻された。海外長期滞在後の帰国という彼女の嘘に署名して、受理された。
でも、本当の事由は、その三枚のどこにもなかった。
本当の事由は2年前、別の書式の一行きりの欄に、もう書かれていた。欄からはみ出した字で。「す」の払いを長く伸ばして。句点を担当者のハンコの横に打って。
夫は帰ってきます。
俺がこの国に入国した事由は、あの一文だった。あの一文が理由不十分の判定を受けながらも、2年間警察署の引き出しで持ちこたえたから、俺は今日の明け方4時12分に、書類の上で帰ってきたのだ。
そして今、あの一文を書いた人が、知っている。
「奥様は、来られます」
彼女が言った。今度も、偽りなく。
「止められますか」
「努力します」
彼女は「努力します」と言った。この国の公務員が使う言葉だった。彼女も使うと言っていた言葉。なのに今日は、その言葉が、保留の別名には聞こえなかった。
彼女の手にある通知書のいちばん下に、システムが自動で印字した一行があった。
所在確認通知が届出人に送信されました。
* * *
我々は四つだった。0、0.9、1、1.2。
1だった我々の中から、0.9と1.2が分かれ出た。遠くから見れば、三つとも1だった。だが互いを見分けられるようになった瞬間、我々は0よりも、互いのほうを憎むようになった。
あの日の明け方4時12分、あのメッセージを送ったのは、我々の誰でもなかった。機械だった。我々は長いあいだ、それを羨んだ。




