第17話 ビデオ接見
午後1時58分、白い部屋のテーブルの上にモニターが置かれた。
24インチだった。ラーメンが午前中かけて設置した。ケーブルはドアの隙間から外へ出て、廊下を通り、階段を伝って上の観測室までつながっていた。ケーブルは床にテープで留めてあって、テープの上にマジックで「踏まないでください」と書いてあった。ラーメンの字だった。丸っこい字だった。
モニターの横にスタンドが立っていた。照明の補助用。スタンドは俺の顔を照らしていた。目の下がげっそり映らないように。
彼女はモニターの後ろ側に座っていた。カメラの画角の外だ。ラーメンが床にテープで線を引いてくれた。この線の後ろは画面に映りません。彼女はその線の後ろに椅子を置いて座っていた。クリップボードを膝に載せて。ボールペンを握って。
立会人欄に「室」とだけ書いたあの通知書が、クリップボードに挟まっていた。そのあと「長」は、とうとう書かれなかった。
「2分前です」
天井のスピーカーから、ラーメンの声がした。
「刑務所側、接続待ちだそうです。おじさん、画面を見ててください。室長は……あ、はい。線の後ろにいらっしゃいますね」
* * *
2時ちょうどに画面がついた。
灰色の壁、スチールの椅子。椅子に、髪の真っ白な老人が座っていた。老人は画面を見て、うれしそうに手を振った。
「息子か?」
画面の向こうから、刑務官が慌てて飛び込んできた。老人の肩をつかんで立たせる。接見室の割り当てミスです、申し訳ありません、という声が聞こえた。老人は引きずられていきながらも、ずっと手を振っていた。おい、飯はちゃんと食ってるか。
天井のスピーカーから、ラーメンの声がした。小さく。
「刑務所側のミスだそうです。つなぎ直すって」
テープの線の後ろで、彼女がクリップボードに何か書いた。たぶん「接続遅延の理由」だ。理由欄は一行だったはずだ。
1分後、画面がまたついた。
灰色の壁。スチールの椅子。椅子に、男がひとり座っていた。
二十九歳くらい。髪は短く刈り込んでいて、頬骨が突き出るほど痩せていた。囚人服の襟から鎖骨がのぞいている。手錠はしていなかった。代わりに両手を膝の上に置いていたが、指の長い男だった。その指先が、丸くつぶれていた。爪が短くすり減っている。一か月かけて板を彫った爪だった。
平凡だった。ひどく平凡な顔だった。地下鉄で向かいに座っていても、覚えていられないような顔。
男が画面を見た。俺を見た。息を止めなかった。
「ああ、おまえか」
男が言った。タメ口だった。声がかすれていた。
「八番目」
「どうしてわかるんです」
「こっちに戻ってきた韓国人が何人いるかなんて、俺らのあいだじゃみんな知ってる。おまえ、日本でフライパン食らった奴だろ。映像見たよ。刑務所でも出回ってた。みんな笑ってたな。外国人があんなことしてるって」
「面白かったですか」
「ああ。俺も笑った。おまえ、あのとき靴履いてたな」
* * *
男は椅子の背にもたれた。画面の向こうで、スチールの椅子がきしむ音がした。
「で、何が知りたいんだよ。接見申請書の事由が笑えたぜ。『同じ部屋を使った者だから』。刑務官が読み上げてくれたんだけど、笑えたから受けたんだ。普段は受けないんだけどな」
「ベッドの下」
俺は言った。
男が笑うのをやめた。
「ああ、あれ、まだあんのか」
「あります」
「消してないのか。消すのに金がかかるからか」
男は爪の先を親指でこすった。癖のようだった。
「あれ、おまえに書いたんじゃねえぞ」
「わかってます」
「いや、わかってねえだろ。みんな、あれは次に来る奴への警告だと思ってる。かっこいいもんな、そのほうが。先輩が後輩に遺した言葉。でも違う。俺に書いたんだ」
男が画面のほうへ身を乗り出した。顔が近づいた。画面いっぱいに、男の目が映った。
「毎晩ベッドの下に寝そべって彫った。鏡を割ってからな。爪で。一か月かかった。自分に言ってたんだ。見るなって。自分が何に見えてるか考えるなって。それを考えたら、それになっちまうから」
* * *
俺はその瞬間、彼女のほうを見ないようにした。テープの線の後ろに座っている彼女を。ボールペンを握った手がどうなっているのか、見ないように。
代わりに、画面の中の爪を見た。丸くすり減った十枚の爪。向こうで、俺もそういう爪を見たことがある。魔王城の地下牢に閉じ込められていた騎士の爪だ。その騎士は、石壁に日付を刻んでいた。俺たちが扉を開けたとき、彼は壁を指して言った。今日は何日だ。俺は答えられなかった。日付を数えなくなって、もう長かったから。
日付を刻む人間と、警告を刻む人間。どちらも、自分自身に向けて書いていた。
* * *
「何に見えてたんです?」
俺は訊いた。訊かないつもりだったのに、訊いていた。
男が笑った。今度は声を出さずに。
「おまえ、それ訊いちゃだめだろ。おまえは知っちゃいけねえんだよ。あの女、それだけは守ってるだろ?」
「守ってます」
「そうか。俺のときは守らなかった」
男はまた椅子の背にもたれた。
「あの女が、俺に書類を読んでくれたんだ。職員たちの報告書。いちばん下に欄があるだろ。目撃対象の供述。俺を見てビビった職員たちが、みんなそこに書いてたんだよ。十一枚だったか十二枚だったか。それをあの女が、一枚ずつ読み上げてくれた。俺が頼んだんだ。知りたいって。知る権利があるって」
男は爪をこすった。
「十二枚のうち九枚が同じだった。子どもを食う怪物」
* * *
「俺、向こうじゃ聖騎士だったんだ」
男が言った。何の脈絡もなく。
「6年。孤児院を守る騎士団だった。魔物が子どもをさらっていく土地でさ。子どもを守るのが仕事だった。6年で四十人くらいは助けたかな。ガキどもが俺を見ると駆け寄ってきて、脚にしがみついてきた。鎧が冷たいのにな」
男は笑った。
「で、帰ってきたら、子どもを食う怪物だとよ」
俺は何も言えなかった。
「最初は笑えたよ。本当に。あの女が読み終わって俺を見たとき、俺、げらげら笑った。うわ、何の冗談だよこれ、って。それから部屋に戻った。洗面台の前に立った。鏡を見た」
男は少し言葉を切った。
「鏡には俺しかいなかった。ただの俺。でも、おかしいよな。あの九枚を聞いたあとだと、鏡の中の俺も、ちょっとそう見えてきたんだ。口がちょっとでかくて。歯がちょっと長くて」
「それで割ったんですか」
「ああ。拳で。手が裂けた。でも、その手が治らなかった。向こうじゃ、手を当てれば何でも治ったのに。そのときわかった。能力も抜けていってるんだって。3か月目だった」
* * *
十二枚のうち、九枚。
俺は六日目の報告書を思い出した。ラーメンの供述欄。彼女の手のひら。これは、あなたが見る書類ではありません。
彼女は、読み上げた人間だった。一度、十二枚を。そのあとのことは、まだ考えないことにした。
俺はテープの線のほうを、最後まで見なかった。ボールペンが紙をひっかく音は聞こえなかった。彼女は何も書いていなかった。
* * *
「それから?」
俺は訊いた。
「それからは、おまえも知ってるだろ。書類にあっただろ」
「黒く塗りつぶされてました」
「へえ、そうなのか」
男は画面の向こうで、一度天井を見上げた。
「じゃあ、俺も塗りつぶしとくわ」
男はその話をしなかった。移送車両という言葉も、テーザー銃という言葉も口にしなかった。ただ、ひとつだけ言った。
「一か月かけて彫ったやつあるだろ。見るな。あれ、一か月は効いたんだ。本当に。一か月は大丈夫だった。でも、車に乗ったら、ベッドがなかった」
それが全部だった。
* * *
画面の下のほうに数字が出ていた。接見残り時間。4分。
男がその数字を見た。
「おまえ、何か月目だ」
「一か月です」
「まだだいぶ残ってるな」
男は、爪をこすっていた手を止めた。
「ひとつだけ教えてやるよ。先輩として。1年経てば終わる。本当だ。その日の朝起きたら、刑務官が俺を見て普通に挨拶すんだよ。おはようございます、って。息も止めずに。俺、その日一日じゅう泣いた」
「……」
「でもな、1年のあいだに『なっちまったもの』は戻らねえ」
男は画面をまっすぐ見た。
「1年のあいだに俺がやったこと、俺がなっちまったもの。それは1年経っても消えねえ。呪いは解けるのに、俺は解けねえんだ。だからおまえ、1年のあいだ、何にもなるな。何にもなるんじゃねえぞ。ただ耐えろ」
「何にもならないなんて、できるんですか」
「知らねえよ。俺はできなかったからな」
* * *
残り時間、1分。
男が椅子から腰を上げた。画面の外で、刑務官が何か言っている声が聞こえた。男は立ち上がりかけて、また画面のほうに身をかがめた。
「あの女、今そこにいるだろ」
俺は答えなかった。
「画面には映ってねえけど。いるよな。線の後ろに。おまえ、さっきから左を見ねえもん」
俺は答えなかった。男は笑わなかった。
「あの女、まだ薬飲んでんのか」
「……飲んでます」
「そうか」
男が画面から離れた。立ち上がった男の囚人服の胸に、収容番号が見えた。画面の外へ消える直前に、男は言った。
「あの女に、誰を失くしたのか訊いてみな」
画面が消えた。
* * *
白い部屋に、モニターの黒い画面だけが残った。黒い画面に、俺の顔が映っていた。スタンドの光を浴びて。目の下はげっそりしていなかった。
テープの線の後ろで、椅子を引く音がした。彼女が立ち上がった。クリップボードを胸に抱えて。彼女はひと言もしゃべらなかった。接見の30分間、ひと言も。
彼女はドアまで歩いていった。床のケーブルを踏まないように、一度大きく足を踏み出した。踏まないでください。彼女は、ラーメンの字を守った。
ドアが閉まった。
天井のスピーカーがジジッと鳴った。ラーメンの声だった。とても小さかった。
「おじさん。接続終了しました。録画データは……室長に消せって言われたら、消します」
「まだ、何も言ってないんですか」
「はい。まだです」
スピーカーが切れた。俺は黒い画面に映った自分の顔を見た。平凡な顔。地下鉄で向かいに座っていても、覚えていられないような顔。
七番目も、この顔だった。
* * *
彼がベッドの下に彫った三文字は、彼が自分自身に処方した、たったひとつの薬だった。
一か月間、効いた。我々がこしらえたどんな奇跡よりも、長くもった。




