第2話 時間
その夜、俺は白い部屋の隣の、白い部屋で寝た。
ベッドがひとつ、便器がひとつ、洗面台がひとつ。鏡はなかった。洗面台の上の壁に、ネジ穴が四つ残っていた。取り外したほうだ。
午前三時に目が覚めた。魔王軍の夜襲は、たいてい午前三時に来た。11年間、その時刻になると目が覚め、俺は暗闇の中で剣の柄を探った。今回も、手に触れたのは薄い毛布の端だった。
この部屋は静かだった。耳を澄ますと、自分の心臓の音が聞こえた。それ以外は、何も。
その静けさが気に入った。向こうの夜はいつだって、何かが這い寄ってくる音で満ちていた。
* * *
朝八時、彼女がトレイを持って入ってきた。
グレーのスウェット姿で、目の下が黒ずんでいた。トレイをベッドの端に置くと、すぐにドア枠まで下がった。背中をドア枠にぴったりつける。右手はポケットの中だ。
トレイには白いご飯、わかめスープ、卵焼き、キムチ。11年ぶりのわかめスープだった。スプーンでひと口すくった。
しょっぱかった。しょっぱすぎて、涙が出た。
彼女はドア枠にもたれたまま、ただ俺を見ていた。目を逸らさなかった。代わりに、左手のクリップボードに何かチェックを入れた。あとでそのクリップボードをこっそり覗いたら、ある項目に印がついていた。
□対象が泣いた場合:ティッシュを提供(距離2mを保持、投擲可)
彼女はティッシュを投げなかった。俺は袖で目を拭った。
「食べ終わったら、お話があります」
「どうぞ」
「今日は半径10キロ以内に人がいません。私とあなた、それから上にいる観測要員二名を除いて。周辺の集落は二日前から、『非公開の軍・警察合同訓練』という名目で退避させています」
彼女は少し言葉を切った。
「訂正します。お一人、牛を置いては行けないと粘った方がいました。結局、牛は置いていかれました。ですから半径10キロ以内には、人間が四人と牛が一頭います」
「牛は大丈夫なんですか」
「牛は人間ではないので大丈夫です。七件の事例で、動物が帰還者を怖がった記録はありません」
赤羽のあの家に犬がいなかったのは、幸いだったのか残念だったのか、俺は少し考えた。
「崩れそうなものは全部撤去しました。七人のうち一人は、初めて能力を使った日に半径2キロ以内のガラスをすべて割りました。別の一人は、無自覚に貯水池をひとつ蒸発させています。なので今は、最初からこうしているんです」
彼女はポケットから手のひらサイズのレコーダーを取り出した。赤いランプが点いている。
「あなたの能力を説明してください」
* * *
しばらく黙っていた。どう説明すればいいのか、わからなかったからだ。
向こうでは説明の必要がなかった。勇者には神の加護がある。誰もがそう思っていた。加護とは何かなんて、問いただす者はいなかった。太陽がなぜ昇るのかを問わないのと同じように。
「俺は、時間を止められます」
彼女は左手の親指で、レコーダーの側面を一度押した。
「他には?」
「ここでは使えないみたいです。向こうでは火も扱えたし、傷も少しは治せたんですが、戻ってきて試したら指先から何も出ません。日本の警察署の留置場で試しました。巡査には、外国人が壁に向かって手のひらをこすり合わせているようにしか見えなかったでしょうね」
「記録にあります。『被疑者、壁に向かって祈る』」
「祈ってません」
「知っています」
彼女はまたボタンを押した。
「時間停止は?」
「できます。留置場で一回。止めたまま三十秒くらい座っていて、解除しました」
「なぜ何もしなかったんですか。逃げることもできたはずです」
「どこへ」
彼女は答えなかった。
俺は嘘をつかないことにした。あのレコーダーと、鏡の向こうの観測要員たちが、俺の言葉を百回は聞き返すだろう。最初から正確に話したほうがいい。
「訂正します。正確には、止めるんじゃありません。時間を扱えるんです。止めるのはその中でいちばん簡単なやり方です。遅くすることもできるし、ほんの短い時間なら巻き戻すこともできる。矢が飛んできたら止めて、避けて、また流す。魔王の最後の一撃も、そうやってかわしました。一秒を十回巻き戻して」
彼女の親指がボタンの上で止まった。押さなかった。
「巻き戻す、ですか」
「一秒、長くて二秒です。それ以上は試したことがありません」
「試したことがないんですか。それとも、できないんですか」
答えられなかった。その違いを考えたことがなかった。
* * *
「見せていただけますか。そのために10キロを空けたんです。牛一頭を除いて」
俺はうなずいた。
向こうで、年老いた司祭が教えてくれたやり方がある。目を閉じて、いま聞こえる音の中からいちばん小さな音を探せ。その音が次の拍子へ進めないように、つかまえておけ。
この部屋でいちばん小さな音は、レコーダーだった。蚊の羽音より小さな電子音。
俺はその音をつかまえた。
世界が止まった。
* * *
止まった世界は、いつも少し青い。あらゆるものの輪郭が、ごく薄い青い膜に覆われる。向こうの人間はそれを神の吐息と呼んだ。時間が息を止めると、世界は青ざめるのだと。
俺はベッドから立ち上がった。
彼女はドア枠にもたれたまま固まっていた。レコーダーを握った左手は胸の高さで止まり、右手はポケットに半分入りかけていた。薬のケースを取り出そうとしていたのだ。
近づいて、彼女の顔を見た。昨日は平静さの裏に隠れていたものが、止まった時間の中では隠れる場所を失っていた。口の端が下に引きつっている。下唇を歯で噛んでいて、血が一滴にじむ寸前だった。
その顔を、俺は向こうで見たことがある。魔王軍に村を奪われた老婆が、捕虜になった魔王軍の将校の前に立ったときだ。老婆は将校を殴らなかった。ただ、その顔で立っていた。将校はその夜、自分で舌を噛んだ。
彼女の瞳を覗き込んだ。そこに映っていたのは、三十八歳の痩せた男だった。それだけだった。けれど、彼女が見ているのはそれではない。
俺はテーブルへ行き、ボトルを取って紙コップに水を注いだ。止まった世界では、水は妙な流れ方をする。ボトルの口を離れた水の筋が空中で半分固まっていて、俺の手が近づくとようやく流れ落ちる。俺のまわり、手のひらひとつ分だけ時間が流れているからだ。
コップを満たして、ボトルを元の場所に戻した。
彼女の前に戻って立った。血がにじみかけた下唇を見た。手を伸ばしかけて、引っ込めた。これは彼女が許したことじゃない。
一度、鏡のほうを見た。鏡の向こうは見えない。ただ天井の換気口の隙間に、上の観測室から落ちてきたらしいカップ麺の麺が一本、宙に止まっていた。誰かがこの瞬間を待ちながら、朝飯を食っていたのだ。
俺はベッドに戻り、最初とまったく同じ姿勢で座った。
そして、レコーダーの音を放した。
* * *
彼女が大きく息を吸った。そして、テーブルを見た。
紙コップに、水がなみなみと入っていた。
「何秒かかりましたか」
「俺にとっては二分くらい。そっちにとってはゼロ秒でしょう」
「ゼロ秒ではありません」
彼女がレコーダーの画面をこちらに向けた。録音時間の下で、小さな文字が点滅していた。
SYNC ERROR -00:00:00.31
「0.31秒です。マイナスの」
彼女が言った。
「このレコーダーは衛星時刻と同期しています。あなたが時間を止めて解除したとき、このレコーダーは衛星より0.31秒遅れました。止めたのではありません。あなたはこの部屋の時間を、後ろへ引き戻したんです。ほんの少しだけ」
「知りませんでした」
「そうですか」
上の階でドンと音がした。続いて、誰かが低く毒づく声。カップ麺がひっくり返ったらしい。
彼女は天井を一度見上げると、黙ってテーブルまで歩いてきて紙コップを取った。水をひと口飲む。それから薬のケースから錠剤をひとつ出して、その水で飲み込んだ。
「ありがとうございます。水なしで飲むのはつらいので」
* * *
彼女は椅子を引いて、テーブルの角に斜めに腰かけた。俺と正面から向き合わない位置だった。
「ひとつ質問してもいいですか」
「どうぞ」
「俺は、何に見えてるんですか」
「お答えしません」
即答だった。今回も用意された文章だ。
「七番目の方と約束したんです。次に来る人には絶対に言わないでくれ、と。自分が何に見えているかを知った瞬間から、人はそれになっていくから、と」
彼女は少し間を置いて、付け加えた。
「七番目の方は、知ってしまいました。私が言ってしまったので。だから今、ここにはいらっしゃいません」
五人は死に、一人は刑務所に、一人は管理中だと言っていた。七番目はそのどれなのか。訊かなかった。彼女の下唇に、さっき止まった時間の中で見た痕があった。今度は、血がにじんでいた。
彼女は茶色のファイルを一冊取り出した。角がすり切れている。手のひらで押して、俺のほうへ滑らせた。
「0.31秒を巻き戻せる人なら、まずこれを読むべきです」
表紙には、手書きで数行が記されていた。
管理番号KR-06――六番目
分類:自然転移にあらず(強制固定の疑い)
能力:音声の直接伝達(推定)
状態:死亡
備考:外部呼称「偽キリスト」
「偽キリスト」
「本人がつけた名前ではありません。記事の見出しです。本人は最後まで、自分は普通の人間だと言い張っていました」
彼女は立ち上がり、ドアのほうへ歩いた。
「その方の能力も、最初はとても小さかったんです。あなたの0.31秒のように。でも、減らなかった。1年経っても、2年経っても。むしろ大きくなりました。最後には、数千人の頭の中に同時に話しかけることができました」
ドアノブに手をかけて、彼女が振り返った。俺の左肩の向こうの、どこかを見ていた。
「1年経てば消えると申し上げたのを、覚えていますか。あの方の場合は、消えませんでした」
1年。妻のところへ行ける日。
「あの方も、最初はこう言っていました。試したことがないのか、できないのか、わからないと」
ドアが閉まった。
俺は茶色のファイルを開いた。一枚目は手書きだった。ボールペンの跡が、紙の裏まで染みていた。
最近、足がすごく痛いんです。
* * *
彼が止めた世界で、我々はあの部屋の隅に立っていた。彼には我々が見えなかった。彼が止めたのはページで、我々はページの外にいたのだから。
彼が女の唇に手を伸ばし、引っ込めたとき、我々のうちの一人が笑った。
その笑いが誰のものだったのかを知るのは、ずっと後のことになる。




